(13)

「あれもこれも思い悩んで、人間様はご苦労なことだな」

 事務所に戻ってからしばらく。
 黙々と手帳に向かう暁に、烏丸がつまらなそうに悪態を吐く。

 はいはいと聞き流しつつ、暁は先ほどカミキリに聞いたことを思い返した。

 カミキリ少女も、琴美に対する嫌がらせのことは把握していた。
 時折、琴美の心労を案じて不審者を探ったこともあるらしいが、結局それらしい者は見つからなかったのだという。

「カミキリちゃんがあの美容室をうろついていたなら、琴美さんの嫌がらせ犯も目撃していないかと思ったんだけどね」
「そう簡単にいけば、お前の商売もあがったりだろ」
「ふは。確かに」

 とはいえ、密かに期待していた証言は得られなかった。
 となると、次の手立てを考えるほかない。

「でも、カミキリちゃんには感謝だよ。色々と有益なことは聞くことができたからね」

 静かに手帳を見つめる暁に、烏丸はそれ以上口を開くことはしなかった。
 先ほど、暁がカミキリに向けた質問は三つだ。

 一つ目は、美容室周辺で不審者を目撃したことはなかったか。
 二つ目は、カミキリが琴美の美容室に通い始めたのはいつ頃か。

 そして三つ目は──『カミキリは最近、誰かの髪を切ったことはないか』だ。

「ふー。疲れたあ」

 作業を一区切りつけると同時に、どっと体が重くなる。
 ここはコーヒーの出番だ。ふらふらと事務書奥の給湯室へ向かうと、暁はポットの電源を入れた。

「ね。烏丸にも、憧れの存在っているの」
「なんだ、藪から棒に」
「いや。カミキリちゃんが言ってたでしょう。琴美さんを始め、美容師の人はみんな自分の憧れだって」

 喫茶店で話したときも、質問事項以外はただひたすらに美容師への思いの丈を話していた。
 普段周囲に、このような話をできる者が少ないのかもしれない。

「カミキリちゃんも、本当に瞳をキラキラさせてた。憧れの人がいると、辛いときも力が出るよねえ」
「まるで自分にも、憧れの対象がいるような口ぶりだな」
「いるよ? 保江姉さん」

 烏丸の瞳が、僅かに見開いた。

「自分で言うのもなんだけど、私って小さいときから問題児でね。感情の起伏が激しいし、気にくわない奴にはしょっちゅう手え出すし、家では厄介者扱いだった」
「……」
「今思えばあの家から逃れたいっていう、子どもながらの抵抗だったんだけど。それでも姉さんだけはいつも優しくて温かくて……本当に大好きだった。もちろん、今でもね」

 保江の微笑みは、暁の記憶に強く焼き付いている。

 どんな感情にあっても、その笑顔を脳裏に見るだけですっと芯が通る気がしていた。
 あの笑顔に恥じる生き方はしたくない、と。

「千晶の奴も、あの女には絶大な信頼を置いていたな」
「そりゃ、千晶にとっては唯一無二のお母さんだもん。信頼して当たり前じゃない」
「……あれも、随分と買い被られたものだ」

 それはどこか含みのある、皮肉めいた言葉だった。

 思わず眉を寄せ視線を向けた暁だったが、そのまま動きを止めた。
 コーヒーのついでに淹れてきたホットミルクが、盆の上でたぷんと波打つ。

 烏丸が浮かべていた表情は、予想していたものとは真逆だった。

 昔を懐古するように、静かに微笑する横顔。
 まるで春の木漏れ日のように儚いそれは、穏やかで優しくて、哀しい。

「……烏丸?」
「なんだ」
「あ、ううん。なんでもない」

 怪訝そうな顔を向けられ、暁は早々に話を切った。

 隣に腰を下ろし、特に会話はないながらも共に時間を有する。
 ホットミルクを無表情で喉に通す烏丸はいつも通りだ。それなら何も問題ない。ただ。

「一人じゃないからね」

 さっき垣間見た横顔が、まるで泣いているように見えたから。

「……は?」
「千晶も烏丸も、一人じゃないからね」

 この二人は、共にありながら時折酷く孤独に浸った目をする。

 人の家に転がり込んでおいて、人の日常に有無を言わさず入り込んでおいて。それはあんまりじゃないか。
 テーブルに置いたままのコーヒーの湯気をぼうっと見送る。
 ゆらゆら、ゆらゆら。

「烏丸には、千晶がいるから。それに、今は私も」
「お前」
「だから」

 一人で寂しそうな顔、しないでね。

 最後まで言葉になったのかはわからない。
 湯気が部屋のどこかへ消えていくように、暁のまぶたは重力に従ってそっと下ろされた。
 そういえば、午前中に一人で体力仕事をこなしたんだっけ……。

「おい」「寝たのか」「業務時間内だろ」「起きろこら」いつの間にか右こめかみに触れた温もりを感じながら、暁は眠りの世界に落ちていく。

「……警戒心皆無じゃねえか。この馬鹿」

 最後に囁かれた言葉は、理解が及ぶより早く睡魔に溶かされていった。