(5)

 思いがけないトーンで返され、すぐには言葉が出なかった。
 何度か頭の中でリフレインした言葉は大した咀嚼できないまま、暁の鼓膜に薄い痕を残す。

「もしものこと、なんて」
「母さんが逝ったときも、あっという間だった。万一アキちゃんがいなくなったら、俺の味方が本当にいなくなる。そしたらもう俺、人間として生きる意味もなくなっちゃうよ」
「なにを」

 なにを、言っているの。

 そう言いたかった。真意を問いただしたかった。
 甥が伝えたいと思っていることを、正確につかみ取ってあげるために。

 しかし、寂しさに満ちた微笑みを前に、下手な言葉は逆効果のような気がした。
 妙な沈黙が落ちた食卓には、フレンチトーストを黙々と放り込む烏丸の食器音だけが小さく響く。

「俺のこと、おいていかないでね」

 そっとテーブル上に差し出されたのは、小指が立てられた千晶の手だった。

「約束して」
「千晶」
「お願い。アキちゃん」

 乞うような口調に、まっすぐ注がれた強い眼差し。

 引き寄せられるように差し出した暁の小指に、千晶のそれがそっと絡まる。
 いつもは子ども体温のはずなのに、その指先は妙にひんやりと冷たかった。



「あいつはもう寝たのか」

 ダイニングテーブルでパソコンと向き合っていると、寝床についていたはずの烏丸が唐突に現れた。
 ちなみに彼の寝床とはこの建物の屋根の上だ。

「千晶はもう寝室だよ。もしかして烏丸も、家の中で寝る気になった?」
「違う。人間の家でなんて熟睡できるか」
「それじゃ、小腹でも減った?」
「違う」
「……そう?」

 烏丸はそれきり話さず、暁から少し離れたリビングソファーに腰を下ろす。
 そんな様子を視界にとめた暁は、残りの仕事をやっつけてパソコンを閉じた。ふうと一息つき、改めて口を開く。

「それじゃあ、何か話があるってことだね。私に」

 わざわざ千晶が就寝したあとに、一体なんの話題だろうか。

「日中訪れた依頼主の女から、かすかにあやかしの気配を感じた」
「え?」
「ほんの僅かだがな。案件に関与しているのかも、今の段階ではわからん」

 思いもよらない情報だった。
 琴美にあやかしの気配を感じた。それはつまり、今回の嫌がらせにあやかしが関わっている可能性があるということか。

「今までもあやかしに出くわしてきたが、それは全て依頼主としてだ。今回のあやかしの性根如何では今回の仕事、相当に面倒なことになるだろうな」
「……確かに」

 正論だった。
 猫又の恩返し以降、暁はあやかしが依頼主の案件をすでに数件こなしてきた。
 しかし、それは全てあやかしが依頼主側。その思考も目的も共有した上で関わることができたし、友好的なあやかしばかりだった。

 最初から敵意をむき出しに現れたあやかしは、まだ一人もいない。……目の前の烏丸を除いては。

「協力してほしい、と言ってみろ」

 思考を巡らせる暁の耳に、その言葉は届いた。

「……へ?」
「正式に願い出るつもりがあるのなら、お前の稼業、手伝わないこともない。俺が満足いく頭の下げ方を、お前が知っていればだがな」

 片足を座面に上げソファーの背もたれに片肘をついた烏丸が、にやりと口角を上げてこちらを見やる。

 今、寝室に続く扉は閉じていた。
 最低限の照明のみの薄暗い状況も相まって、細められた金の瞳がやけに妖しい光を放っている。
 暁は烏丸の提案をゆっくり飲み込んだあと、烏丸の方へ歩みを進めた。

「烏丸」
「なんだ」

 烏丸はどこか愉しげに答える。暁はソファーの隣に静かに腰を下ろすと、次の言葉を待つ男と向き合った。

「ありがとう、烏丸」
「……は?」
「烏丸がそんなことを言ってくれるなんて思わなかった。私、嫌われてるみたいだったし」

 どうやら男が欲していた言葉と大きく乖離していたらしい。
 徐々に不遜な笑みが消え、眉間にはいつものしわが刻まれていった。

「何言ってんだ。誰がお前を好いていると言った」
「うん。私じゃなくて、千晶のためでしょう?」
「はあ?」

 今度は烏丸の意表を突かれる番だったらしい。
 もしかして、自分でも気づいていなかったのだろうか。

「わざわざあやかしの気配を忠告してくれたのも、手伝いを願い出てくれたのも。千晶に心配を掛けたくないからでしょう? そうじゃなかったら、私の仕事に手出しする理由はないもんね」
「何言ってんだ? 別に、俺は」
「いいの。ただ……ありがとう。私の甥っ子を、大切に思ってくれて」

 噛みしめるように告げ、烏丸の手をそっと掴む。
 瞬間、烏丸の金目が僅かに見開かれた。触れた感触は先ほどの千晶に似て、どこかひんやりと冷たい。

「仮にあやかしが関係しているなら、やっぱり私も烏丸に側にいてほしい。さっき、心配性な甥っ子とも約束しちゃったしね」

 馬鹿な約束をしたと、自分でも思う。

 守ろうとして守れる約束ではないことは重々承知だった。
 そうでなければ、保江が幼い千晶を残してこの世を去るなんてことは、そもそも有り得ないのだ。

 ただ、そうとわかっていても思ってしまったのだ。
 応えたい──と。

 自分でも驚くほどに、強く強く。

「烏丸になるべく迷惑を掛けないように、私も気をつける。だから、どうか私に協力してください。よろしくお願いします」

 暁はそう告げると、深々と頭を下げた。

「……」
「……」
「……烏丸?」

 不自然なほどの沈黙にようやく気づき、暁はそろりと頭を上げる。
 同時につないだままになっていた手がぱっと離された。

「っ……、なんだ」

 それはこっちの台詞ではないだろうか。
 相変わらず眉間にしわが寄ったままの烏丸に、暁は首を傾げる。

「あ、もしかして今のじゃ足りなかった? カラス業界では普通に土下座も必要?」
「お前……俺とカラスをなんだと思っている」
「いやだって、応とも否とも返ってこないから」