(17)
「ん。そうだよ」
振り返ることなく答える。寝室のチェストの写真を見て言っているんだろう。この部屋には他の写真は飾っていない。
「こうして見ると、やっぱり保江姉さんと千晶はよく似てるよね」
「ああ。お前とはまったく似ておらん」
「はいはい。不細工で申し訳ございませんでした」
幼少期から数え切れなほど投げつけられた言葉だ。
棒読みでへりくだってみたが、それでも一応満足らしい。
「まあそれでも、まったく見込みがない訳ではないがな」
「見込み?」
「俺が起こした強風も、あの場にいた人間の中ではお前が真っ先に気づいた。脆弱なりに、それなりの勘は働くらしい」
「……あ。じゃあ、あの時のつむじ風を起こしたのって」
肯定するように小さく鼻を鳴らす。
そんな烏丸に、暁は堪えきれず大きなため息をついた。百歳越えの子どもか。
「随分なご挨拶だこと」
「安心するがいい。もう無駄に手出しするつもりはない。しばらくは、な」
しばらくは、ね。くわばらくわばら。
「それじゃあ私は、事務所に出るよ」
暁は一応スペアの家鍵を食卓に置いて、事務所へと降りていく。
一階の事務所は、当然ながら普段と何も変わらない。
昨日あんな非日常な騒動があったとは到底思えない、いつも通りの風景だった。
「さーて。今日も一日お仕事頑張りますかーっと……、ん?」
小さな違和感を感じ、暁は扉を見た。
ノック音ではない。
しかし扉前に何者かが佇む気配がかすかに届いた。
時刻は十時。開所時間ぴったりだ。緊急の依頼主だろうか。
「お待たせしました。どうぞ中へ」
扉を開けて告げた暁は、瞳を大きく見開いた。
見知った高校の制服に身を包んだその男子生徒には、見覚えがあった。
「あなたは……」
「七々扇、暁さん」
ごくりと唾を飲むよりも、目の前の少年の動きのほうが早かった。
素早く少年の体が事務所内に入りこみ、後ろ手で素早く扉を閉める。
次の瞬間、少年はがばっと深々頭を下げた。
垣間見える彼のバックポケットには、蛍光イエローのラインが入った薄い財布が収められている。
千晶の入学手続きで高校を訪れた際、声をかけてきた少年だった。
「ありがとう、ございました! 母親に……俺のしでかしたこと、内緒にしてくださって……!」
「……」
ああ。やっぱり気づかれていたか。
先日とある女性から受けた、自身の「息子」が受けている痴漢被害の解決依頼。
しかしその真実は、被害者自身もその行為を了承をしていた──同意に基づくものだった。
被害者がいつも自ら人目につかない立ち位置を取っていたこと。
痴漢が訪れないときに見せていた微妙な表情。
その他、数日状況を観察して垣間見えた諸々の状況。
痴漢犯人自身からの供述は信憑性の問題もありあまり考慮に値しないが、最後の駄目押し程度にはなった。
痴漢の犯人は暁なりの厳重注意に留めた。
被害の詳細について依頼主に説明することはしなかった。
全ては、ただ痴漢被害から息子を解放してあげたいという、依頼主の意向に沿った結果だ。
もしかしたら依頼主も、何か思うところがあったのかもしれない。
「……君のお母さん、最近君と夜ご飯を一緒に取れないのが寂しいと言っていたよ」
目が覚めるように、少年の目がはっと開かれた。
「せめて今日くらいは、同じ食卓についてあげてくださいね」
「……はいっ」
再び頭を下げると、少年は事務所を出て行った。
千晶と同じ高校ならすでに授業が始まっている時間帯だ。
千晶が確実に不在な時を見計らったのだろう。
正直、他の相手を見繕い再び「被害」を起こす可能性も否定できないと思っていた。
でもきっともう大丈夫だろう。最後に見た少年の顔には、何かを吹っ切ったような爽やかな笑顔が浮かんでいた。
「さーて。今度こそお仕事頑張りますかーっと……、ん?」
再び、小さな違和感を感じ、暁は扉を見た。
ノック音ではない。
しかし扉前に何者かが佇む気配がかすかに届いた。続けざまに依頼主だろうか。
「お待たせしました。どうぞ中へ」
扉を開けて告げた暁は、再度瞳を大きく見開いた。
人はいない。しかし代わりに、足元に大きな段ボール箱がひとつ佇んでいた。
なんだこれ。
危険物だろうか。そっと耳を澄ませてみるが、妙な音はない。
どうしたものかと唸っていると、背後から至極冷静に「邪魔だな」と声が投げられた。
「呆けてないで、さっさとそのどでかい箱を中に引き入れたらどうだ。商店街の道を塞いで大迷惑だ」
「ああ、確かにそうだね」
いつの間にか一階に降りてきていたらしい。
烏丸の常識的な指摘に、暁は素直に従った。
意を決して持ち上げようとすると、想像以上にずっしりと重い。
暁はあれこれ体勢を整えると、腰を折ってゆっくり持ち上げた。ソファーで優雅に足を組む烏丸を横目に、大かごを机の上に不時着させる。
依頼主のお礼の品。
新手の嫌がらせ。送りつけ商法。もしかしたら、千晶を早くも見初めた誰かさんからの、アプローチの品かもしれない。
いずれにせよ中身を確認しないことには。
段ボール箱に貼られたテープを定規の端で裂くと、暁は中身を揺らさないようそっと蓋を開いた。
「……え?」
開けてすぐ目に飛び込んできたものは、瑞々しい野菜の山だった。
鮮やかな彩りが揃えられた中には、真っ赤なトマトや濃緑のきゅうりが所狭しと詰められている。
もしや今日にでも、農家の方から害虫駆除の依頼がくるのかもしれない。これはその前金だろうか。
「あ、手紙」
かごの中にこっそり埋められた紙切れに気づく。
手紙に記された文字は、丸みを帯びたとても可愛らしい文字だった。
やさいをだめにしてごめんなさい。
たすけてくれてありがとう。
おばあちゃんに、おねえさんはなんでもやさんとききました。
「仲間にも何でも屋さんのこと、たくさん宣伝しておきます。かしこ──って。え。え?」
かしこ、の言葉の末尾には、擦れたような図形がくしゃりと押されている。
芋版でもない。なんだこれは。
「何かの前足、か?」
「猫又だな」
あっさり言い放ったのは烏丸だった。
確かに言われてみると、その形は猫の足跡に見えなくもない。
「猫又は、永く生きた猫が妖力を蓄えた結果、尾を複数にわけるに至ったあやかしだ。人間が描く者の大多数は二本だがな」
「あ、うん。それはなんとなくわかっているけど……え? どうして猫又からこんなに野菜が」
その時脳裏に過ったのは、馴染みの依頼主の家で語らった化け猫の姿。優雅な佇まいの彼女はこう言っていた。
「同種がお主の購入した食料に手を出したらしいな。近々詫びに向かわせる」──と。
「……被害に遭ったのは、トマトときゅうりだけだったんだけどな」
トラックに踏み潰されてしまった倍以上の量がひしめき合うかごを眺め、心に温かなものが沸いてくる。
もしかすると、赤信号の飛び出しを引き止めた感謝も含まれているのかもしれない、と暁は思った。
「よかったな」
「ふふ。まあね」
「これでしばらく、仕事が途切れることはないだろうよ」
「……」
つい「まあね」なんて答えてしまった自分を呪った。
烏丸の暁に対する懐疑心が、パンケーキひとつで解消されるとは思えない。「よかったな」なんて、素直に喜びを共有するわけがないのだ。
「これからは人間のみならず、あやかしからも存分に依頼が舞い込むだろう。なにせ猫又は足も速ければ口も早い。事務所の宣伝部隊としてはまさにうってつけだ」
「……」
「いい機会だ。あの力を持て余す甥を守るつもりなら、それに群がるあやかしをもうまく懐柔するんだな」
鼻歌を歌い出しそうな声色を切ると、烏丸は音もなく姿を消した。最後に視界に掠めたのは、嘲る気持ちを隠さない妖しげな微笑みだった。
「……望むところだ」
現に、猫又の少女とだって、こうして心を通うことができたではないか。
人間とて邪な心を持つ者はごまんといる。それを見抜き、愚かな道への引導を渡さないこともよろず屋の腕の見せどころだ。
「ひとまずこれは野菜室。だな」
一息ついてそう呟くと、暁は段ボール箱をよいしょと再び持ち上げた。
「ん。そうだよ」
振り返ることなく答える。寝室のチェストの写真を見て言っているんだろう。この部屋には他の写真は飾っていない。
「こうして見ると、やっぱり保江姉さんと千晶はよく似てるよね」
「ああ。お前とはまったく似ておらん」
「はいはい。不細工で申し訳ございませんでした」
幼少期から数え切れなほど投げつけられた言葉だ。
棒読みでへりくだってみたが、それでも一応満足らしい。
「まあそれでも、まったく見込みがない訳ではないがな」
「見込み?」
「俺が起こした強風も、あの場にいた人間の中ではお前が真っ先に気づいた。脆弱なりに、それなりの勘は働くらしい」
「……あ。じゃあ、あの時のつむじ風を起こしたのって」
肯定するように小さく鼻を鳴らす。
そんな烏丸に、暁は堪えきれず大きなため息をついた。百歳越えの子どもか。
「随分なご挨拶だこと」
「安心するがいい。もう無駄に手出しするつもりはない。しばらくは、な」
しばらくは、ね。くわばらくわばら。
「それじゃあ私は、事務所に出るよ」
暁は一応スペアの家鍵を食卓に置いて、事務所へと降りていく。
一階の事務所は、当然ながら普段と何も変わらない。
昨日あんな非日常な騒動があったとは到底思えない、いつも通りの風景だった。
「さーて。今日も一日お仕事頑張りますかーっと……、ん?」
小さな違和感を感じ、暁は扉を見た。
ノック音ではない。
しかし扉前に何者かが佇む気配がかすかに届いた。
時刻は十時。開所時間ぴったりだ。緊急の依頼主だろうか。
「お待たせしました。どうぞ中へ」
扉を開けて告げた暁は、瞳を大きく見開いた。
見知った高校の制服に身を包んだその男子生徒には、見覚えがあった。
「あなたは……」
「七々扇、暁さん」
ごくりと唾を飲むよりも、目の前の少年の動きのほうが早かった。
素早く少年の体が事務所内に入りこみ、後ろ手で素早く扉を閉める。
次の瞬間、少年はがばっと深々頭を下げた。
垣間見える彼のバックポケットには、蛍光イエローのラインが入った薄い財布が収められている。
千晶の入学手続きで高校を訪れた際、声をかけてきた少年だった。
「ありがとう、ございました! 母親に……俺のしでかしたこと、内緒にしてくださって……!」
「……」
ああ。やっぱり気づかれていたか。
先日とある女性から受けた、自身の「息子」が受けている痴漢被害の解決依頼。
しかしその真実は、被害者自身もその行為を了承をしていた──同意に基づくものだった。
被害者がいつも自ら人目につかない立ち位置を取っていたこと。
痴漢が訪れないときに見せていた微妙な表情。
その他、数日状況を観察して垣間見えた諸々の状況。
痴漢犯人自身からの供述は信憑性の問題もありあまり考慮に値しないが、最後の駄目押し程度にはなった。
痴漢の犯人は暁なりの厳重注意に留めた。
被害の詳細について依頼主に説明することはしなかった。
全ては、ただ痴漢被害から息子を解放してあげたいという、依頼主の意向に沿った結果だ。
もしかしたら依頼主も、何か思うところがあったのかもしれない。
「……君のお母さん、最近君と夜ご飯を一緒に取れないのが寂しいと言っていたよ」
目が覚めるように、少年の目がはっと開かれた。
「せめて今日くらいは、同じ食卓についてあげてくださいね」
「……はいっ」
再び頭を下げると、少年は事務所を出て行った。
千晶と同じ高校ならすでに授業が始まっている時間帯だ。
千晶が確実に不在な時を見計らったのだろう。
正直、他の相手を見繕い再び「被害」を起こす可能性も否定できないと思っていた。
でもきっともう大丈夫だろう。最後に見た少年の顔には、何かを吹っ切ったような爽やかな笑顔が浮かんでいた。
「さーて。今度こそお仕事頑張りますかーっと……、ん?」
再び、小さな違和感を感じ、暁は扉を見た。
ノック音ではない。
しかし扉前に何者かが佇む気配がかすかに届いた。続けざまに依頼主だろうか。
「お待たせしました。どうぞ中へ」
扉を開けて告げた暁は、再度瞳を大きく見開いた。
人はいない。しかし代わりに、足元に大きな段ボール箱がひとつ佇んでいた。
なんだこれ。
危険物だろうか。そっと耳を澄ませてみるが、妙な音はない。
どうしたものかと唸っていると、背後から至極冷静に「邪魔だな」と声が投げられた。
「呆けてないで、さっさとそのどでかい箱を中に引き入れたらどうだ。商店街の道を塞いで大迷惑だ」
「ああ、確かにそうだね」
いつの間にか一階に降りてきていたらしい。
烏丸の常識的な指摘に、暁は素直に従った。
意を決して持ち上げようとすると、想像以上にずっしりと重い。
暁はあれこれ体勢を整えると、腰を折ってゆっくり持ち上げた。ソファーで優雅に足を組む烏丸を横目に、大かごを机の上に不時着させる。
依頼主のお礼の品。
新手の嫌がらせ。送りつけ商法。もしかしたら、千晶を早くも見初めた誰かさんからの、アプローチの品かもしれない。
いずれにせよ中身を確認しないことには。
段ボール箱に貼られたテープを定規の端で裂くと、暁は中身を揺らさないようそっと蓋を開いた。
「……え?」
開けてすぐ目に飛び込んできたものは、瑞々しい野菜の山だった。
鮮やかな彩りが揃えられた中には、真っ赤なトマトや濃緑のきゅうりが所狭しと詰められている。
もしや今日にでも、農家の方から害虫駆除の依頼がくるのかもしれない。これはその前金だろうか。
「あ、手紙」
かごの中にこっそり埋められた紙切れに気づく。
手紙に記された文字は、丸みを帯びたとても可愛らしい文字だった。
やさいをだめにしてごめんなさい。
たすけてくれてありがとう。
おばあちゃんに、おねえさんはなんでもやさんとききました。
「仲間にも何でも屋さんのこと、たくさん宣伝しておきます。かしこ──って。え。え?」
かしこ、の言葉の末尾には、擦れたような図形がくしゃりと押されている。
芋版でもない。なんだこれは。
「何かの前足、か?」
「猫又だな」
あっさり言い放ったのは烏丸だった。
確かに言われてみると、その形は猫の足跡に見えなくもない。
「猫又は、永く生きた猫が妖力を蓄えた結果、尾を複数にわけるに至ったあやかしだ。人間が描く者の大多数は二本だがな」
「あ、うん。それはなんとなくわかっているけど……え? どうして猫又からこんなに野菜が」
その時脳裏に過ったのは、馴染みの依頼主の家で語らった化け猫の姿。優雅な佇まいの彼女はこう言っていた。
「同種がお主の購入した食料に手を出したらしいな。近々詫びに向かわせる」──と。
「……被害に遭ったのは、トマトときゅうりだけだったんだけどな」
トラックに踏み潰されてしまった倍以上の量がひしめき合うかごを眺め、心に温かなものが沸いてくる。
もしかすると、赤信号の飛び出しを引き止めた感謝も含まれているのかもしれない、と暁は思った。
「よかったな」
「ふふ。まあね」
「これでしばらく、仕事が途切れることはないだろうよ」
「……」
つい「まあね」なんて答えてしまった自分を呪った。
烏丸の暁に対する懐疑心が、パンケーキひとつで解消されるとは思えない。「よかったな」なんて、素直に喜びを共有するわけがないのだ。
「これからは人間のみならず、あやかしからも存分に依頼が舞い込むだろう。なにせ猫又は足も速ければ口も早い。事務所の宣伝部隊としてはまさにうってつけだ」
「……」
「いい機会だ。あの力を持て余す甥を守るつもりなら、それに群がるあやかしをもうまく懐柔するんだな」
鼻歌を歌い出しそうな声色を切ると、烏丸は音もなく姿を消した。最後に視界に掠めたのは、嘲る気持ちを隠さない妖しげな微笑みだった。
「……望むところだ」
現に、猫又の少女とだって、こうして心を通うことができたではないか。
人間とて邪な心を持つ者はごまんといる。それを見抜き、愚かな道への引導を渡さないこともよろず屋の腕の見せどころだ。
「ひとまずこれは野菜室。だな」
一息ついてそう呟くと、暁は段ボール箱をよいしょと再び持ち上げた。