(16)
「あれはただ見栄っ張りなだけだよ。俺とつるむようになって、人間の軽薄な口調が移ったって嫌そうにしてたから」
なるほど。こちらの方言が移ったみたいなものか。
それでも結局、口調が砕けるほどには信頼があるということなのだろう。
口元に笑みを浮かべた暁はベッドに潜り込むと、枕元のリモコンで部屋の明かりを消した。
「千晶は本当に大変だね。人間にも、動物にも、あやかしにもモテモテなんだから」
「ねー。ここまでモテると、困っちゃうよねえ」
同じベッドに横になっている千晶は、今日もこちらに背を向けている。
それは千晶なりの遠慮らしいので、暁は敢えてそれに触れることなく会話を続けた。
「私はそういう経験ないけど、一般的にはモテるのは嬉しいことなんじゃないの?」
「家を一歩出た瞬間、あやかしに左右の手を綱引きされたことある? 同級生に呼び出されたタイミングで、幼いあやかしに取り囲まれたこと、ある?」
「……大変だねえ、モテるのって」
でも、と暁は思う。
人間はともかく動物やあやかしにまで懐かれるということは、見目が優れているだけではない。
恐らくその不思議な力も含めた甥自身の心に、魅力があるということの証しなのだろう。
「ねえ、アキちゃん」
「うん?」
「俺の肩に、手を乗せてもらってもいい?」
「……うん?」
言われるままに、千晶の肩にそっと手を乗せる。するとすぐさま、千晶の手が重ねられた。無論、千晶の体は向こう側を向いたままだ。
「ありがと、ね」
きゅ、と千晶の手がかすかに暁の手を握る。
「今日事務所で、ここを『私たちの家』って言ってくれたでしょ」
烏丸に追い詰められて、啖呵を切ったときのことか。
「あれ、実はすごく嬉しかった。烏丸の前だから、わかりやすく喜べなかったけど」
「そっか」
「うん。そう」
握られた手に応えるように、暁も手にそっと力を込めた。
目の前の肩がほんのかすかに揺れる。それが微笑ましくて、暁は口元をふっと綻ばせた。
「アキちゃんと一緒にいると、取り繕ったり猫かぶるのを、うっかり忘れがちになるな」
猫かぶってたのかい、と暁は内心突っ込む。
しかし、別にそれを批判する気はない。
それは暁に決定的に欠けた、社会生活に必要な能力の一つなのだから。
「アキちゃんならきっと、いいことはいい、悪いことは悪いって、言ってくれる気がする」
「……今までは、違った?」
「うん。すごく偏った世界だった。あんまり偏りすぎて、酔いそうになるくらい」
淡々と答える千晶の言葉に、暁は胸の奥がつんと痛くなる。
その感覚は、若い自分が感じていたそれと似ているとわかったから。
「やっぱり、アキちゃんだったんだね」
「……うん?」
「なんでもない。ね、このまま手、つないでてもいい?」
「私は構わないけど。このままの体勢だと千晶のほうが辛いんじゃない? こっち向いたら?」
何の気なしにした提案に、目の前の背中がしばらく固まったのが見てとれた。何かおかしなことを言っただろうか。
「……はは。そういうわけにはいかない」
「そんな意固地にならなくても。寝る体勢を変えたところで、お互いのスペースは大して変わらないよ?」
「んー。でもねえ」
言い終わるや否や。唐突に目の前の背中がむくりと動きを見せると、布団が大きくめくり上がった。
あれよという間に手首をとらわれた暁は、そのまま両手首をベッドに押しつけられる。
固定する力は意外なほど重く、力強い。
「寝ぼけた頭で、目の前に可愛い誰かさんの寝顔があったとしたら……流石に危ないでしょ」
天井を向かされた暁の視界には、陰った中から見下ろす甥の姿があった。
「こう見えても俺、思春期真っ只中の男子高校生だから?」
「……」
思春期真っ只中の高校生とは到底思えない、甘く艶やかな囁き。
その声色が暁の耳を通った瞬間、部屋に弾けるような衝撃音がこだました。
同じ頃、屋根の上にとまった一羽のカラスが、愉快そうに肩を揺する影があった。
「あらあら千晶君! そのほっぺたどうしたのー。大丈夫?」
「おはようございます、喫茶店の華おばちゃん」
うららかな日差しが降り注ぐ翌日。
麗しの美少年の顔一部にこさえられた治療痕が、商店街ではちょっとしたニュースになった。
「なんでもないんですよー。夜中にちょっと、調子乗っちゃって」
「あらあそうなの? 若い子は力が有り余ってるのねえ。プロレスごっこでもしてたのかしら?」
「はは、そうですね。まあある意味プロレス」
「黙って千晶。おはよう華ちゃん」
圧をこめた視線から逃れるように、さくっと会話を打ち切った千晶は笑顔で登校していった。
その背中を睨むように見送った暁に、傍らでふふっと笑う声がする。
「華ちゃん?」
「仲良くやってるのねえ。華ちゃん安心しちゃったわ」
「はは」
昨夜、思わず甥をぶん殴った叔母になってしまったが、それも「仲良く」やってると言えるのだろうか。
叔母の上に急にまたがってくる甥が先行したのだから、まあ相殺案件か。
「……あれ。まだいたんだね」
「随分な反応だな小娘」
二階自宅部分に戻ると、烏丸がソファーの中央を陣取っていた。
すでに消えていると思っていた人物の姿に素直に驚く。
「いや。てっきり千晶の後を追って、君も高校に行ってると思ってたから」
「別に四六時中行動を共にしなければならないわけではない。あんな餓鬼の風呂やら不浄やらまで付き合ってられるか」
「……拘束とは」
「何か言ったか」
「いいえ何も」
二人を結ぶのは、随分と幅の広い「拘束」らしい。
突っ込むのを止めた暁は、ひとまず朝食の片付けに取りかかる。
皿洗いのためにシンク前に立つと、千晶を送り出すまでには食卓に置かれていた一枚の皿が、シンクにそっと置かれていることに気づいた。
食べてくれたのか。後ろを振り返ろうとして、やめた。
カチャカチャと皿を洗う音が部屋に小さく響く。
この時期になると、皿洗いに使う水はキンキンに冷たくするのが暁は好きだ。
朝から神経が研ぎ澄まされる感覚が、自然と仕事へのギアチェンジに繋がっていく気がする。
「あれは、千晶の母の写真か」
「あれはただ見栄っ張りなだけだよ。俺とつるむようになって、人間の軽薄な口調が移ったって嫌そうにしてたから」
なるほど。こちらの方言が移ったみたいなものか。
それでも結局、口調が砕けるほどには信頼があるということなのだろう。
口元に笑みを浮かべた暁はベッドに潜り込むと、枕元のリモコンで部屋の明かりを消した。
「千晶は本当に大変だね。人間にも、動物にも、あやかしにもモテモテなんだから」
「ねー。ここまでモテると、困っちゃうよねえ」
同じベッドに横になっている千晶は、今日もこちらに背を向けている。
それは千晶なりの遠慮らしいので、暁は敢えてそれに触れることなく会話を続けた。
「私はそういう経験ないけど、一般的にはモテるのは嬉しいことなんじゃないの?」
「家を一歩出た瞬間、あやかしに左右の手を綱引きされたことある? 同級生に呼び出されたタイミングで、幼いあやかしに取り囲まれたこと、ある?」
「……大変だねえ、モテるのって」
でも、と暁は思う。
人間はともかく動物やあやかしにまで懐かれるということは、見目が優れているだけではない。
恐らくその不思議な力も含めた甥自身の心に、魅力があるということの証しなのだろう。
「ねえ、アキちゃん」
「うん?」
「俺の肩に、手を乗せてもらってもいい?」
「……うん?」
言われるままに、千晶の肩にそっと手を乗せる。するとすぐさま、千晶の手が重ねられた。無論、千晶の体は向こう側を向いたままだ。
「ありがと、ね」
きゅ、と千晶の手がかすかに暁の手を握る。
「今日事務所で、ここを『私たちの家』って言ってくれたでしょ」
烏丸に追い詰められて、啖呵を切ったときのことか。
「あれ、実はすごく嬉しかった。烏丸の前だから、わかりやすく喜べなかったけど」
「そっか」
「うん。そう」
握られた手に応えるように、暁も手にそっと力を込めた。
目の前の肩がほんのかすかに揺れる。それが微笑ましくて、暁は口元をふっと綻ばせた。
「アキちゃんと一緒にいると、取り繕ったり猫かぶるのを、うっかり忘れがちになるな」
猫かぶってたのかい、と暁は内心突っ込む。
しかし、別にそれを批判する気はない。
それは暁に決定的に欠けた、社会生活に必要な能力の一つなのだから。
「アキちゃんならきっと、いいことはいい、悪いことは悪いって、言ってくれる気がする」
「……今までは、違った?」
「うん。すごく偏った世界だった。あんまり偏りすぎて、酔いそうになるくらい」
淡々と答える千晶の言葉に、暁は胸の奥がつんと痛くなる。
その感覚は、若い自分が感じていたそれと似ているとわかったから。
「やっぱり、アキちゃんだったんだね」
「……うん?」
「なんでもない。ね、このまま手、つないでてもいい?」
「私は構わないけど。このままの体勢だと千晶のほうが辛いんじゃない? こっち向いたら?」
何の気なしにした提案に、目の前の背中がしばらく固まったのが見てとれた。何かおかしなことを言っただろうか。
「……はは。そういうわけにはいかない」
「そんな意固地にならなくても。寝る体勢を変えたところで、お互いのスペースは大して変わらないよ?」
「んー。でもねえ」
言い終わるや否や。唐突に目の前の背中がむくりと動きを見せると、布団が大きくめくり上がった。
あれよという間に手首をとらわれた暁は、そのまま両手首をベッドに押しつけられる。
固定する力は意外なほど重く、力強い。
「寝ぼけた頭で、目の前に可愛い誰かさんの寝顔があったとしたら……流石に危ないでしょ」
天井を向かされた暁の視界には、陰った中から見下ろす甥の姿があった。
「こう見えても俺、思春期真っ只中の男子高校生だから?」
「……」
思春期真っ只中の高校生とは到底思えない、甘く艶やかな囁き。
その声色が暁の耳を通った瞬間、部屋に弾けるような衝撃音がこだました。
同じ頃、屋根の上にとまった一羽のカラスが、愉快そうに肩を揺する影があった。
「あらあら千晶君! そのほっぺたどうしたのー。大丈夫?」
「おはようございます、喫茶店の華おばちゃん」
うららかな日差しが降り注ぐ翌日。
麗しの美少年の顔一部にこさえられた治療痕が、商店街ではちょっとしたニュースになった。
「なんでもないんですよー。夜中にちょっと、調子乗っちゃって」
「あらあそうなの? 若い子は力が有り余ってるのねえ。プロレスごっこでもしてたのかしら?」
「はは、そうですね。まあある意味プロレス」
「黙って千晶。おはよう華ちゃん」
圧をこめた視線から逃れるように、さくっと会話を打ち切った千晶は笑顔で登校していった。
その背中を睨むように見送った暁に、傍らでふふっと笑う声がする。
「華ちゃん?」
「仲良くやってるのねえ。華ちゃん安心しちゃったわ」
「はは」
昨夜、思わず甥をぶん殴った叔母になってしまったが、それも「仲良く」やってると言えるのだろうか。
叔母の上に急にまたがってくる甥が先行したのだから、まあ相殺案件か。
「……あれ。まだいたんだね」
「随分な反応だな小娘」
二階自宅部分に戻ると、烏丸がソファーの中央を陣取っていた。
すでに消えていると思っていた人物の姿に素直に驚く。
「いや。てっきり千晶の後を追って、君も高校に行ってると思ってたから」
「別に四六時中行動を共にしなければならないわけではない。あんな餓鬼の風呂やら不浄やらまで付き合ってられるか」
「……拘束とは」
「何か言ったか」
「いいえ何も」
二人を結ぶのは、随分と幅の広い「拘束」らしい。
突っ込むのを止めた暁は、ひとまず朝食の片付けに取りかかる。
皿洗いのためにシンク前に立つと、千晶を送り出すまでには食卓に置かれていた一枚の皿が、シンクにそっと置かれていることに気づいた。
食べてくれたのか。後ろを振り返ろうとして、やめた。
カチャカチャと皿を洗う音が部屋に小さく響く。
この時期になると、皿洗いに使う水はキンキンに冷たくするのが暁は好きだ。
朝から神経が研ぎ澄まされる感覚が、自然と仕事へのギアチェンジに繋がっていく気がする。
「あれは、千晶の母の写真か」