(13)
その声が落ちると同時に、暗闇は一気に払われる。
唐突に辺りの光が舞い戻り、思わず暁はまぶたを閉じた。
慣らすようにそっと薄目を開けると、いつも見慣れた事務所の光景が戻っている。
ああ、戻った。戻ってきた。
よかった──。
声にならない声を発し、その場に腰を抜かした。
背後にソファーがあったため、ぼふんと大きな音を立てただけで済んだ。
怖かった。当たり前だ。啖呵を切った内容に偽りはなかったが、それとこれとは話が別なのだ。
急に震えてきた体に気づき、自身の両手を握りしめる。何度も息を長く吐き、どうにか早打ちの鼓動を落ち着かせた。
「……あれ? さっきの男は」
「うん。大丈夫、そこにいるよ」
朗らかな言葉の正体は、千晶だった。
千晶の指さす方向には、確かに先ほどの男がいる。
ただその姿は両手を天に向けた状態で、表情は不満げに唇を尖らせていた。
その手首を辺りに、電流のような閃光がかすかに見える。まるで電気の鎖に固定されてるようだ。でも、一体誰が?
「ただいま、アキちゃん」
「お、おかえり。ええっと」
「あれ、言わなかったっけ。今日は始業式だけだから、午前で家に帰るって話」
「あ、いや。その話はちゃんを聞いてたけれど……?」
まさに話の渦中の人物が朗らかに登場したことに、思考がうっかり停止した。
ああ、まずい。この男の狙いは千晶なのだ。
「っ、千晶、今すぐここから離れ……っ」
「ああ、大丈夫。もう、実験は十分だってさ」
「へ? 実験ってどういう……」
「だよね?」断言するように続けた千晶は、動きを止めたままの男とゆっくり向き合う。
「俺、言ったよね。アキちゃんはきっと大丈夫だから、変な手出しはしなくていいって」
甥の口から出た言葉に、暁は目を見開いた。自分には向けられたことのない、どこか冷めた声色に。
「裏では真逆の態度をとる者も吐いて捨てるほどいる。それはお前も、身をもって知っているはずだ」
「まあね。だからこそ、この人は大丈夫だと思えるんだよ」
「またお前の、確証のない勘か。くだらん」
「はいはい。言っとくけど次はないから。気をつけてね」
そう言うと、千晶はパンと手を叩く。
瞬間びゅっとつむじ風が吹き、男の姿が消えた。
慌てて辺りを見渡すと、男は先ほど案内したソファーに再び腰を下ろしていることに気づく。
しかし、その姿は先ほどまでと明らかに異なる点がある。男の背から、美しい漆黒の羽根が生えていたのだ。
印象としては、そう──カラスのような両翼が。
「言っておくが。俺はこの女を認めておらぬぞ、千晶」
「お前が認める必要はないよ。お前は今まで通り、ただ俺に憑いてくるだけ。でしょ?」
この男は、どうやらカラスの類いのあやかしらしい。
そういえば千晶はさっき「烏丸」と呼んでいた。つまりあれが男の名前か。
でもどうして、千晶がそんなことを知っている?
「この腹黒め」
「なんとでも。小鳥のマルちゃん」
「誰が小鳥だ! 俺は立派な成鳥の──」
「……あのー。もしもし」
その場の空気を裂くように、暁の手がまっすぐ上がった。
どうやら存在を忘れられていたらしい。「あ」と揃って振り返ってくる二人が、異様に腹立たしかった。
通常起きえない現象の数々にすっかり萎縮していた暁の頭脳が、ここにきてようやくひとつの推測を導き出す。
「とにかく……二階でじっくりお話を聞かせてもらおうか、お二人さん?」
「つまり──この烏丸は、長いこと千晶に憑いてきた旧知のあやかし、というわけね?」
「ん。つまりは、そういうことです」
「気安く呼び捨てるな。脆弱な人間の女が」
二階のリビングに場所を移したあと、昼食の準備をしつつあらかたの事情を聞き出した。
今日事務所を奇襲してきたこの男が、実は千晶の連れ添いのあやかしであったこと。
暁の人となりを判断するため、今まで姿を見せずにいたこと。
基本的に人を信じず、暁に対しても強い不信感を頂いていることも。
「私てっきり、千晶はあやかしの存在に気づくことなく、のんびり平和に過ごしてきたのかと思ってたよ」
「はは、さすがにそんなわけないよー。小学校に上がる頃には、道端のあやかしと日常会話する程度にはなってたかな」
ケタケタ笑う千晶に、変な気を回していた自分が滑稽に思えてくる。
つい最近、猫又と化け猫の違い云々を話に出してみたことを思い返した。
あのときはなんとも一般的な反応をしていたが、要するにあれも無知を装っていたらしい。
「ねえ、烏丸も席に着けばいいじゃん。そんなところでぷかぷか浮かんでないでさ」
先ほどから不満げにリビングの角で宙に浮いている烏丸に、千晶が声を掛ける。
翼はどこかへ収納済みだ。どうやら、翼がなくとも宙には浮けるらしい。
「信頼置けん者と、食卓など囲めるか」
「あーあ。相変わらず面倒なあやかしなんだからもー」
「……お前に面倒と言われたら終いだな」
その声が落ちると同時に、暗闇は一気に払われる。
唐突に辺りの光が舞い戻り、思わず暁はまぶたを閉じた。
慣らすようにそっと薄目を開けると、いつも見慣れた事務所の光景が戻っている。
ああ、戻った。戻ってきた。
よかった──。
声にならない声を発し、その場に腰を抜かした。
背後にソファーがあったため、ぼふんと大きな音を立てただけで済んだ。
怖かった。当たり前だ。啖呵を切った内容に偽りはなかったが、それとこれとは話が別なのだ。
急に震えてきた体に気づき、自身の両手を握りしめる。何度も息を長く吐き、どうにか早打ちの鼓動を落ち着かせた。
「……あれ? さっきの男は」
「うん。大丈夫、そこにいるよ」
朗らかな言葉の正体は、千晶だった。
千晶の指さす方向には、確かに先ほどの男がいる。
ただその姿は両手を天に向けた状態で、表情は不満げに唇を尖らせていた。
その手首を辺りに、電流のような閃光がかすかに見える。まるで電気の鎖に固定されてるようだ。でも、一体誰が?
「ただいま、アキちゃん」
「お、おかえり。ええっと」
「あれ、言わなかったっけ。今日は始業式だけだから、午前で家に帰るって話」
「あ、いや。その話はちゃんを聞いてたけれど……?」
まさに話の渦中の人物が朗らかに登場したことに、思考がうっかり停止した。
ああ、まずい。この男の狙いは千晶なのだ。
「っ、千晶、今すぐここから離れ……っ」
「ああ、大丈夫。もう、実験は十分だってさ」
「へ? 実験ってどういう……」
「だよね?」断言するように続けた千晶は、動きを止めたままの男とゆっくり向き合う。
「俺、言ったよね。アキちゃんはきっと大丈夫だから、変な手出しはしなくていいって」
甥の口から出た言葉に、暁は目を見開いた。自分には向けられたことのない、どこか冷めた声色に。
「裏では真逆の態度をとる者も吐いて捨てるほどいる。それはお前も、身をもって知っているはずだ」
「まあね。だからこそ、この人は大丈夫だと思えるんだよ」
「またお前の、確証のない勘か。くだらん」
「はいはい。言っとくけど次はないから。気をつけてね」
そう言うと、千晶はパンと手を叩く。
瞬間びゅっとつむじ風が吹き、男の姿が消えた。
慌てて辺りを見渡すと、男は先ほど案内したソファーに再び腰を下ろしていることに気づく。
しかし、その姿は先ほどまでと明らかに異なる点がある。男の背から、美しい漆黒の羽根が生えていたのだ。
印象としては、そう──カラスのような両翼が。
「言っておくが。俺はこの女を認めておらぬぞ、千晶」
「お前が認める必要はないよ。お前は今まで通り、ただ俺に憑いてくるだけ。でしょ?」
この男は、どうやらカラスの類いのあやかしらしい。
そういえば千晶はさっき「烏丸」と呼んでいた。つまりあれが男の名前か。
でもどうして、千晶がそんなことを知っている?
「この腹黒め」
「なんとでも。小鳥のマルちゃん」
「誰が小鳥だ! 俺は立派な成鳥の──」
「……あのー。もしもし」
その場の空気を裂くように、暁の手がまっすぐ上がった。
どうやら存在を忘れられていたらしい。「あ」と揃って振り返ってくる二人が、異様に腹立たしかった。
通常起きえない現象の数々にすっかり萎縮していた暁の頭脳が、ここにきてようやくひとつの推測を導き出す。
「とにかく……二階でじっくりお話を聞かせてもらおうか、お二人さん?」
「つまり──この烏丸は、長いこと千晶に憑いてきた旧知のあやかし、というわけね?」
「ん。つまりは、そういうことです」
「気安く呼び捨てるな。脆弱な人間の女が」
二階のリビングに場所を移したあと、昼食の準備をしつつあらかたの事情を聞き出した。
今日事務所を奇襲してきたこの男が、実は千晶の連れ添いのあやかしであったこと。
暁の人となりを判断するため、今まで姿を見せずにいたこと。
基本的に人を信じず、暁に対しても強い不信感を頂いていることも。
「私てっきり、千晶はあやかしの存在に気づくことなく、のんびり平和に過ごしてきたのかと思ってたよ」
「はは、さすがにそんなわけないよー。小学校に上がる頃には、道端のあやかしと日常会話する程度にはなってたかな」
ケタケタ笑う千晶に、変な気を回していた自分が滑稽に思えてくる。
つい最近、猫又と化け猫の違い云々を話に出してみたことを思い返した。
あのときはなんとも一般的な反応をしていたが、要するにあれも無知を装っていたらしい。
「ねえ、烏丸も席に着けばいいじゃん。そんなところでぷかぷか浮かんでないでさ」
先ほどから不満げにリビングの角で宙に浮いている烏丸に、千晶が声を掛ける。
翼はどこかへ収納済みだ。どうやら、翼がなくとも宙には浮けるらしい。
「信頼置けん者と、食卓など囲めるか」
「あーあ。相変わらず面倒なあやかしなんだからもー」
「……お前に面倒と言われたら終いだな」