俺らの関係に、名前はない。
 だけど俺は彼女のことを愛していたし、それは真実を知った後も変わりはしなかった。
ただ家に帰ると急にやるせない気持ちが爆発して、部屋に入った瞬間、勉強机のテーブルランプを無意味に破壊した。ガラスが弾け飛んだ時、荒れていた心をようやく落ち着けることができた。
明日からも、俺らは先輩後輩として振舞うことになる。唯一変わったことといえば、お互いに気持ちを伝えあったという事実があるだけだ。
不意にポケットの中の携帯が震える。取り出して確認すると、先ほど別れた彼女からメールが来ていた。

〈今日はとても楽しかったです。だけど、もし修一さんに好きな人が出来たら、その時は私のことを忘れてください〉

 すぐに、デートが楽しかったということをメールに打ち、後半の文面は無視して迷わず送信した。彼女以外の人を好きになるはずがないからだ。俺は、いずれ亡くなるかもしれない彼女に尽くすことを決めていた。
 傍目から見れば、俺らは明らかに付き合っているように見えただろう。生徒会の集まりがない日でも、毎日のように一緒に帰ったし、あの日からお互いのことを名前で呼ぶようになった。
 将人は、俺が莉奈と仲良くしているのを見て「ようやく俺の親友にも春が来たかー!」と両手を上げ、全身で喜びをあらわにしていた。一応、親友に嘘は吐けないから「そんなんじゃないよ」と、さりげなく本当のことを伝えた。
 新田は莉奈の病状を事前に把握していたらしい。彼女と仲直りをした時に教えてもらったようで、先輩には話さないでほしいと口止めされていたみたいだ。
 だから、新田には俺の方から本当のことを伝えた。「横センが辛くないですか?」と心配されたが首を振った。歪な関係だと理解はしていたけど、お互いになるべく後悔を減らすような選択は、これしかなかった。
 二人で一緒に帰る時、周りに誰もいなくなった瞬間を見計らって、莉奈が手を繋ぐことを求めてきた。俺はもちろん、拒んだりはしなかった。もうキスをした間柄だというのに、手のひらを差し出すと、おっかなびっくりといったようにそっと握ってくれた。
 すると莉奈はふにゃりと笑って。

「初めて男の人と手を繋ぎました」
「この前、公園で繋いだだろ」
「あの時のことはあまり覚えてないのでノーカンでお願いします。修一さんの手って、想像より大きいですね」

 好きな人が、そばにいて笑いかけてくれる。それは幸福を実感する瞬間で、事実俺も例に漏れず彼女のことを抱きしめたいという刹那的な衝動に駆られた。けれど一秒後には『こんなにも普通に見える女の子が二十歳まで生きられないかもしれない』という、どうしようもない事実を思い出して、勝手に心が沈んだ。
 今の俺にとって幸福と不幸は紙一重で、とても悲しいことに常に隣り合わせの存在だった。
 その日、俺は初めて莉奈を自宅へと招いた。彼女が来たいと言ったからだ。そこでやるべきことは、すでに決まっていた。

「私のことは気にせず、ちゃんと机に向かってください」

 無論、それは受験勉強だ。

「好きな女の子が、いつも俺の使っているベッドに寝転んで漫画読んでんだから、集中できるわけないだろ」
「仕方ないじゃないですか。最近、資源回収運動で忙しかったんですから」

 資源回収運動というのは、学校で頻繁に出るプリントなどをゴミ箱に捨てたりせず、回収して資金に変える取り組みのことだ。これはつい先日から始まったことで、もちろん発案者はベッドの上で漫画を読んでいる莉奈だ。前期は学園祭などの目玉行事もなく、生徒会としての活動も少なかったから提案を持ってきたらしい。
 先生からの前評判はよかったが、関係各所との打ち合わせでここ最近忙しかったのは確かだ。

「莉奈が見張ってなくても、俺はいつも夜に勉強してるよ」
「私は自分の目で見ないと信用できない人なんです。だからどうぞ勉強頑張ってください」

 思わずといったようにため息を吐く。彼女は強情で、それでいてわがままな人間だということに気付いたのはここ最近のことだ。だけどそれすらも愛おしいと感じてしまうのは、恋が俺の瞳を盲目にしているからなのかもしれない。
 仕方なく後ろの女の子から意識を外して、勉強に精を出すことに決めた。本当に人並みに勉強はしているけど、もし落ちてしまえば悲しむどころの騒ぎじゃなく、莉奈は自分のせいだと責めるだろう。
 そのせいで、残りどれだけ続くかわからない寿命がさらに縮まる可能性だってある。病は気からという、日本古来の言葉を信用するならだけど。
 しばらくノートに数式を書き込んでいると、さっきまで聞こえていたはずの気を使った押し殺すような笑い声が聞こえないことに気付いた。弾かれたように振り向いて容体を確認すると、漫画を開いたままベッドに横になって眠っていた。

「驚かせるなよ……」

 風邪を引かせるわけにはいかないから、タオルケットをそっと掛けてあげる。
 俺はいつまで、莉奈との時間を生きることができるんだろう。彼女からは、一緒にいるときに倒れたら真っ先に病院へ電話してほしいと言われている。次に入院することがあれば、それはもう確実に長期に渡っての治療になってしまうとも。
 彼女はまだ、高校二年。十六歳ということは、医者に宣告されている命の期限まで、あと四年しかない。余命宣告をされてそれ以上に長く生きたケースもあると聞くけれど、二十歳まで生きられないかもしれないということは、もっと早くに心臓の鼓動が限界を迎える可能性だってある。
 残りの数年で、俺は莉奈を少しでも幸せにすることができるのだろうか。時間が限られているというのに、受験勉強なんてやっていてもいいんだろうか。
 おもむろにポケットから携帯を取り出し、こっそり記録していたメモを流し見る。

『生徒会で、資源回収運動を定着させる』
『河川敷で花火大会を見る(浴衣を着て)』
『紅葉を見に行く』
『クリスマスにデートをする(プレゼントは指輪)』
『地元の観光名所で桜を見る』

 莉奈がこれまでにやりたいと話してたことを叶えるため、忘れないようにメモを続けている。無事に成功した資源回収運動は、たった今削除した。次は、夏休みに開催される花火大会。すでに一緒に行こうと約束していて、浴衣は彼女のお母さんから借りることになっている。
 その時期になれば、俺は生徒会を引退している。推薦を貰うとはいえ、受験勉強も本格的に始まって、こんな風に毎日は会えなくなるかもしれない。
 秋は紅葉。冬はクリスマス。プレゼントは指輪がいいというのは、以前莉奈の読んでいた小説でそういう展開があったから、らしい。何気ない会話の中から、そんなことを聞いた。「私もいつか指輪を貰ってみたい」と、夢見心地に話していた。直接俺にお願いしなかったのは、値が張るものだから罪悪感があったんだろう。クリスマスのために貯金しておこうと、その日のうちに決心した。
 そして、俺が推薦入試を受けることが決まっていれば、おそらくこのクリスマスの日には結果が出ている。だから、俺も頑張らなきゃいけない。目標の確認が終わり、携帯を閉じると共に、決意を新たにした。推薦入試にさえ合格すれば、卒業までの三ヶ月は比較的自由が約束されるんだから。
 そっと莉奈の短い髪を指の先で梳く。
 病気だと感じさせないほどに、彼女は気持ちよさそうに眠っていた。



 君と過ごし始めて、初めての季節が巡った。気付けば気温が上がり始め、新緑生い茂る夏が訪れる。俺は、君と出会った生徒会を引退した。
 莉奈は後期の生徒会には所属しないらしい。敢えてその理由は聞かなかった。代わりに夏休み明けは新田が生徒会長に立候補してくれるようで、俺は安心して会長の座を退いた。新田なら、上手く生徒たちもまとめることができるだろう。
 夏休みに入って、俺はこれまで以上に勉強に取り組んだ。たまに莉奈が監視と称して遊びに来たときも、心配させないようにと真面目に勉強した。
 花火大会当日。彼女は空模様の水色の浴衣を着て現れ、「お待たせしました」と挨拶をされても、しばらくの間俺は見惚れてしまっていた。

「綺麗だ」

 とても簡潔に、それでいてストレートに感想を伝えると、日が落ち始めて辺りが薄暗くなっているにもかかわらず、莉奈の頬が赤くなったことがわかった。いつも通り手を繋ぎ、出店で売られていたたこ焼きを購入して、河川敷の芝生の上でそれを食べながら、夜空に咲き誇る夏の風物詩を楽しんだ。
 家に戻るために住宅街を歩いている最中、莉奈は満足げに「修一さんと見に行けて、幸せでした」と言ってくれた。

「また来年も、見に行けたら一緒に行きましょう」
「その時にはたぶんバイトを始めてるから、浴衣をプレゼントするよ」
「大丈夫ですよ。修一さんは、自分のためにお金を使ってください」
「俺の選んだ浴衣を、莉奈が着てくれてるところを見たいんだ。だから、約束」

 来年も、絶対一緒に見よう。そう言うと、繋いでいた小さな手のひらをぎゅっと握り返してくる。これは、莉奈のいつもの合図だ。
 さりげなく辺りを見回して、他に誰もいないことを確認する。それから肩に手を置いて、誰かの家の塀に彼女の背中をそっと預けさせた。初めては、とてもぎこちなくて照れ臭かったけれど、俺らはいつの間にかキスをすることに躊躇いを覚えなくなった。
 キスをすると、必ずと言っていいほど彼女は涙を流す。その涙の意味や、キスをせがんでくる理由に気付かないほど、俺は鈍感ではなかった。だから悲しみの波が収まるまで、街灯に照らされるその場所で、莉奈のことを抱きしめ続けた。
 来年も花火を見に行くために、叶えることをまとめたリストは消さなかった。



 十一月だけは、地元の観光名所へ紅葉を見に行く以外に彼女と遊びに出かけることはなかった。小論文の対策や学校での面接練習に加えて、当然のごとく一般入試を見据えての勉強も本格化していたからだ。
 彼女とのやり取りはメールだけにして、受験生としての本分を全うした。そのおかげもあってか、十二月五日に行われた学校推薦型選抜試験は、まずまずの手ごたえで無事に終わった。もし受かっていれば、春からはこの北峰大学に通うことになる。もし落ちていれば、一般入試に向けての勉強を続けて再チャレンジだ。
 放課後は面接練習が立て続いていたから、莉奈と一緒に学校から帰るのは久しぶりのことだった。いつの間にか彼女もベージュのコートを着ていて、赤色のマフラーを首に巻いていた。

「推薦入試、お疲れ様です!受かりそうですか?」
「ありがと。受かるかどうかは、結果を見ないとわからないかな」
「きっと合格してますよ。ずっと側で見てきた私が言うんですから間違いないです!」

 元気を分け与えるように、笑顔でガッツポーズをしてくる。いつの間にか寒さで彼女の鼻先が赤くなっていることに気付き、「ありがと」と言いながら笑みをこぼした。

「将人先輩も、同じところを受けるんでしたっけ」
「あいつは一般入試だけどね。たぶん今、必死で勉強してると思う」
「そうですか。来年は風音も受けるんですよね」
「そうらしいな。俺と同じ推薦を貰うみたい」
「それじゃあ二人が受かったら、私がいなくても修一さんは寂しくないですね」

 突然彼女の発した言葉に動揺して、足を立ち止まらせてしまった。
 遅れて気付いた莉奈が、こちらを振り向いて首を傾げてくる。

「どうしました?」
「いや、なんでも……」

 きっと、そんな意味で言ったんじゃない。今のはただ、将人も新田もいるから大学に行っても寂しくないだろうというだけのことで。だから彼女も特に気にした様子はなく「大学に行っても、私のことを忘れないでくださいね」と、いつものように笑顔で冗談を言ってきた。
 おかげで俺は冷静さを取り戻し、莉奈と手を繋ぎ直す。

「忘れるわけないだろ。卒業前に車の免許取るから、行きたいところがあったらこれからはどこへでも連れてくよ」
「ぶきっちょな先輩が、車の免許なんて取れるんですか?」
「不器用なのは手先だけ。たぶん、大丈夫だよ車は。そうだ、そこか行きたいところとかない?」

 何げなく訊ねると莉奈は「うーん」とうなりながら考え込んだ末に、何もない環状線道路の先を指差した。

「この道路の先を、ずっと真っすぐ進んでみたいです」
「この先に、何があるの?」
「そんなの知りませんよ。だから、修一さんと一緒に何があるか探しに行きたいんです」

 それは魅力的な提案だ。だから運転できるようになったら、すぐに彼女とこの景色の先を見てみたいと思った。
 だけどその願いが叶うことは、永遠になくなってしまった。
 十二月二十一日。
 サイトで受験の結果を確認すると、そこには赤色の文字で合格と書かれていた。それを誰よりも早く、莉奈に報告した。すぐに電話で「おめでとうございます!」と連絡が来た。この時の俺は、きっと二十五日は人生で一番楽しいクリスマスになるんだと信じてやまなかった。
 別れ際に渡す指輪は、高校生の俺の手にギリギリ届くものを選び、内側に『Ruka』という名前を刻んでもらった。世界に一つ、彼女のために存在するプレゼントだ。高校生が指輪を渡すなんて痛すぎだろと思ったが、きっと喜んでくれる。そう思っていた。
 クリスマス当日。
 道心莉奈は、待ち合わせ場所に現れなかった。何度メールや電話をしても、繋がることはなく。気付けば空から、真っ白い粒が降り注いでいた。今年初めての、雪の花だった。
 それを、誰よりも愛している彼女と見るはずだったのに。
 体が冷え切るまでそこで待ち続けた俺は、結局莉奈と会うことができなかった。
 それからのことは、よく覚えていない。思い出せるのは、自宅のベッドでいつの間にか眠っていたこと。発熱で、大量の汗をかいていたこと。そして年の瀬に、親友である明智将人からメールが送られてきたことだった。
 俺は、震える指先で、そのメールを確認した。

〈道心莉奈が亡くなったらしい〉



 高校の卒業式に、俺は参列しなかった。
 今さら彼女のいない学校へ行くことに、何の意味も見いだせなかったから。俺は冬休みが明けてから今まで、一度も学校には行かなかった。
 そんな息子を気遣って、父さんも母さんも何も言わなかった。
 そして、そろそろ母さんが仕事から帰ってくるんじゃないかという頃に、家のチャイムが鳴った。無視を決め込もうと思ったが、何度も懲りずに鳴らしてくるのが気に入らなくて、まるでゾンビのようにベッドから這い出て玄関へと向かった。
 ドアを開ける。そこにいたのは、驚くことに後輩である新田風音だった。

「先輩、卒業おめでとうございます」

 祝福の言葉を述べるや否や、豪奢な柄をした円筒を突きつけてくる。受け取って中身を確認すると、それは卒業証書だった。

「莉奈からの遺書はありませんでした」
「……そっか」
「でもあの子なら、先輩には前向きに生きてほしいと思うはずです」

 俺も、そう思う。だけどそれとこれとは別で、たとえそうだったとしても、壊れた心はたった三か月のうちに修復するはずもなかった。

「……ごめん。今は、一人にさせてほしい」

 ドアを閉めようとすると、新田が足で無理やりストッパーを掛けた。それから一歩近付いてきたかと思えば、急に俺のことを抱きしめてくる。驚いて落とした円筒が、コロコロと地面の上を転がった。

「……絶対に、私は先輩と同じ大学に行きますから。絶対に立ち直って、次に会った時は約束守ってください……!」

 それだけ伝え終えると、新田は俺から離れる。

 一瞬見えたはずの彼女の横顔を、俺はすぐに忘れてしまった。
 
 そして、長かった冬が終わる。

 初めての、彼女のいない季節がやってきた――