毒見役。
 ジェイコブ王太子にとって、それは決して手に入らぬ幻の宝石だった。

 毒見役を選ぶのは常に王である。
 その基準は、美貌だけであった。
 実際、グレイス二世が即位してからの九年間で、王の食事に毒が入っていたことは一度もない。なので、その仕事といったら、王家の美食のメニューを毎回一口ずつ食べるだけであった。

 だから、その存在は万一の保険であって、本当に役に立つのは十年に一度あるかないか。であれば、付加価値が欲しい。それが「美」である。

 なので彼女たちの実際的な任務は毒見にはない。その美しさを、王に差し出すことがそれだ。
 どの時代も、王は、若くて美しい「肉」を好んだ。その点で言えば、毒見の一族に勝る者はなかったのである。

 歴代の王に倣い、グレイス二世も、数年ごとに毒見役を変えた。新しい「若くて美しい肉」を求めてのことだ。

 もちろん王妃は、それを黙認した。毒見役に嫉妬するなど愚かなこと。王家の女性たるもの、英雄の色好みは微笑みで許容するのがごく当たり前のたしなみであった。

 が、ここに嫉妬に狂った男がいた。
 ジェイコブ王太子である。

 シェナ王国において、王太子が望んで手に入らぬものはない。ところが毒見役だけは、どうしても手に入らなかった。王の所有物だからである。

(あの、この世のものとは思えぬほどの美少女を、父は抱いている……俺も欲しい、欲しい、欲しい)

 王と同じ食卓につき、毒見役の女が毒見をしているのをじっと見ているとき、王太子はひどく飢えを覚えて胃がキリキリと痛んだ。

 毒見役の女が口を開け、フォークで刺した野菜を口に入れる。
 赤い唇をすぼめて、スープをすする。
 頬の肉を動かして、魚を咀嚼する。
 デザートの生クリームが唇につくと、さっと舌が出てそれを舐めとる。
 白い喉を見せながら、ワインをゴクリと飲み下す。

 グレイス二世は、悠然とそれを眺めている。王太子も同じく悠然とした態度を保っているが、心の裡(うち)ではそうではない。父親とその女との交わりを想像して、ほかのものはすべて捨ててもいいから、その女が欲しいと願うのだった。

(ああ、俺はなんと不幸なのだろう。毎食毎食、決して手に入らぬ父の所有物を見せつけられている。一人くらい俺にくださってもいいのに……みじめだ)

 シェナ王国で好き勝手に振る舞いながら、たった一つだけ好きにできないもののことを思い、王太子は自分の境遇を憐れんだ。

 そんな怏々として楽しまない日々を送っているときに、コーデリアからの手紙が届いたのである。
 ジェイコブはおかしなことを閃いた。

(父にこの女を差し出して、代わりに毒見役の女をもらうというのはどうだ?)

 そう思いつくと、矢も盾もたまらなくなった。
 コーデリアに返信を書き、一目惚れしたと嘘をつく。
 父親にコーデリアの写真を見せ、毒見役との交換を持ちかける。
 頷くグレイス二世。親子のあいだで、こんな会話が交わされる。

「陛下、私もこの婚約者の肉には手をつけませんから、陛下も新しく選ぶ毒見役には、どうか手をつけずに私にくださいますように」
「わかった。しかしこの写真の娘は、素直に余のものになるかな?」
「なりましょう。この国の民は皆、陛下を崇拝しているのですから」
「王太子妃になれると思っていたのが毒見役にされたら、悲嘆して舌を噛み切るかもしれん。余は死人の肉は好まんぞ」
「死ぬとは思えませんね。手紙の文章を読むかぎり」
「妻の意見を聞いてみるか。我々より女の気持ちがわかるだろう」

 ポーラ王妃はその計画を聞くと、

「毎日泣くでしょうね、その娘は」

 グレイス二世は口をへの字にした。

「泣く女をなだめるのは、余の趣味ではない」

 ジェイコブ王太子は焦った。

「大丈夫ですよ。落ち着いたら、陛下のものになったことを喜ぶようになるでしょう」
「しかし、毒見役の女であれば、飽きたら一族の元に返せばよい。この娘はそうはいくまい」

 ポーラ王妃が意見した。

「ブラウン家といったら名門ね。もし婚約破棄をするのなら、それなりに事情を説明して家に返さないと、うるさく文句を言うかもしれないわよ」
「まあ文句を言ってきたら反逆罪にしてやるが、貴族どもに不満分子を生んでもつまらんな」

 王の言葉に考え込む三人。やがてポーラ王妃が、

「こうしたらどうでしょう。この娘が崇高な王室に仕えるために、自ら志願して毒見役になったことにするのです。それは立派なことなのだから、両親も娘の行動を咎められないでしょう?」

 えっ? という顔を、グレイス二世はした。

「そんな話、親は信じるかな? いずれ嘘がバレるんじゃないか?」
「バレる前に、毒殺なさい。私、この娘が死ぬところを見たいわ」

 自らの異常な性癖を暴露する王妃。すると王も、

「泣かれるくらいなら、殺してしまおう。歳をとって醜くなる前に、人生でいちばん美しいときに死ぬのが、この女にとっても幸せなのだから」

 ジェイコブ王太子は、飛び上がって喜んだ。

「そうです、そうです、私もこの女を殺したかったのです! 図々しい手紙を書いて、私を不快にしたのですから」

 殺人に同意した息子を、王妃は母親の顔で優しく見つめた。

「それはこの娘とブラウン家にとって、いいことでもあるのよ。陛下の毒殺を阻止して亡くなったとあれば、その名は歴史に残ります。女性国士として、永遠に国民のあいだで語り継がれるでしょう」

 グレイス二世も満足そうに手を打つ。

「よし。盛大な国葬をやろう。どれほど盛大にしてもよい。かかった分は、税を増やせばよいのだから」

 こうしてサディストの三人は、自分たちの考えた趣向に酔い、高らかに笑った。