王太子様、婚約者の私を毒見役と交代させるとはどういうおつもりですか?



 コーデリアの胸にあった一点の黒いシミは、嵐の前の黒雲のようにむくむくと膨らんだ。
 生まれて初めて、農民の実態を知ったせいである。
 とたんに、無邪気にパーティーを楽しめなくなった。

(農民が何万人も餓死している? どうして? それなのに、私たち貴族はどうして毎日美食を食べられているの? どうしてそんな悲惨な事実が、国民に知らされていないの?)

 シェナ王国は独裁国家である。民主主義という考え方はない。だから悪いことは、いっさい国民に知らせないようにしていた。

 彼女は胸を痛めた。農民も、自分と同じシェナ王国の国民だ。それが飢えて死んでいるのに、贅沢三昧の生活を送っていていいのかしら? 彼女は貴族令嬢として育てられても、そういう考え方をできる女性だった。
 そこで、公爵夫人と踊り終わったジェイコブ王太子に尋ねた。

「あの、殿下、質問をよろしいでしょうか?」
「いいですよ、可愛い人」
「シェナ王国では、農民が飢えているのですか?」

 その瞬間、王太子の目に、凶暴な光が宿った。
 が、あまりにそれが一瞬だったため、シャンデリアの光線の具合でそう見えたのだろうと思い、コーデリアはすぐに忘れた。

「農民が? なぜですか?」
「あの……噂で聞きまして」
「噂ですか。根も葉もないことですね」

 ジェイコブ王太子は穏やかに微笑んだ。

「悲しいことに、この国にも、反体制の考え方をする者がいます。そういう輩(やから)の言うことには、耳を貸さないことです。何でもかんでも国が悪いように言いますからね」
「では、事実ではないのですか?」
「当然ですよ。我が国は豊作なのです。各地方の領主がしょっちゅう父に報告に訪れますが、収穫量が減ったという話は一度たりとも聞きません。収穫が増えているのに、どうして飢えることがありますか?」

 それは、収穫が減ったなどと報告すると、残虐なグレイス二世が機嫌を悪くするからである。それが怖さに、どんなときでも地方領主は収穫が増えたと報告するから、結果として国に納める税が増え、農民は餓死したり一家心中したりしているのだ。

「そう、豊作なのですか……」

 コーデリアは考え込んだ。ではレオ第二王子は、反体制派の誰かに嘘を吹き込まれたのだろうか? しかしそんなことは、現地に調べに行けばすぐにわかることである。第二王子は調べもせずに、私にあんなことを言ったのだろうか?

 コーデリアの沈黙は、ジェイコブ王太子をイライラさせた。何をこのメス豚は、農民のことなど気にしているのだろう。女ごときが考えることか!

「まあ仮に飢えたとしましょう。でもそれが、どうしたというのです?」

 この問いは、コーデリアをひどく驚かせた。優しい婚約者の口から出るにしては、思いもしない冷たい台詞に聞こえたのである。

「どうした、とおっしゃいますと?」
「ではこう聞きましょう。ブラウン家には使用人がいましたか?」
「ええ、それは」
「使用人は、あなたと同じ身分でしたか?」
「いいえ……違います」
「農民は、その使用人より下です。奴隷身分です」

 コーデリアは黙った。
 するとさっきの凶暴な光が、再び王太子の瞳に宿った。

「我々の生活する社会には決まり事があります。貴族は貴族であり、平民は平民であり、奴隷は奴隷であるということです。これが崩れたら大変なことになる。そういう大変なことが起こらないためにも、奴隷が飢えることなどは考えないほうがいいのです。特に王家はこれを守らねばならない。わかりましたか?」

 コーデリアは思わず目を伏せた。
 王太子の顔を直視できなかったのである。

『コーデリアさん。あなたはいつもうっとりと兄を見つめていますが、人の本性は数か月やそこらではわかりませんよ。第一印象が良いほど、のちになって評価が変わるものです。こんなに早く婚約して正解だったかどうか、よく考えることですね』

 レオ第二王子の言葉が甦った。
 王太子に対する印象が、明らかに変わってしまった。

(どうしよう。農民が餓死しているのが事実かどうかはともかく、奴隷が飢えることなど考えるな、と言う王太子様より、農民のことを考えて舞踏会を楽しめない第二王子のほうが正しく思えてしまう)

 コーデリアは葛藤に苦しんだ。が、彼女は女である。どれほど王太子の性格に疑問が生まれても、自分を愛し、婚約者に選んでくれたことに対して、無条件ですべてを捧げたい気持ちがあった。

(そうよ。王太子様は、よその国の王族からだって妻を迎えることができた。それなのに私を選んでくれたのは、政略ではなく純粋な恋愛、私に一目惚れしてくれたからよ)

 王太子からの嘘の手紙を信じていた彼女は、やっぱり彼に従おうと決めた。たとえどれほど第二王子が正しいことを言おうとも、しょせんコーデリアを愛してはいない。それどころか、高慢で聡明さのない女性だと決めつけたのだ。

 だかこのとき、すでにジェイコブ王太子は飽きていた。コーデリアを愛している芝居をすることに。

(さあ、婚約発表も済んだ。予定どおり毒見役と……フフフ、天国から地獄に突き落としてやるぞ)

 王太子はそのときから、優しい目つきをすることをやめた。


 コーデリアの幸福に影が差した。
 シェナ王国の慣例として、婚約発表をしたその夜から、王宮に部屋をあてがわれて一人で住むようになったのだが……

(とたんに王太子様の態度が冷たくなった。まるで愛というろうそくの炎が消えてしまったかのように)

 そんなはずはない、と頭では思っても、彼の目の中に、どうしても温かい感情を見つけられない。
 不安になって、二人きりで食堂にいるときに、彼女は訊いた。

「ねえ、殿下?」
「何?」

 王太子の態度は、明らかに面倒くさそうだった。

「あの……どうして私を選んで下さったんですか?」
「顔」

 王太子は一言で答えた。いちばん短い単語を選んだのである。
 しかし、かつてはその返事でも、コーデリアは喜んだだろう。結婚の決め手としては薄い理由だったが、その武器で王太子の気を引くことが、そもそもの狙いだったのだから。

 だが今は、そっけない返事に怯えるばかりである。婚約破棄の空想が、現実になりそうな予感がして仕方なかった。
 婚約発表をした三日後、王太子はゲップした。

「ちょっと濃すぎるな」

 それは独り言だったが、意味は「こいつの濃い顔にも飽きたからそろそろ始末するか」ということだった。

 ところでジェイコブ王太子はコチコチの女性差別主義者だったが、欲望の捌け口としての女性は大好きだった。
 だから、コーデリアがいてもお構いなしに、ちょいちょい後宮に行った。そこに住まわせている女官を抱くためである。

 後宮での王太子の嫌われようはひどかった。なんせ王太子は、女性を人と思っていない。猿と同じに思っている。だから相手の感情などにはお構いなく、気まぐれに被害者を決めた。

「どれにしようかな、天の神様の言うとおり……よし、今日はお前だ」

 彼が帰ったあとの後宮では、長くすすり泣きの声が聞こえた。

「女の顔や身体を見て、香水を嗅ぎ、女の声を聞くと元気が出る。国の王太子が元気なのは、国民にとっても喜ばしいことだ」

 後宮から帰ると、コーデリアに対してわざわざそんな言い訳をした。
 むろん彼女は気づいていた。鼻を刺激する女の香水の匂いに。

(最悪だ。婚約三日で堂々と浮気するなんて。「美人は三日で飽きる」という格言が、王太子様と私のケースに、無情にも当てはまってしまったのね……)

 理想とはかけ離れた現実に、コーデリアは失望し悲しんだ。けれども、独裁国家の王の息子に、女遊びを禁止させる方法はない。普通に考えて、それはするだろう。だから、「は? 何してくれてんの?」とは思っても、グッとこらえた。まさか口喧嘩などをして、婚約破棄にでもなったら目も当てられない。

(我慢よ、我慢。親孝行のため。この婚約期間を乗り越えたら、正式に王太子妃になれるのだから)

 ところが事態は、急速に悪化した。

 彼女が自室で浮かない顔をしていたとき、コーデリアに付けられた女官のエリナが、突然近くに寄ってきて言った。
 
「ねえねえ、奥さん」

 まだ結婚していないのに、エリナはコーデリアをそう呼ぶ。

「コーディでいいのよ、エリナ」
「奥さん、旦那さんね、悪いことしたよ」

 浮気のことだろう。王太子の秘め事をあっさりと婚約者にバラすとは、エリナも口が軽い。が、それだけに、コーデリアは彼女を味方につけたいと思った。自分の親族が一人もいない王宮で、捨てられそうな不安と戦っているコーデリアは、スパイのように情報を教えてくれる存在が欲しいと思っていたのだ。

「殿下が、何か?」
「ランに、奥さんと婚約破棄して、お前を娶るって言ったんだよ」

 爆弾級の衝撃。
 頭がクラクラする。しかしまだ、心の半分くらいでは、下手に大騒ぎをしなければ元の鞘に収まると信じていた。

「あ……ありがとう、エリナ。とっても言いにくいことを教えてくれて」
「あたし、奥さん好きだからさ。すっごくきれいだし、憧れちゃう。でも旦那さんは嫌い。サディストのクズ。あんなのが、次の王様になっちゃ駄目だよ」
「シッ! 聞こえたら、恐ろしいことになるわよ」
「ねえねえ、旦那さんの弟の、第二王子に鞍替えしたら? あっちの王子様は、旦那さんと違ってちゃんとしてるって。国の将来のことをすごく考えてるんだってさ」
「王太子殿下も、きっと深く考えておられますよ」
「全然、全然。女を抱くことしか考えてないって」

 自分より若い女官の言うことが、どうも真実を突いている気がした。

「あ、でもね、弟のレオ王子様は、女嫌いで有名。だから相当頑張らないと、ハートはつかめないよ。いや、やっぱり奥さんの美貌なら無双か。なーんて」

 レオ第二王子は、後宮でも女嫌いと信じられていた。しかし繰り返すが、それは真実ではない。内面の美しい女性には、彼も心を惹かれるのである。

(鞍替えか……)

 コーデリアは、空中に浮かんだ第二王子の顔を、手を振って急いで消した。

(とにかく、王太子様の移り気は許そう。今は辛抱して、大騒ぎをしないこと。だって相手はただの女官ですもの。慌てず騒がず、王太子妃の座をしっかりとつかむのよ、コーデリア)

「ところでエリナ、そのランというのは、どんな女性?」
「あ、知りません?」

 エリナは目を輝かせ、

「後宮一の美貌の、毒見役の十四歳の少女ですよ」

 あっという叫びが、コーデリアの口から洩れた。

 まさか、毒見役とは!

 毒見役。
 賤役(せんえき)である。
 賤しく禍々しい「解毒の術」を体得した一族の女。
 身分的には奴隷と変わらない。それこそ王太子が蔑み、餓死しても構わないと公言している農民たちとも。
 
 ではなぜそんな奴隷の少女が、后妃(こうひ)や女官の住まう後宮に大切に囲われているのか?
 そこにはシェナ王国の、暗い物語があった。


 シェナ王国は昔から権力争いが絶えない。
 王が絶対的な権力を持つため、出世願望を持つ男どもが、王に取り入ろうとして醜い争いを起こすのだ。

 その結果どうなるかというと、王の周りをおべっか使いのイエスマンばかりが固めることになる。
 王の政務の補佐をする宰相や大臣しかり、王の世話をする執事や侍従しかり、また戦争をする陸軍官や海軍官もそうだった。

 これには危険がある。つまり調子に乗った王が暴走しやすく、また実際にそうなったときに、誰も暴走を止められない状態が完成してしまっているのだ。

 過去に何度もそれで国が存亡の危機に瀕した。「絶対的権力は絶対的に腐敗する」の有名な格言どおりである。
 
 このとき、真剣に国を憂い、国民を救いたいと願う真の愛国者はどうするか? 
 王の暗殺を企てるのである。
 理論的に考えて、国と国民を救う方法はそれしかない。腐敗しきった組織を立て直すには、頭をバッサリと切り落とすしかないのだ。

 しかし暗殺は難しい。独裁者という者は、自身の権力をわずかでも脅かす者の存在を許さない。したがって巧妙にスパイ網を張り巡らし、少しでも自分に対して反抗的な発言をした者を見つけると、その家族も含めて容赦なく処刑した。

 独裁者とは、容赦ない殺人者の別名である。
 現在の王、グレイス二世も例外ではない。
 気に入らない人物に次々と反抗者の烙印を押し、徹底的に弾圧し、粛清した。
 そして絶対的な権力を確立すればするほど、必然的に確率の高まる暗殺の可能性に怯え、歴代の王が皆そうだったように、スパイや毒見役を重宝した。
 
 毒見役には特殊な家系の者しかなれない。
 それは、秘法である「解毒の術」を代々伝えてきた家系だ。
 彼らに名字はない。
 それぞれ出身の地名をとって、セイユの者とかルースの者とか呼ばれる。
 彼らは王室に対しては、一族の中でもっとも容姿の良い若い女を毒見役に推薦してくる。
 それが王に選ばれる最大にしてほとんど唯一の条件であることを、彼らは経験的に知っているのだ。

 資産家の貴族や有力な大臣などではなく、国王陛下に選ばれること。これ以上に、毒見役の家系にとって誉れとなることはない。
 だから彼らは、「解毒の術」を極めるのと同じくらい、「美顔の術」をマスターすることに腐心した。
 肌を美しくするためには、人間の胎盤を闇ルートで買い漁り、全身に塗りたくるようなこともした。おぞましい話ではあるが。

 さらにまた、毒に対する耐性をつけるため、赤ん坊のころから少量の毒を摂取し続けることによって、異様なほど肌が透き通ったり、不思議な色の髪や瞳に成長することがまれに起こった。
 これなどは、普通人では決して獲得することのない、毒の作用による凄絶な「美」であると言えた。

 したがって、王が毒見役の女に手をつけることは、シェナ王国では珍しくなかった。というより、ほとんどそうした。
 凄絶な美を持つ毒見役の女と、絶対的権力者の国王の交わりーーそれは爛(ただ)れた王宮の暗部、この三千年の歴史を持つ国家の秘められた物語であった。


 ◆◆◆◆◆


 セイユの者のラン。
 というのが、ジェイコブ王太子が「見初めて」しまった毒見役の少女の名だ。

『後宮一の美貌の、毒見役の十四歳の少女ですよ』

 コーデリア付きの女官のエリナが、まるで後宮の誉れであるかのようにそう言った。

(十四歳ですって? でも、毒見役が王室に我が身を売り込むためなら、年齢詐称くらい平気でするだろう。だから本当のところはわからないわ)

 コーデリアは吐き気がしてきた。
 
(ラン……いかにも奴隷らしく、また何となく騒動を巻き起こしそうな名前だ。もし私が名門貴族のしつけをされていなかったら、ランと聞いた瞬間に、部屋の床にぺっと唾を吐いたところだ)

 コーデリアがここまで怒りの炎を燃やしたのは、ランという少女が卑しい身分だからではない。
 いや、確かに、奴隷身分の毒見役に王太子がプロポーズしたという事実は、怒りを増幅させた。

(何を考えてるの。身分差結婚にも、程がありすぎるでしょうが!)
 
 奴隷が王太子妃の座に収まることを想像すると、吐き気に加えて頭痛もした。いくら何でもありえない、まさかそんな馬鹿な真似を王家の人間がするはずがない、と考えて必死に気持ちを落ち着かせようとする。

 しかし……
 後宮一の美貌、というフレーズが、頭をぐるぐると回る。

(まさか、まさか、まさか……)

 コーデリアにめまいがするほどの怒りを覚えさせたのは、彼女が「美貌」でランに負けたかもしれないという、にわかには信じがたい疑惑だった。

(私が美貌で負ける? このコーデリア・ブラウンが? まさか、まさかだわ)

 が、その可能性は否定できなかった。
 毒見役の美しさは別物だ。
 なんせ、毒の作用が関与しているのである。

(王太子様は私の顔に一目惚れして下さった。ということは、もっと目を引くような顔に出会ったら、たちまち心を移してしまうこともあり得るのだ。いったいランという女は、どんな顔をしているのだろう……)

 エリナに訊きたかったが、訊くのが怖くもあった。彼女は想像した。すると想像の中の少女は、青い血管が透けて見えるほど、毒々しくも美しい肌をしているのだった。

(きっとランは、全身を毒に冒されているのだろう。ひょっとすると、身体全体が毒になっているかもしれない。そんな少女とキスでもしたら、たちまち相手の男は、毒がまわって死んでしまうのではないだろうか?)

 いっそのこと、ジェイコブ王太子もそうなればいい。美貌で負けたかもしれないという嫉妬に苦しんだコーデリアは、そんなことさえ願った。


 毒見役。
 ジェイコブ王太子にとって、それは決して手に入らぬ幻の宝石だった。

 毒見役を選ぶのは常に王である。
 その基準は、美貌だけであった。
 実際、グレイス二世が即位してからの九年間で、王の食事に毒が入っていたことは一度もない。なので、その仕事といったら、王家の美食のメニューを毎回一口ずつ食べるだけであった。

 だから、その存在は万一の保険であって、本当に役に立つのは十年に一度あるかないか。であれば、付加価値が欲しい。それが「美」である。

 なので彼女たちの実際的な任務は毒見にはない。その美しさを、王に差し出すことがそれだ。
 どの時代も、王は、若くて美しい「肉」を好んだ。その点で言えば、毒見の一族に勝る者はなかったのである。

 歴代の王に倣い、グレイス二世も、数年ごとに毒見役を変えた。新しい「若くて美しい肉」を求めてのことだ。

 もちろん王妃は、それを黙認した。毒見役に嫉妬するなど愚かなこと。王家の女性たるもの、英雄の色好みは微笑みで許容するのがごく当たり前のたしなみであった。

 が、ここに嫉妬に狂った男がいた。
 ジェイコブ王太子である。

 シェナ王国において、王太子が望んで手に入らぬものはない。ところが毒見役だけは、どうしても手に入らなかった。王の所有物だからである。

(あの、この世のものとは思えぬほどの美少女を、父は抱いている……俺も欲しい、欲しい、欲しい)

 王と同じ食卓につき、毒見役の女が毒見をしているのをじっと見ているとき、王太子はひどく飢えを覚えて胃がキリキリと痛んだ。

 毒見役の女が口を開け、フォークで刺した野菜を口に入れる。
 赤い唇をすぼめて、スープをすする。
 頬の肉を動かして、魚を咀嚼する。
 デザートの生クリームが唇につくと、さっと舌が出てそれを舐めとる。
 白い喉を見せながら、ワインをゴクリと飲み下す。

 グレイス二世は、悠然とそれを眺めている。王太子も同じく悠然とした態度を保っているが、心の裡(うち)ではそうではない。父親とその女との交わりを想像して、ほかのものはすべて捨ててもいいから、その女が欲しいと願うのだった。

(ああ、俺はなんと不幸なのだろう。毎食毎食、決して手に入らぬ父の所有物を見せつけられている。一人くらい俺にくださってもいいのに……みじめだ)

 シェナ王国で好き勝手に振る舞いながら、たった一つだけ好きにできないもののことを思い、王太子は自分の境遇を憐れんだ。

 そんな怏々として楽しまない日々を送っているときに、コーデリアからの手紙が届いたのである。
 ジェイコブはおかしなことを閃いた。

(父にこの女を差し出して、代わりに毒見役の女をもらうというのはどうだ?)

 そう思いつくと、矢も盾もたまらなくなった。
 コーデリアに返信を書き、一目惚れしたと嘘をつく。
 父親にコーデリアの写真を見せ、毒見役との交換を持ちかける。
 頷くグレイス二世。親子のあいだで、こんな会話が交わされる。

「陛下、私もこの婚約者の肉には手をつけませんから、陛下も新しく選ぶ毒見役には、どうか手をつけずに私にくださいますように」
「わかった。しかしこの写真の娘は、素直に余のものになるかな?」
「なりましょう。この国の民は皆、陛下を崇拝しているのですから」
「王太子妃になれると思っていたのが毒見役にされたら、悲嘆して舌を噛み切るかもしれん。余は死人の肉は好まんぞ」
「死ぬとは思えませんね。手紙の文章を読むかぎり」
「妻の意見を聞いてみるか。我々より女の気持ちがわかるだろう」

 ポーラ王妃はその計画を聞くと、

「毎日泣くでしょうね、その娘は」

 グレイス二世は口をへの字にした。

「泣く女をなだめるのは、余の趣味ではない」

 ジェイコブ王太子は焦った。

「大丈夫ですよ。落ち着いたら、陛下のものになったことを喜ぶようになるでしょう」
「しかし、毒見役の女であれば、飽きたら一族の元に返せばよい。この娘はそうはいくまい」

 ポーラ王妃が意見した。

「ブラウン家といったら名門ね。もし婚約破棄をするのなら、それなりに事情を説明して家に返さないと、うるさく文句を言うかもしれないわよ」
「まあ文句を言ってきたら反逆罪にしてやるが、貴族どもに不満分子を生んでもつまらんな」

 王の言葉に考え込む三人。やがてポーラ王妃が、

「こうしたらどうでしょう。この娘が崇高な王室に仕えるために、自ら志願して毒見役になったことにするのです。それは立派なことなのだから、両親も娘の行動を咎められないでしょう?」

 えっ? という顔を、グレイス二世はした。

「そんな話、親は信じるかな? いずれ嘘がバレるんじゃないか?」
「バレる前に、毒殺なさい。私、この娘が死ぬところを見たいわ」

 自らの異常な性癖を暴露する王妃。すると王も、

「泣かれるくらいなら、殺してしまおう。歳をとって醜くなる前に、人生でいちばん美しいときに死ぬのが、この女にとっても幸せなのだから」

 ジェイコブ王太子は、飛び上がって喜んだ。

「そうです、そうです、私もこの女を殺したかったのです! 図々しい手紙を書いて、私を不快にしたのですから」

 殺人に同意した息子を、王妃は母親の顔で優しく見つめた。

「それはこの娘とブラウン家にとって、いいことでもあるのよ。陛下の毒殺を阻止して亡くなったとあれば、その名は歴史に残ります。女性国士として、永遠に国民のあいだで語り継がれるでしょう」

 グレイス二世も満足そうに手を打つ。

「よし。盛大な国葬をやろう。どれほど盛大にしてもよい。かかった分は、税を増やせばよいのだから」

 こうしてサディストの三人は、自分たちの考えた趣向に酔い、高らかに笑った。


 王が毒見役の交代を宣言し、候補者が王の間に集められた。選りすぐられた美少女が七名。しかし一人だけ、断トツに輝いている者がいた。

「……セイユのランだな」
「……ランですね」

 いつもなら、毒見役の選定は王が一人で決める。しかし今回は異例ながら、選定の場に王太子が呼ばれた。いずれ国王になれば毒見役の選定をするのだから、やり方を見ておくようにという理由で。もちろんそれは表向きの理由で、実際はジェイコブ王太子が自分好みの女を選ぶためだったが、表向きの理由がそうであれば継承順位二位の次男を排除するわけにいかず、レオ第二王子もその場に呼ばれた。

「どうだ、レオ。お前ならどの女を選ぶ?」

 父王とも意見が一致し、ランにすることに決めてはいたが、いちおうジェイコブ王太子は弟に訊いた。

「誰でも」

 第二王子はムスッと答えた。こんなことには関心がないし、女の顔など見たくもないという態度で。

「そうか。俺はセイユの者を推薦した。きっと陛下もあの女を選ばれるだろう」

 王太子が言ったとおりに、グレイス二世がランを指名した瞬間、第二王子の口からフーッと息が洩れた。
 それには、ある特殊な事情が関係していたのだが、それを知らないジェイコブ王太子は、「何だ、弟もやっぱりランに注目していたのだな」と思った。

 とはいえ、選ばれた十四歳の少女は、コーデリアのような華やかな美人でも、毒の作用を感じさせる「凄絶な美」を持つ女でもなかった。

 ランに派手なところは一つもない。
 髪は黒くて癖がなく、清潔感のあるショート。
 目も鼻も口も小ぶりで、上品。
 毒見の一族には珍しく、健康的な印象。それがまぶしいような光を放っている。

 ジェイコブ王太子は、このときこそ本当に「一目惚れ」した。実に、人生で初めてのことである。
 すると、まことに奇妙なことが起こった。
 女性差別主義者で、女は欲望のはけ口としか見ていなかった王太子の心に、ランを讃美する気持ちが湧き上がってきたのだ。

(なんと不思議な気持ちだ。口の中は甘く、胸の中では菜の花がいっぱいに咲いたよう。ひらひらと蝶々まで舞っている。それなのに、ひどく切なく苦しい……これが、恋とかいうものか?)

 あの死んでも治らぬサディストが、恋の意味を知ったなどと告白したら、医者もたまげて治療室に収容するだろう。しかしこの「病い」ばかりは、どんな注射でも治りそうになかった。

 こうして新しい毒見役が決まったのは、ジェイコブ王太子がコーデリアの顔にゲップをした翌日の昼であった。さっそくランは、後宮に入ることになった。

 その直後に、王太子は後宮を訪ねた。

「新しい毒見役と話がしたい」

 異例のことである。毒見役はすなわち、王の所有物である。王太子に用のあるはずはないのだ。
 しかし、王太子の命令は拒否できない。応対した女官のエリナは、ランの部屋に行った。

 后妃(こうひ)とは違い、女官の部屋は質素なものだ。ましてや毒見役には、いちばん狭く殺風景な部屋があてがわれるので、人によっては牢獄を連想するほどである。

「ランさん?」

 部屋をノックすると、どうぞという返事。エリナがドアを開ける。すると家具も何もない部屋の床に、毒見役の少女が肘枕をしてゴロンと寝転んでいた。

(まあ、後宮に入ってきたときの清楚なイメージとは、ずいぶん違う……)

 意外な気がして立ち尽くしていると、ランのいたずらっぼい目とエリナの目が合った。
 その瞬間、ドキンと胸が鳴り、エリナはランが好きになった。

(あら、なんてこと。自分と同じ十四歳の女の子にこんな感情を持つなんて……でも女だろうと何だろうと、この子を見たら好きにならずにいられない!)

 不思議な魅力に打たれた。そしてその魅力を、これまでに会った誰にもなかったものと感じた。

(まるで宇宙人というか、私たちとは全然違う星から来たみたい)

 エリナに学はなかったが、勘は鋭かった。王宮の中でいちばん鋭いと言ってもよかった。

「あの……王太子様がお呼びです」

 と、肘枕の少女は顔をしかめ、

「ダル」

 と言った。

(ん? ダル? 何だろう。異国の言葉かしら?)

 意味がよくわからずにポカンとしていると、ランはよいしょと立ち上がった。

「あなた、お名前は?」
「え? ああ、エリナです」
「エリナさん、そばにいて。王太子が何を言うか、証人になってね」

 様をつけずに王太子と言ったことに驚いているうちに、ランはずんずん廊下を進んだ。
 後宮の入口の扉で、毒見役の美少女はジェイコブ王太子と対面した。

「あ、あ、あ、あの」

 とても独裁者の長子とは思えない、緊張丸出しの声で王太子は言った。

「ち、父からの命令で、決まったことがある。そ、そ、その……」

 カラカラに乾いた唇を舐めて、王太子は一息に、

「婚約者のコーデリアとは婚約破棄する。そしてあなたを正式に妻として迎える。ここ、これは勅命であるし、コーデリアも身を引いて毒見役と交代する所存だ。でで、では、そのつもりで」

 まるでラブレターを渡した直後の少年のように、真っ赤な顔をして立ち去る王太子。それを見てランは、

「ダサ」

 と言った。これもまた異国の言葉だろうーーエリナはそう思った。


 エリナはコーデリア付きの女官であり、美しい女主人を好きであった。だから王太子から聞いた話には、憤懣やるかたなかった。
 
 二人でランの部屋に戻ると、さっそく怒りをぶち撒けた。

「陛下はひどすぎる! いったい何を考えてるの!」

 ランは「まあ座って」とエリナに床を示し、

「王があんな命令するわけないじゃん。何も得しないんだから」

 少し落ち着きを取り戻したエリナは、

「えっ、じゃあ?」

 あぐらをかいて座る美少女に、尋ねる視線を向ける。すると、

「きっと王太子は、婚約者に飽きたのよ。それで私と交換したくなったんじゃない? ダッサ!」

 あの好色のサディスト王子ならやりそうなことだ、と思いながら、エリナは訊いた。

「ねえ、ランさん。ダサとかダッサってどういう意味? どこの国の言葉?」
「え、知らない? ダサいっていうのは、かっこ悪いってこと。外国語じゃないよ」
「ふーん。初めて聞いた。じゃあダルは?」
「ダルい。めんどくさいって意味」
「難しい言葉を知ってるのね」
「難しい……あー、宮廷や貴族社会では使わないのね。平民とか奴隷は普通に使ってるよ」

 エリナは床に座ってくつろいだ。

「で、どうする? 王太子様と結婚するの?」

 オェーと吐く真似をするラン。

「冗談じゃない。じゃあ逆に訊くけど、あなたはゴキブリと結婚したい?」
「でも命令されたら、逆らえないでしょう?」
「殴って逃げる」
「無理よ」
「いや、勝てる。あいつ動き遅いもん。ボディを蹴って、ガラ空きになった顎を打ち抜く」

 シュシュシュと言って、ランが目にも止まらぬ速さでパンチを繰り出すと、エリナの青い髪がふわっと広がった。

「すごい。拳闘ができるのね?」

 とはいえ、もし王宮内でそんなことをしたら、たちまち衛兵に取り囲まれて銃殺されるだろう。
 エリナは目を細めて、毒見役の美少女を見た。

「……ねえ。あなた本当に、毒見の一族の出身?」

 鋭い質問だった。
 ランはニヤッとするだけで答えない。
 さらに質問を重ねる。

「ランさん。あなた、王宮の毒見役になるのが、王様の女になることだって知ってるわよね?」

 これにもニヤニヤ。エリナは畳み掛ける。

「だとすると、閨房でのことを叩き込まれているはず。王様を悦ばせるために、たとえばどんなことを教わった?」

 ついにランは噴き出した。

「王様を悦ばせる? アハハ。もし触ってきたら、ワンツーからのハイキックでノックアウトよ」

 エリナは確信した。ランは決してセイユの者などではない。

「これでわかったわ。もしあなたが毒見の一族だったら、絶対にそんなことを言うはずがない。だって、雇い主の代わりに死ぬ役を務めるのだから、徹底してその雇い主を尊敬するように教育されているはずよ」

 ランはまだ笑っている。

「ズバリあなたは、反体制派が送り込んだ女スパイ。そうなんでしょう?」
「だったら?」

 もはや認めたも同然。
 エリナは考え込んだ。
 これほど大きな秘密を知ったからには、中途半端な立場ではいられない。
 ランと王室、どっちにつくか?
 あくまでも王室への忠誠を貫くなら、今すぐ部屋を飛び出して、スパイが侵入した事実を伝えるべきだ。
 でもエリナは、そうしたくなかった。
 ランを好きだったし、コーデリアを裏切った王太子を激しく憎んでいたから。

(私は王様も、お妃様も、王太子様も本当は好きじゃない。王室で好感が持てるのは、第二王子のレオ様くらい。この際、スパイに味方して、王室をひっくり返すのに協力しちゃおうかな?)

 しかしそれは、危険すぎる賭けである。
 バレれば死。それも、エリナの一族すべてが反逆者の烙印を押されて、極めて残酷な方法で、不名誉な処刑をされるに違いなかった。
 
「エリナさん、どうしたの? 難しい顔して」

 エリナはムッとした。

「それはそうよ。あなたが、重大なことを隠しもしないから」
「ほんとは毒見の一族じゃなくて、スパイだってこと?」
「そうよ。スパイって、死んでも正体を明かさないものなのに。あなたはスパイの風上にも置けないのね」
「じゃあ私のこと、告げ口する?」
「したらどうする? 私を殺す?」
「んなわけないじゃん。私、エリナさん好きだもん」

 エリナはキュンとした。

「エリナさんはいい人だから好き。好きな人に、嘘はつけないでしょ?」
「ありがとう。私もランさんが好き」
「じゃあお互いに、さん付けをやめようか?」
「うん、ラン」

 エリナはデレッとした。

「エリナ、あなたを巻き込むつもりはないし、絶対に迷惑はかけないから安心して」
「ありがとう。でも、協力できることがあったら遠慮なく言ってね」
「今のところ頼むことはないわ。ところでエリナは、コーデリアさんの世話係なのよね?」
「うん」

 エリナは頷いた。エリナの女主人は、仕事をほとんど言いつけないので、こうして後宮で暇にしていられることが多いのだ。

「そしたら、王太子の裏切りを教えてあげて。きっと近いうちに、『お前を毒見役と交代する』って言われるよって」
「心の準備をさせてあげるのね」
「それで、もしそう言われたら、『では毒見役の心得を教わってきます』と王太子に言って、私を訪ねてくるようにと伝えて。そうしたら、コーデリアさんを救けてあげられるかもしれない」
「本当に? 奥さんを救けてくれる?」
「うまくいけば。でも救けるのは私じゃなくて、私のボスだけど」
「反体制派のリーダーね。どういう人?」
「あなたもよく知っている人よ、エリナ」

 不思議な「毒見役」の少女は、純粋な心から味方になった同い年の女官に、魅力的ないたずらっぽい目を向けて言った。

「その人の名前は、レオ第二王子」


 レオ第二王子。
 突然変異である。
 シェナ王国の王家の血筋に、彼のような人物が現れたことはない。
 彼は、権力に興味がなかった。
 彼は、不正を憎んだ。
 彼は、平民や奴隷に同情した。
 それらは、父や母や兄の中をくまなく探しても、ひとかけらも見当たらぬ性質ばかりであった。

 父親のグレイス二世は、レオ第二王子にまったく期待をかけていなかった。長男のジェイコブは、幼い頃から小動物を殺すなど、非情で男性的なエネルギーを発散させていたが、次男のレオは七歳のときに、巣から落ちたツバメのヒナを部屋でこっそり育てていたことがあり、なんて女みたいなやつだと父親をひどくがっかりさせた。

 以来、両親も兄も、レオを軽んじた。どうせロクな男にはなるまい。将来のためにと、帝王学を叩き込むのもバカらしいくらいだ。

 レオ本人も、そう思われていたほうが気楽だった。現時点では王位継承の第二位であるが、兄が結婚して男子が生まれればそちらが二位になる。早くそうなって、王位継承の可能性が限りなく低くなることを願った。そうしてさっさと、放浪の旅にでも出たかった。

 放浪の旅は無理だったが、彼は学校をよくサボって遠出をした。気ままな第二王子のそうした行為を、誰も告げ口する者はなかった。誰もが王家の面倒に巻き込まれることを敬遠したからだ。

 遠出の先は決まって田舎だった。彼はごちゃごちゃした町には興味がなく、森や野原や田んぼの風景を好んだ。

 あるとき、田んぼを眺めて歩いていると、奇妙なことに気づいた。
 太い道の両側の水田だけ、稲が密集して伸びていて、そこから離れた水田にはほとんど稲がなかったのだ。

「どうして田んぼによって、こんなに差があるんだろう?」

 彼は近くにいた農民に声をかけて尋ねた。農民は、第二王子の顔を知らなかった。物好きな貴族のお坊ちゃんだと思い、ごく気軽に答えた。

「へい、領主様の命令で、稲をあっちからこっちに移したんで」
「なぜそんなことを?」
「視察のために、王様がこの道を通るとかで、ここだけ稲をびっしり植えたんでさあ」

 なるほどーーレオ第二王子は思ったーーこの地方の領主は、自分の土地の収穫が良いように見せかけるために、わざわざこんな手のかかる小細工をしたのか。

「ここだけの話、王様は収穫が少ないと、農民をサボらせるなって領主様を怒鳴りつけなさるもんで。領主様は王様の機嫌をとるために、豊作のフリをなさるが、そうすりゃ国にたんと米を貢がねばならねえ。でも実際にゃあ米はねえんだから、俺たちゃ飢えて死ぬのを待つばかり。あんまり辛くて辛くて、自分から死ぬのもいるだよ」

 地方と国への二重の税に追い詰められて自棄(やけ)になっていた農民は、行きずりの「貴族のお坊ちゃん」に、この国で絶対的なタブーとされている国王批判を含んだ愚痴をこぼした。

 レオ第二王子は衝撃を受けた。
 収穫が少ないと農民をサボらせるなと怒鳴る? 自分は働きもしないで、贅沢三昧の暮らしをしているのに?
 父親のグレイス二世に、吐き気を催すほどの怒りを覚えた。

(父の恐怖政治が、地方領主を不正直にさせ、農民を地獄に突き落としている。それがこの国の現実だ。奴隷とはいえ、農民も同じ人間ではないか。一部の人間の贅沢のために、同じ人間が餓死したり自殺したりしていいわけがない。シェナ王国は変わらねばならない!)

 強くそう思ったが、この独裁国家を変えるには、国王、すなわち自分の父親に死んでもらうしかないことは明らかだった。

(それは不可能だ。もし仮に、父の暗殺に成功したとしても、兄が王となって権力を引き継ぎ、同じような恐怖政治を続けるだろう。では兄も暗殺するか? そのようなテロを、果たして誰が支持するだろう。結局国はめちゃくちゃになり、今以上の地獄を招いてしまうのではないか?)

 そもそも、いかに正義感に突き動かされたとしても、心優しい第二王子にテロだの暗殺だのができるはずがなかった。だからこれは、あくまでも想像上の話、絵空事のクーデターでしかなかった。

 が、この日以降、彼の胸にはずっとその思いが残った。
 学校を卒業し、嫌な軍務に就かされるなど公務の時間が増えても、彼は暇があれば田舎に足を運び、気になる農民の様子を観察した。
 数年前と同じく、太い道の両側だけはいつでも「豊作」だった。

 そんなある日、痛ましい思いを胸に田んぼを眺めていると、後ろから声をかけられた。

「第二王子どのじゃな」

 振り向くと、腰の曲がった老婆が立っていた。
 レオ第二王子は軽く頭を下げた。

「農家の方ですか?」

 老婆はその質問に答えず、

「農民と思ったのなら、どうして頭を下げたのじゃ?」

 逆に質問した。
 第二王子は答えた。

「歳上の方に頭を下げるのは、当然のことです」

 老婆の細い目が、鋭い視線を放つ。

「奴隷に頭を下げるのが当然とは驚いた。あなたはこの国を変える人じゃ。力を貸そうか?」

 レオ第二王子は非常な驚きをもって老婆を見た。

「あなたは……誰ですか?」

 老婆は答える。

「仙女(せんにょ)じゃよ」

 第二王子は眉をひそめる。

「仙女ですか。残念ですが、おとぎ話を信じる年齢は過ぎました」

 老婆はニヤリと笑う。それはいかにも、いたずらっぽい笑いだった。

「笑ってすまん。そう、確かに仙女は、おとぎ話の存在じゃ。でもそれは、わしらの正体を知らない昔の人間が、仙女と思い込んで語り伝えたのじゃ。それではわしの正体を明かそう。わしは」

 老婆は一呼吸おいて言った。

「転生者じゃ」
 


 どの国にも民間伝承はある。
 シェナ王国にもそれは無数にあるが、もっともよく国民に知られているのが、仙女の話だった。

 いわく、仙女の呪いによって、王女が百年間眠らされた。
 いわく、仙女によって醜い王子が美しくされ、愚かな王女が賢くされた。
 いわく、仙女にガラスの靴を授けられた哀れな娘が、王子と結婚した。等々。

「それらはどれも、本当は、転生者がしたことなのじゃ」

 田舎の畦道で、腰の曲がった老婆が、レオ第二王子に語った。

「転生とは何ですか?」

 言葉の意味がわからない第二王子が尋ねると、

「ある世界で死んだ者が、別の世界で生き返ることじゃ。その際に、職業を選べるのじゃが、わしはかれこれ六十年ほど前に死んだときに、仙女にしてもらっての。ちなみに仙女というのは、転生者が選べる職業の一つで、元々こちらの世界には存在しなかったのじゃ」

 無言で立ち尽くす第二王子。わからないことが多すぎて、何から訊いていいか思いつかないのである。

「完全に理解するのは難しいじゃろうが、わしという証拠を見て、この世にはそういうことがあるのだと納得されよ」
「では訊くが」

 第二王子は言った。

「『灰の姫』というおとぎ話がある。あれに出てくる仙女も転生者なのか?」
「そうじゃ」

 老婆が頷く。

「わしがこっちに転生するずっと前の話じゃから、憶測で答えるが、カボチャを馬車にしたと伝えられておろう? あれなどは、転生前の世界の知識と技術を使って、カボチャ形の馬車を作ったのじゃな。こっちの世界にはない技術だったから、魔法だと思われたのじゃ」

 第二王子は、まだ理解できない様子で首を捻っている。

「別の話で、王子を美しくしたり、王女を賢くしたりしたのがあるが?」
「それは簡単。転生するときに与えられる転生特典に、転生前の世界の道具を使えるというものがある。それがこっちの世界にとっては、驚異的な威力を発揮するから、いわゆるチートアイテムになるのじゃ。この場合は、転生前の世界の化粧品を使って王子を劇的に美しくしたり、転生前の世界の数学本か何かを与えて、王女を天才のように見せたのじゃろう」

 第二王子はもはや、理解を諦めた顔をした。

「あなたの話は難しい。いちおうもう一つだけ訊くが、王女を百年間眠らせたというのは?」
「これについてはわかっておる。転生前の世界の【睡眠薬】を服(の)ませたのじゃ。あっちの世界の薬は、こっちの世界の人間には強力に効く。わしの転生者仲間に、錬金術師を選択したカークという男がおるが、カークはそのことを実験で証明したそうじゃ。ついでに言うと、錬金術師も正体はほとんど転生者じゃよ」

 第二王子は俯いて考え込んだ。老婆の話を信じるなら、転生者というのはとんでもない力を持っている。人を天才にしたり、百年間眠らせたり……

 ハッと顔を上げる第二王子。突然、それこそとんでもないことを閃いたのだ。

(父と兄の暗殺は無理でも、百年間眠っていてもらうのはどうだ?)

 常に頭から離れなかった絵空事のクーデター計画ーーそれが不意に、現実味を帯びたのだ。

(もし父たちを殺したら、国は無法状態に陥る。が、単に「眠り病」になっただけなら、自分が代理の王を務めることによって混乱を避けられる。そうして、徐々に政治を良くしていけば、この国の民を救えるかもしれない)

 彼はこの考えに夢中になった。もしこれが可能なら、暗殺をしなくても済む。彼にとって、たとえ極悪の父と兄であっても、殺したり傷つけたりするのは何よりも忌避する事柄であった。

「念のために聞きます。薬を服んだ人は本当に百年間眠るだけで、死ぬことはないのですね?」
「わしにそれを教えたカークは、百パーセント信頼できる男じゃ」
「しかし、百年間飲まず食わずで死なないというのは、にわかには信じがたいですが」
「そのメカニズムもわかっておる。あっちの世界の【睡眠薬】をこっちの世界の人間が服むと、ちょうど白魔法の【スリープ】をかけられたときのように、生命は維持したまま細胞の活動が超スローになるのじゃ。白魔法は知っておろう?」

 首を傾げる第二王子。

「冒険者が、モンスター退治に使う技ですか? 幸いシェナ王国にはモンスターがいませんので、そのようなものを目にする機会はありませんが」
「わしは仙女としていろいろな国へ行ったから、モンスター退治に加わったこともある。それはともかく、細胞の活動が超低速になると、呼吸だけで生命を維持する【ブレサリー】という状態になるのじゃ。実際、ヨガの達人の中には、過酷な訓練によって【ブレサリー】の術を身につけて、七十年間も呼吸だけで生きた人間がいるそうだて」
「では百年後に再び目覚めたときには、ピンピンしているのですか?」
「そうじゃ。きっと本人にとっては、普通に一晩寝たくらいの感覚じゃろう」

 それも困るな、とレオ第二王子は考えた。

(百年後に眠りから覚めた父は、自分こそ王だと主張するだろう。そしてそのときの政治形態がどうであれ、強引に独裁国家を復活させようとするに違いない)

 そのための対策は考えておく必要がある。が、それは百年先のことだ。今やるべきことは、【睡眠薬】の入手だが……

「その薬を、譲っていただくことはできますか? 必ず良いことに使うと約束しますので」
「国を変えるのじゃな? 喜んで協力する」

 老婆は微笑んだ。しかし、

「わしは持っておらん。転生特典にそれはなかったからの。今から薬を持つ転生者を捜しに行こう。毒見の一族に紛れている、大変美しい少女がそうだと聞いたことがあるのじゃ」


 その日は時間がなかったので、転生者捜しは老婆にお願いして別れた。
 王宮に帰ったレオ第二王子は、女官のエリナを呼んだ。十四歳のエリナは、まだ少女ながら勘が鋭く、その観察眼を第二王子は信頼していた。

「エリナ、ニコラスだが、父や兄を嫌っていることは間違いないな?」
「絶対そうです。だけど、レオ王子様のことは大好きですよ」

 ニコラス・スミスは宰相だった。宰相とは、王宮において王の国政を補佐する役職であり、側近中の側近であると言えた。
 権力の甘い汁を吸いたい者にとっては、垂涎の的の地位である。が、独裁者に気に入られて側に置かれるというのは、諸刃の剣でもあった。ひとたび王の癇(かん)に障れば、たちまち失脚し、最悪の場合は処刑されることもあるのだ。

 ニコラス・スミスもそれは重々承知していた。だから言動には細心の注意を払い、常に慎重に立ち回っていた。にも関わらず、最近グレイス二世のニコラスに対する態度は冷たかった。なぜか。

 理由などない。人間、ありとあらゆる権力を有すると、気まぐれになるらしい。ニコラスがうまく立ち回れば立ち回るほど、グレイス二世はそのそつのなさが疎ましくなり、理由なく苛立った。

 ただでさえサディストだ。ニコラスなど、元々ゴミに過ぎなかったが、頭が切れるので引き上げてやった。それが調子に乗っている。どれ、処刑宣告してやるか。きっと蒼褪めて、ぶるぶる震え、命乞いするだろう。実に面白い。妻も喜ぶだろう。よし、決めた。近いうちに殺そう。

 王のその感情を、繊細なニコラスは感じ取っていた。王は私を排除しようとなさっておられる。何の落ち度もないのに。嗚呼、なんと理不尽なことだろうーーそう思っても、宰相の地位を自ら降りることもできなければ、王宮から逃げることもできない。もはや黙って死の宣告を待つのみ。そんな絶望感を隠しながら、ニコラスはサディストの王のために、日々の公務を哀れにもそつなくこなしているのであった。

 女官のエリナは、宰相の変化を見逃さなかった。宰相の心は王様から離れている。王太子も信用してない。唯一信頼しているのは第二王子だけ。私とおんなじね。そうだ、このことを、レオ様に教えてあげよう。

 このような経緯(いきさつ)から、レオ第二王子は、宰相のニコラス・スミスを自分の側につかせることができると踏んだのである。

 第二王子は女官のエリナを通じて、宰相に極秘の手紙を渡した。宰相は、深夜ひそかに、第二王子の部屋を訪れた。

「殿下、よくぞ国を救われる決心をなされました」

 ニコラスは泣いていた。レオ第二王子が立ち上がってくれることでしか、自らの死を逃れるすべはなかったのである。まさに奇跡が起こった。これが泣かずにいられようか!

「私だけではありません。実を申すと、王と王太子に、心からの忠誠を捧げている文官はほとんどおりません。皆、恐怖から従っているだけです」
「軍人はどうだ?」

 第二王子が小声で訊いた。

「残念ながら、軍はその性質上、王に絶対の忠誠を誓っております。王が死ねと言えば死ぬ、それが軍人ですから。しかしです」

 ニコラス宰相が身を乗り出す。

「王と王太子がいなくなって、殿下が王になれば、軍は新たな王に従います。ですから、王と王太子さえ斃せば、必ずやクーデターは成功するでしょう」
「そうはいくまい。僕が父と兄を殺せば、それは反逆だ。正統な王位継承ではない。となると、軍は反逆者の僕を殺して、軍事政権を樹立しようとするだろう。僕には軍事力がないのだから、それを防ぐ手段がない。国は大混乱に陥り、今よりもひどいことになる」

 宰相は舌打ちした。

「くそっ! あの二人さえいなくなれば、何もかもうまく行くのに。地方領主の中にも、そう思っている者がたくさんいるはずです」
「ニコラス、ぜひ仲間を増やしてくれ。このクーデターを支持してくれる仲間を」
「え? ですが、軍はどうするのです?」
「父と兄は斃さず、『眠り病』になってもらうのだ」

 第二王子は宰相に説明した。

「転生者ですと!?」

 シーッと第二王子は指を唇に当てた。しかし宰相は興奮し、

「それなら成功間違いなしだ! 何なら【睡眠薬】だけでなく、戦争に役立つチートアイテムも譲ってもらいましょう。そうすれば、軍を力で抑えられるじゃないですか!」
「ニコラス、僕は戦争が嫌いなんだよ。それに殺人も」
「あくまでも、王と王太子は生かしておくつもりなんですね?」
「そうすれば、反逆にならない。僕は王の代理という立場で政治ができる」
「なんとまあ、殿下はお優しいですなあ!」

 ニコラス宰相は、文官や地方領主らと極秘に接触し、「反グレイス二世・親レオ第二王子」のネットワークを構築する役目を負った。
 一方、レオ第二王子の役目は転生者捜しである。それについて宰相は、

「転生者は、毒見の一族に紛れている美少女なのですね? とすると、うまくやれば王宮内に潜入させられるかもしれません。毒見役の候補者選びは、私の仕事ですから」
「なるほど。あまり目立たない候補者の中にその転生者を入れれば、父はきっと選ぶだろう。もちろん、転生者がそこまで協力してくれればの話だが」
「ぜひお願いして下さい。チートアイテムを持つ一人の転生者の力は、一万人、いや、それ以上の軍人の力に匹敵する。我々は力を持つことになるのです」

 ニコラス宰相は拳を固めた。

「王は毒見役を数年で交代させます。そろそろ交代の時期です。そのときこそ、この暴力によらないクーデター、謀略式無血クーデター開始の号砲となるでしょう!」