ジェイコブ王太子は目を覚ました。
 そして、前夜の記憶がないことに気づいた。

「はて、俺はいつ寝たのだろう?」

 起きた場所はベッド。しかし見覚えがない。白いシーツを被せただけの粗末なベッドである。掛け布団も、えらく薄くて貧弱だ。

「あ、本当に、百年ぴったりで起きた」

 ジェイコブ王太子を見下ろして、見覚えのない女が言う。

「先生、第三号の患者さんが起きました」

 女の声に、白衣を着た男が近づいてきた。患者? ということは、俺は事故にでも遭って意識をなくし、この病院に運ばれたのか? それにしても、何だか安っぽい病院だ。王宮のそばには、もっと立派な病院があったはずだが……

「やあ、王太子。気分はどう?」

 やあ王太子だって? ジェイコブの頭が混乱する。ここはどこだ。シェナ王国であるはずがない。きっと外国だ。しかも王家を敬うことを知らない、非文明国に来てしまったに違いない。

「何とも言えない気分かい? きっと腹が減ったろう。それより喉が渇いたかな? 百年飲まず食わずの患者は、なんせ我々も診たことがないんでね」

 外国語ではないのに、意味がわからない。
 ジェイコブ王太子が無言でいると、

「まあ、急に食べても胃が受けつけないだろうから、お粥でも用意しよう。すぐに食べられないようなら、これを読んで。グレイスとポーラは先に起きて、もう読んだから。ちなみにこの文書を読むことは、レオ三世国王陛下の御命令だから、ゆめゆめ逆らわないように」

 あまりの無礼さに逆に怒ることもできずにいると、はい、と文書を渡された。
 表紙の真ん中に、「王太子様、婚約者の私を毒見役と交代させるとはどういうおつもりですか?」とある。

「何だこれは?」

 思わず声が裏返る。その瞬間、グーと腹が鳴った。
 医者と看護師が手を叩いて爆笑した。

 ジェイコブ王太子は無視した。そんな、無礼な医者に笑われたことよりも、「毒見役と交代」という衝撃のフレーズに心を掻き乱されていた。

(そうだ、思い出したぞ。ランはどうなった? それからコーデリアは? 結局あいつはフグ毒で死んだのか?)

 表紙をめくって文書を猛然と読む。驚きの連続。
 読み終わったとき、ようやく「元王太子」は、自分の置かれている境遇を理解した。

「……そうか。王位は、レオによって簒奪されたのか」

 現在の国王はレオ三世とか言っていた。とすると、やつの孫が、資格もないのに王の椅子に座っているらしい。

 ジェイコブはカッとなった。
 正統な王位継承者は俺だ。
 しかも、この医者の話では、父も母も百年の眠りから覚めたという。
 ならば、三人揃って国民の前に姿を現そう。そして憎むべき簒奪者の孫に、王位を返還するよう命じるのだ!

「言っとくけど」

 医者の声には、ぞっとするような冷たさがあった。

「これを読ませたのは、王太子、あんたが自分の悪事を恥じて、反省するためだから。私は悪い人間でした、これからは心を入れ替えますーーそう書いてある紙にサインしなければ、我々はどんな医療処置もしてはならないことになっている」
「ふざけるな!」

 ついにジェイコブが爆発した。

「貴様は死刑だ! 貴様の一族もだ! 俺は王位継承者だぞ!」
「落ち着けよ、王太子。それは百年前の話だ。百年のあいだに、この国がどれだけ進歩し、科学技術が発展したかを聞いたら、あんたらは何もできない過去の亡霊に過ぎないと悟るだろうよ」

 ジェイコブはベッドから立ち上がり、医者を突き飛ばした。

「ヘイ、王太子。どこへ行く?」
「外だ」
「外へ出てどうする?」
「王位の正統性を訴える。調べれば、俺が正しいことがわかるはずだ」
「まあ、一部の貴族や軍人は、あんた方を崇拝し、今日の『復活』を待ち望んでいたようだがね。でもあんた方は、このままじゃ彼らに会えないよ」

 ジェイコブは病室のドアの前で振り返った。

「どういう意味だ?」

 医者は肩をすくめた。

「百年のあいだに、この星の環境は激変したんだ。恒星から出る電磁波が強烈になってね。現代の医療処置を受けないと、大変なことになるよ。誰かと会うどころじゃない。そういう意味さ」

 ジェイコブは、医者の目をじっと見つめた。

「サインしないと処置しないんだろ?」
「ああ」
「それで、父と母はサインしたのか?」
「いや」
「なら俺の返事はこうだ」

 ジェイコブは唾を吐いた。
 医者は、ゆっくりとハンカチを出して顔を拭いた。

「グレイスとポーラは一階のホールにいる。お前も合流して行け。チャンスは与えたんだ。後悔するなよ」
「早く国外に出ることをお勧めする。死刑が執行される前に」

 病院のホールで、グレイス二世とポーラ王妃が待っていた。

「息子よ」

 グレイス二世は、険しい顔で言った。

「まだ逆転の目はある。諦めるな。我々への忠誠を失っていない人民に会いに行こう。もし軍をこっちにつけることができたら、勝利は間違いない」
「陛下。陛下を崇拝している貴族や軍人が大勢いるそうです。彼らを焚き付けましょう」
「急いでちょうだい。その人たちのところへ行けば、きっとまともな食事が食べられるわ。犬の食べるような病院食じゃなくて」

 元国王と元王妃と元王太子は、鼻息荒く病院の外に出た。

(しかしこれが……本当にシェナ王国か?)

 町のあまりの変わりように、ジェイコブは言葉を失った。建物は木からコンクリートに。人々の服装は明るい派手な色合いに。また土が剥き出しだった道路はすべて舗装され、その上を、不気味な機械が人を乗せて動いている……

「危ない。あの鉄の塊にぶつかったら、馬に蹴られたどころじゃないぞ」

 グレイス二世が言ったときだった。
 ジェイコブは、腕がかゆくなった。
 掻いた。
 皮がめくれて指に血がついた。
 はっとして腕を見る。
 腕は、真っ赤に火膨れしていた。

「熱い!」

 ジェイコブは初めて気づいた。
 ほぼ同時に、グレイスとポーラも気づいた。

「火傷よ!」

 叫んだポーラの唇は、血を吸ったヒルのように膨れ上がっていた。

「医者が言っていた電磁波とは、これか?」

 言うと同時に、グレイス二世は地面に倒れて転げ回った。

「熱い! 熱い! 全身が焼ける!」

 ジェイコブは痛みに朦朧とした頭で、必死に考えた。

(まだ間に合うか? 病院に戻って医療処置を受けたら、命は救かるか?)

 ジェイコブはよろめく足で、病院目指して進んだ。
 一歩、また一歩……
 一歩ごとに、電磁波は深く身体を刺し、細胞の中の水分を、ぶくぶくと沸騰させた。

「ああ、目が見えない。病院はどこだ? 俺は救かるのか?」

 ジェイコブは前のめりに倒れた。
 全身が焦げた。
 黒ずんだ皮膚からプスプスと煙が上がっても、元王太子の指先は、病院に向かって虫のように動いていた。

        《完》