王宮のセレモニーホールで舞踏会が催され、そこで婚約発表がなされた。
 高貴な来賓たちによる鳴り止まない万雷の拍手に、コーデリア・ブラウンは震えが止まらなかった。

(ああ、この世にこんな幸福があるなんて。光栄、陶酔、晴れがましさ、達成感……そのすべての感情の頂点に、今私はいる)

 すぐ隣に満面の笑みで立っているジェイコブ王太子は、自らの口で婚約を発表したこの瞬間まで、一つの欠点もコーデリアに見せなかった。
 常に優しく、温かく、パーフェクトな婚約者であり続けた。
 彼女の他愛のない拙い会話にも、退屈した顔などいっさいせず、いかにも面白そうに耳を傾けた。

(メス豚め。そのよく動く唇を、ぶっとい縫い針で縫い合わせてやろうか!)

 こんなに優しい男性がいるかしら? という驚異すら、彼女は覚えるほどだった。

(何だか出来過ぎだわ。あまりにも幸せだと、かえって心配になる。婚約破棄とか、ついバッドエンドを空想してしまうわ)

 もちろん王太子はそうするつもりであり、それどころか、うんと辱めて殺すつもりだった。
 婚約破棄で満足するようでは、サディストとは呼べない。むしろマゾだ、とジェイコブ王太子は考えていた。

(あんな手紙を送りつけておいて、手ひどいしっぺ返しがないと信じてやがる。俺を不快にした罪は、千倍にして償わせてやるからな!)

 王太子がスカッとするように死ねば、ようやく罪を償えるというわけだ。これはその「スカッ」を極限まで大きくするための婚約発表であり、盛大な舞踏会であった。

 が、その「幸福」の絶頂において、たった一点、コーデリアの胸には黒いシミがあった。
 王太子の弟、レオ第二王子の存在である。

(ついにこの日を迎えるまで、祝福の言葉を一つももらえなかった。こんな仕打ちをいつまでも受ける謂れはない。今日こそは、祝福してもらうわ!)

 一点のシミはどうしても気になるものである。それを落とすために、彼女は晴れやかな舞台の主役であるにも関わらず、曇った顔を第二王子に向けた。

「レオ殿下。どうぞ私たちの門出を、祝って下さい」

 舞踏会で誰とも踊らずに、不機嫌そうにテーブルに座り続けていた第二王子は、

「門出? それは夫婦として、新生活を始めるという意味ですか?」

 と訊いた。

「ええ、そうです」

 コーデリアが答えると、

「だったらまだ早いですね。婚約を発表したばかりですから」

 まるで何でも批判する気難しい評論家のようだった。

「もちろん、正式に結婚したわけではありません。そのくらいは愚かな私にもわかっています。ですがこういう席では、お祝いの言葉を一つくらい下さっても当然ではないですか?」

 彼女の声は涙声になっていたが、第二王子がそれに心を動かされた様子はない。

「コーデリアさん(レオ第二王子は彼女を決して義姉(ねえ)さんとは呼ばずにこう呼んだ)、あなたは婚約を、人生の頂点であると勘違いしていませんか? また他人に祝福されなければ、幸福ではないと勘違いしていませんか?」

 コーデリアは黙った。そのあまりに理屈の勝(まさ)った物言いに、呆れた思いだったのである。

(この人は、根本的に女性の気持ちが理解できないのだ。絶対にモテないに違いない!)

 つくづく憎い男性(ひと)だ。優しい兄の王太子様は、写真だけで一目惚れしたのである。その実の弟が、これほどコーデリアの美貌に冷淡で、かつ嫌われても仕方のない態度をとり続けるとは、どう理解したらいいのだろう? 徹底した女嫌いなのか、それとも……男性しか好きになれない人なのだろうか?

 彼女の疑惑は当たっていなかった。彼は決して女嫌いでも男好きでもない。ただ彼は、人を外見ではなく、内面で判断するようにしていた。

 彼は彼女に言った。

「コーデリアさん。あなたが聡明であれば、婚約が人生の頂点でないことも、他人の祝福が自分の幸福に関係ないことも理解できるでしょう」
「ええ、ええ、そうでしょうよ。でも殿下のように女性の気持ちを理解できない方に、言われたくはございませんわ」
「コーデリアさん、あなたがもし聡明で、一国の王太子妃に真にふさわしい女性であれば、私の口から祝福の言葉が出ないことを理解できるでしょう」
「まどろっこいし言い方はしないで下さい! 何がおっしゃりたいのですか?」
「では言います」

 レオ第二王子は声を潜めた。

「今年、シェナ王国の農民が、何人餓死したかご存じですか?」

 コーデリアは言葉に詰まった。知らなかったし、考えたこともないことだ。

「約二万人です。まだ六月の時点でですよ。それなのに、この豪華なパーティーは何ですか? たった一日でどれほどの税金が消えましたか? 今この瞬間にも、何人の農民が餓死し、首を吊り,絶望から我が子を手にかけているか想像したことがありますか?」

 第二王子の潜めた声は、コーデリアの耳にしか入らなかった。そしてそれは、コーデリアの耳を聴こえなくした。残酷な現実に、頭の中が真っ白になり、耳の奥でゴーゴーと血液の流れる音がしたのである。

「……それは、知りませんでした。十八歳になるまで、貴族女性として恥ずかしくない妻になれるような教育はされてきましたが、農民の生活については誰も教えて下さいませんでしたから」
「兄が教えるべきでした。僕なんかの口から聞く前に」

 二人がちらりとジェイコブ王太子のほうを見たとき、彼はさる高名な公爵婦人とワルツを踊っているところだった。
 レオ第二王子は仏頂面になって腕組みをした。

「コーデリアさん。あなたはいつもうっとりと兄を見つめていますが、人の本性は数か月やそこらではわかりませんよ。第一印象が良いほど、のちになって評価が変わるものです。こんなに早く婚約して正解だったかどうか、よく考えることですね」