王太子様、婚約者の私を毒見役と交代させるとはどういうおつもりですか?



 コーデリア・ブラウンは生きた心地がしなかった。

「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」
 
 と、コールマンが誰何したときに、誰が何を言っているのかはわからなかったが、

(廊下で人がしゃべっている)

 ということはわかり、ベッドで寝たフリをしながら、小刻みに身体が震えるのをどうにも抑えられなかった。

(もしかして、エリナが衛兵にでも見咎められたのでは? そして、料理長を私の部屋に連れてこようとしたこともバレたのでは? もしそうなら、私も含めて、怪しい行動をしたとして国王陛下の前に突き出されるかも。最悪の場合、地獄のような拷問を受けて、レオ殿下のクーデター計画を白状させられてしまうかもしれない……)

 ここまできてレオ殿下を裏切るくらいなら、いっそのこと舌を噛み切って死のうーーそんな悲愴な決意を固めるほど、コーデリアの予感は悪い方向に膨らんだ。

 そしてそれは、天使が介入しなければ、まさしく的中する予感であった。

 やがて、料理長が逃げる足音、コールマンが怒鳴る声、エリナが胸を刺されて倒れる音なども聞こえ、コーデリアは悲鳴が出ないように掛け布団の端を必死で噛んだ。

(今にドアがノックされる。衛兵に、部屋から引きずり出される!)

 恐怖で気を失いそうになるコーデリア。
 ところが、ランがコールマンをビンタしたバチンという音と、「天使さん! そっちはいいから、こっちを!」という怒鳴り声がしたあとは、ほとんど物音がしなくなり、コーデリアの部屋がノックされることもなかった。

(どうしたんだろう。エリナと料理長は、どこかに連れ去られたのかしら?)

 不安が募って寝たフリを続けられなくなり、ベッドから降りて、そーっと部屋の扉まで歩いていったときに、

〈コツコツ〉

 扉がノックされたので、わっと叫んでしまった。
 しかしーー

「奥さん、エリナです。開けて下さい」

 と、若い女官の落ち着いた声が、扉の隙間から聴こえてきたので、コーデリアは安堵のあまり膝から崩れ落ちた。

「良かった……見つかったんじゃなかったのね」

 思わず独り言が洩れる。
 コーデリアはゆっくりと立ち上がり、扉を開けた。
 すると、

「説明はあとでします。とにかく全員入れて下さい」

 と早口で言ったエリナを先頭に、暗い顔をした料理長と、晴れやかな笑顔のランと、衛兵隊長のコールマンをお姫様抱っこしたイケメンの天使が入ってきた。
 今度こそコーデリアは、気絶しそうになった。

「奥さん、ベッドにお連れします。どうぞ気を楽にしてお聞き下さい」

 倒れそうになるコーデリアをとっさに支えたエリナが、女主人をベッドまで歩かせ、ふかふかのクッションによいしょと座らせた。

 さて何から説明しようかと、エリナが思案していると、料理長がいきなりコーデリアの前に進み出て土下座をした。

「お赦し下さい、コーデリア様!」

 美しい王太子の元婚約者を目の前にしたとたん、自分がいかに恐ろしいことを実行しようとしていたかにハッとさせられ、心の底から懺悔したい気持ちに駆られたのである。

「王太子殿下に頼まれて、私は明日の朝食にーー」
「言わなくていいよ」

 と、料理長を制止したのはランだった。

「王と王太子に逆らったら家族ごと殺されるのは、みんな知ってるから。ところで毒って、厨房の氷の冷蔵庫に隠してあった、魚の内臓?」

 料理長の顔が、真っ青になった。

「あ、あれを、見たのですか?」

 ランはやっぱりとつぶやき、

「食べて処理しようと思ったんだけど、グロすぎて無理だった。天使さん、あれはどうしたらいい?」

 天使はコールマンを抱っこしたまま、

「あなたが厨房に来る前に、この羽で一撫でして、無毒化しておきました。だから安心して食べられますよ」

 みんなシーンとしてこのイケメンを見つめていた。そこでランはコホンと咳払いをし、

「紹介が遅れましたが、こちらは天使さんです。私が死んだときに、こちらの世界に転生させてくれた恩人、いえ、恩天使です」

 説明はそれだけだったが、コーデリアも料理長もエリナも、それぞれ自分なりに天使の存在を受け止めた。なるほど、天使ね。どうりで羽が生えてると思った。きっといい人、いえ、いい天使に違いないわ。

 こうして、ジェイコブ王太子によるコーデリア毒殺計画にまつわる心配事は除き去られたがーー

「料理長さん、一生のお願いです!」

 ベッドから降りて床に正座し、料理長と目線の高さを合わせたコーデリアの胸には、自身の毒殺計画よりも遙かに重大な問題がのしかかっていた。

「明日の朝食に、【睡眠薬】を入れてほしいのです。どうか、どうかお願いします!」

 コーデリアの柔らかな手が、料理長のガサガサに荒れた手をギュッと包む。
 料理長は息を呑んだ。
 まるで宝石のように輝く、コーデリアの潤んだ大きな瞳が、息がかかりそうなほど近くに……

「プハー!」

 窒息寸前で、呑んだ息をようやく吐き出すことのできた料理長は、何度も首を縦に振った。

「コ、コーデリア様のお望みであれば、何でもさせていただきます!」

 ほらね、とエリナが、得意げに女主人のほうを見た。

「料理長はもう王室を崇敬してない。だから大ファンの奥さんの頼みなら絶対聞くって言ったでしょ? 私の勘はよく当たるんだー」

 コーデリアがエリナに微笑むと、天使が料理長に質問した。

「王太子からは、何に毒を入れるようにと頼まれましたか?」

 料理長は、イケメンの天使をまぶしそうに見上げ、

「はい、肉料理に入れろと」
「では【睡眠薬】は、肉料理以外の物に混ぜるといいですね。コーデリアさんは、すべての料理を毒見するのですか?」

 天使の質問に、コーデリアはいささか緊張ぎみに答えた。

「あ、はい。そう伺っております……天使、さん」
「でしたら、サラダのトマトにでも【睡眠薬】を入れたらどうでしょう? コーデリアさんは、毒見のときにトマトをとらなければいいのです。王太子はあなたが肉を食べるところだけに注意していて、トマトを選ばなかったことなど気にしないでしょう」

 コーデリアは黙って頷いた。確かにいい方法だ。たとえば飲み物やスープなどに薬が入っていると、均等に溶けてしまうので、どうしてもある程度は飲むことになる。その点、サラダのトマトにだけ溶けているのだったら、それを避けて皿にとって毒見すればよいのだ。
 そのとき不意に料理長が、

「あのー、天使さん」

 と、腰を浮かしながら発言した。

「もしよろしければ、私の代わりに、天使さんが【睡眠薬】を入れてくれませんか? そのほうが、成功確実に思えますので」

 コーデリアもエリナもランも、それに賛成するような顔をした。
 しかし天使は、

「私は生きている人間に対して、身体的な影響を及ぼすような力は行使しないと決めています。人を殴ったり、毒や薬を服ませたり、病気を治したり、傷を癒やすようなことはしません。良いアドバイスをしたり、人を導くことはいたしますがーーすみません」

 やろうと思えばできるが、地上の人間のことに干渉する限度を決めている。というのが、この天使の倫理観であった。

 料理長は、わかりましたと引き下がった。
 コーデリアは、チートアイテムである【睡眠薬】を料理長に渡した。

「国王陛下、王妃殿下、王太子殿下のそれぞれが、一粒ずつ服むようにして下さい。味や匂いはなく、水にとてもよく溶けるそうです」

 かつてのコーデリアは、自分の美貌を鼻にかけ、それを武器にしていた。
 しかし、ランの美しさに接して謙虚になった今では、自分の美貌をほとんど意識することはなかった。
 が、それでも料理長にとっては、やはり強力すぎる武器に違いなく、

「が、頑張ります!」

 薬を手渡しされた瞬間、思わず上ずった声で叫んでいた。
 と、その声に反応したのか、

「……うん?」

 天使にお姫様抱っこされた衛兵隊長が、目をパチッと開いた。
 たちまちコーデリアの部屋に緊張が走った。


 衛兵隊長のコールマンは、自分を抱いている者の顔を見上げた。

 イケメン。
 そしてーー背中には大きな翼。

「どうも、コールマンさん。私は天使です」

 だろうな、とコールマンは思った。初めて見るが、少なくとも人間ではない。
 天使が手を放すと、コールマンは床に立ち、部屋をゆっくりと見渡した。

 コーデリア・ブラウン嬢。
 料理長。
 女官のエリナ。
 新しい毒見役の少女。

 気を失う前の記憶が甦る。
 廊下で料理長とエリナを見つけ、誰何した。
 料理長がパニックを起こして逃げ出し、それを追った。
 するとエリナが飛び出してきたので、威嚇するために銃剣を向けた。
 が、暗い廊下で目測を誤り、銃剣の先がエリナの左胸を抉った。
 倒れたエリナを見降ろすと、女官服に赤いシミが広がっていった。
 その直後、風が吹いたように感じ、気を失った。

(そうか。あのとき天使が天から舞い降りてきて、俺を気絶させたのだな)

 そうコールマンは考えた。事実は、ランのビンタに意識を飛ばされたのだったが。

「コールマンさん」

 天使が穏やかに言う。

「あなたはこちらの少女を殺すところでした。ランさんが【絆創膏】で傷の手当てをしなかったら、エリナさんは出血多量で息を引き取る運命でした。なぜならこの王宮では皆ーーあなたも国王も侍医もーー罪のない十四歳の女の子が死ぬのを黙って見殺しにすることになっていたからです」

 その発言に、コーデリアが反応した。

「エリナ、あなたの胸!」

 うかつなことに、コーデリアはほかに気を取られることが多すぎて(突然の天使の出現や、料理長への頼み事など)、エリナの服が血に染まっていることに気がつかなかったのだ。

「奥さん、心配いりません。ランが転生者のアイテムで治してくれましたから」

 エリナが元気よく答えると、コーデリアは鼻をすすった。こんな少女でも命をかけて闘っているーーということに、胸を打たれたのだ。

「そして運命では」

 天使が続けた。

「あなたは料理長さんとコーデリアさんを拷問し、それによって聞き出したことを国王に告げ口し、国王は命令を出して、レオ第二王子と宰相とコーデリアさんを処刑することになります。そこには一片の正義もありません。ですから私は、地上のことに介入するのは本意ではありませんが、こうして降りてきたのです」

 衝撃的な天使の未来予告に、コーデリアたちは絶句した。

「しかし」

 なおも天使は続ける。

「あなたが国王の元へ行き、巡回したが何も異常はなかったと報告すれば、今言ったことは起こりません。代わりに正義がなされます。どうでしょう、コールマンさん。あなたはどちらの行動を選択しますか?」

 コールマンは、ギロリと天使をにらんだ。

「俺は国王陛下に忠誠を誓っている。だから嘘の報告などできん」

 すると、この衛兵隊長に大切な親友を殺されかけたランが、固く握った拳(こぶし)を突き出して怒鳴った。

「偉そうにすんな! あのとき私がビンタじゃなくてグーで殴ってたら、今頃あんたはお陀仏(だぶつ)だったんだぞ!」

 コールマンは顔色一つ変えなかった。言われたことの意味がわからなかったのである。

「衛兵隊長さん」

 コーデリアが、情に訴えかけるように言った。

「あなたの行動によって、広く国民に慕われているレオ殿下が死ぬかもしれないのです。殿下の優しさはあなたもご存じでしょう? その罪のない血を流す代わりに、命を救う選択をして下さいませんか?」

 コールマンがコーデリアに顔を向けたが、やはり表情は変わらなかった。

「答えは一緒です。国王陛下に対し、ありのままの事実を報告するのみです。それとも陛下を裏切れとでも?」

 このとき、料理長がゴクリと唾を呑み、勇気を振り絞って言った。

「コールマンさん、聞いてくれ。私はジェイコブ殿下に、コーデリア様を毒殺するよう命令された。もちろんそれは、陛下の了承を得てのことだと思う。これはただの殺人だ。婚約者に飽きただけの、身勝手極まる行為だ。だから私は、もう陛下や王太子殿下を尊敬できなくなり、盲目的に従うことをやめた。どうかコールマンさんも、現実を見てほしい。国王陛下と王太子殿下に、果たして忠誠を貫き通すだけの価値があるかどうかを」

 コールマンはじっと虚空を見つめた。ジェイコブ王太子に、尊敬できない面があることは確かだ。本当に国のことを第一に考えているのかと疑問に感じることもある。が、だからと言って、軍人が忠誠を捨てたら国を守れない。それだけは、何があってもしてはならないことだ。

「料理長」

 コールマンは冷たく言い放った。

「お前の考えなどどうでもいい。俺は俺の務めを果たす」
「ねえ、隊長さん」

 その鋭い勘で、物事の本質をズバリと突くことのあるエリナが、不意に質問を投げかけた。

「隊長さんは、それで幸せ?」

 コールマンはエリナを見た。質問には答えなかった。
 エリナが一歩前に出る。

「本当は知ってるんでしょ? 私たちの王が、国民を幸せにしていないことを。その王に仕えることで、人を不幸にする体制をせっせと支えていることを。だからあなたは、そんな不幸せそうな暗い目をしてるんだわ」

 コールマンが銃剣を持ち上げた。
 その刹那、風が吹き、手から銃剣が消えた。
 銃剣は、ランの手に移っていた。

「殺せたよ」

 銃剣の先は、正確にコールマンの心臓に向けられている。

「あんたがまばたきするあいだに、私はあんたを殺せる。でもそうしないのは、私は人殺しの王様とは違うから。こちらの天使さんもそう。その気になれば、あんたの命なんか一瞬で奪えるのよ。でもそうしないのは、あんたが正しい道を選べるように、チャンスを与えてやってるんだよ!」

 コールマンは銃剣の先を見据えた。
 そして、おもむろに床にあぐらをかき、

「殺すなら殺せ。俺は陛下のために死ぬ覚悟はできている。陛下を裏切ってまで、生き延びようとは思わない」

 ランは天使のほうを見た。
 天使は、仕方ないですね、と言って肩をすくめた。

「コールマンさん」

 天使が近づいて、羽でコールマンを撫でた。
 と、たちまちコールマンの身体は硬直した。天使の力によって動けなくされたのである。
 
「あなたには、言葉による説得は通じないようです。なので今からこの国の実態を見てもらいます。自分の目で見たものによって、どう行動するかを決めて下さい。ではランさんも一緒にどうぞ」

 そう言って天使は翼を広げると、その背中にコールマンとランを乗せ、まるでつむじ風が舞い上がるように王宮から消えた。


 天使は、ほんの数秒で、王宮からおよそ百キロ離れた山麓の農村に飛んだ。
 その背中で、ランと衛兵隊長のコールマンがハッと目を覚ます。瞬間移動をしているあいだ、ほとんど気を失っていたのだ。

「ここは?」

 呆然とつぶやくラン。糠のような雨に、服がしっとりと濡れそぼつ。

「ある農家の上空です。私の力で、屋根を透視できるようにします。向こうから、こちらの姿は見えません」

 天使が言ったとたん、藁葺きの屋根が透けた。
 家の中では、深夜にもかかわらず、八人家族の全員が起きていた。

「お母さん、見て。これ何だと思う?」

 六歳の次女の声が、天使とランとコールマンの耳にはっきりと届いた。

「何だろうね。クマさんかい?」
「違うよ。クマさんは耳が丸いんだよ。これは三角でしょ?」

 真夜中に粘土遊びとは……ランはそれを、可愛らしい粘土のお人形とは裏腹に、何か異様なものに感じた。

「この大きなしっぽは、タヌキさんでしたー」 

 次女がケラケラと笑うと、十二歳の長男も、

「爺ちゃん、見て。おいら、お城作ったよ。王様と王妃様と王太子様が住んでるんだ」

 竹と紙で作ったお城を見せ、幼児のようにはしゃいだ。
 その様子を、泣き笑いのような顔で黙って見ていた一家の主(あるじ)が、

「さて、そろそろ、ろうそくが尽きてしまう。それが最後の一本なんだ」

 急に八人家族がシンとした。やっぱり何か変だーーランは胸騒ぎを覚えた。

「みんな、一息に飲んでくれ。それで楽になれる」

 主人は、家族一人一人の前に茶碗を置き、ヤカンから液体を注(そそ)いだ。

「あれは何? 何をしてるの?」

 下を見降ろしたまま、ランが天使に訊くと、

「青酸ソーダ入りのジュースです。彼らは今から一家心中するのです」

 えっ、とランが甲高い声を出したが、下の家族は無反応だった。上空での会話は、天使の力で聞こえないようにされていたのだ。

「天使さん、止めないの? まさか、見殺しにはしないよね?」

 ランの問いを、天使はそのままコールマンにパスした。

「コールマンさん、どうしましょう。見殺しにしますか?」

 コールマンは答えない。ただじっと、怒ったように下の光景をにらんでいる。

「あなたのような軍人も含めて、国民には知らされていませんが」

 天使が静かに言う。

「農民の餓死や自殺や心中は増える一方です。なぜなら、どんなに不作でも、納める税は年々増えているからです。王がそう命令しているのです」

 そのとき下では、十歳の長女が泣き出し、それに耐えきれなくなった長男が、

「……おいら、最初に飲んでいい?」

 と、茶碗を取った。
 
「王は知っています」

 天使が言う。

「餓死者や自殺者の数は、王に報告されています。しかし彼は、それを薄笑いで聞くと、食い扶持が減っていいとさらに税を増やし、自分は毎回捨てるほど多くの食事を食卓に並べさせています。コールマンさん、あなたはこの現実を知っていましたか?」

 コールマンは、あっと小さく声を洩らした。
 長男が、茶碗を口元に近づけたのだ。
 飲めば呼吸困難となり、早ければ数分で死亡する。

「天使さん!」

 たまらずランが天使の羽を揺さぶったときーー

「待つのじゃ!」

 玄関の戸がいきなり開けられて、驚いた長男の手から茶碗が落ちた。

(……誰だ?)

 コールマンは知る由(よし)もなかったが、その闖入者の正体は、ランとレオ第二王子を結びつけた、職業「仙女」を選択した転生者の老婆だった。

(まるでいきなり空中から現れたみたいだが、あの老婆も、天使の仲間か何かか?)

 コールマンの頭は激しく混乱した。が、ともかく長男が毒を呑まずに済んだので、声を出さずにほっと息をついた。

「一家心中などやめたがいい」

 老婆は、一家の主人を説得しようとした。

「仙女の言うことに間違いはない。この世は変わる。死ぬ必要もなくなる。奴隷は解放されるのじゃ」

 主人は信じなかった。

「奴隷を解放? そんなことをした国は、過去から現在に至るまで一つもありません。ましてやシェナ王国が……」
「信じられんか? しかし何がどう変わるか、あんたにはわからんじゃろう? わからないくせに、何も変わらんと勝手に決めつけて、四人の幼子から未来を奪ったらそれは殺人じゃ」
「殺人ですよ!」

 主人は声を張り上げた。

「そっちこそ、決まってもないことを聞かせて喜ばせないで下さい。もういいから、楽にさせて下さい。望みはそれだけなんです。それとも奴隷には、死ぬ自由も権利もありませんか?」

(まずいな……)

 コールマンは唾を呑んだ。

(あの様子だと、説得は効かない。早くすべての茶碗をひっくり返さないと、発作的に毒を呑まれてしまうぞ)

 その悪い予感はあたった。
 老婆が説得する言葉を探しているあいだに、主人は茶碗を取り上げて、一息に毒入りジュースを呷(あお)ってしまった。

「あっ!」

 コールマンは叫んだ。
 全身から血の気が引き、手足が冷たくなる。

(クソッ! やられた! だがすぐに吐き出させれば、まだ間に合う)

 コールマンは天使の翼を引っ張って言った。

「俺を降ろせ! あそこに行かせろ! 毒を吐き出させる!」

 ところが天使は、慌てるそぶりもなく、

「おや、コールマンさん。あの農民は、王への務めを勝手に放棄して、死を選んだんですよ? そんな非国民の奴隷は、見殺しにすればいいじゃないですか」
「急げ! 早く救けろ!」
「王の意向を聞かなくてもいいですか? あの王様なら、ほっとけ、コールマン、と言いそうですが」
「早く!」

 翼を強く揺すられて、天使はじゃあと言い、コールマンを乗せたまま農家の家の中に瞬間移動した。
 コールマンは急いで天使の背中から飛び降りると、床に倒れた主人の口元に顔を近づけた。
 息はしている。
 服をはだけて左胸に耳をつける。良かったーー心臓もまだ動いている。

「コールマンさん」

 天使の柔らかな声が聞こえた。

「毒を吐かせる必要はありません。あなたは気がつかなかったようですが、一足先に、ランさんをここに瞬間移動させたのです。そしてランさんは、【胃薬】という万能薬を、この方が毒を呑む直前に、すばやく口に放り込んだのです。ですから彼は死にません。仙女さんも、そういうことですので、どうぞご安心を」

 コールマンは言葉もなく、天使とランと仙女をぼんやりと見た。
 すると、毒を呑み干したという思いで一瞬気絶していた主人が、うーんと唸って身体を起こし、突然現れたコールマンたちに驚いて言った。

「……あんたたちは誰だ?」

 天使の力で、彼らの姿は見えるようにされたのである。


「あんたは誰だ?」

 生活苦に耐えられず、一家心中を決意した農家の主人にそう訊かれたとき、

(俺は衛兵隊長。せっかくこの世に生まれたあなたたちを、地獄に突き落とした王様を護る仕事をしている。そしてその王様のおこぼれで、大変美味しい食事を毎日たらふく食っている)

 という答えが、コールマンの脳裏をよぎった。
 だが実際には何も言わなかった。
 無力感に襲われて、口が動かなかったのである。

(何と情けないことだ。この奴隷たちが作った米を、俺は毎日残すほど食っている。しかし彼らは、今日食べる米がなく、年端のいかぬ子どもたちとともに死のうとしている。それなのに俺は、今の今まで、国のために彼らよりもリッパな仕事をしていると思っていたのだ……)

 奴隷たちの犠牲に支えられて生きていながら、その奴隷の苦しみに目を向けようとしなかった自分を、コールマンは激しく愧(は)じた。

「コールマンさん」

 うなだれたコールマンの首すじに、天使の声が新雪のように柔らかく降りかかる。

「あなたの心が、私には見えます。あなたはこちらの家族が死ぬのを望んでいない。そうですね?」

 当たり前だ、という答えが浮かんでも、顔を上げることはできなかった。それを言う資格すら、自分にはないと感じていたから。

「この国の王様のせいで、すでに何万、いえ、何十万という農民が死んでいる。あなたはその王の信頼厚い衛兵隊長として、こちらの家族に合わせる顔がない。だから何も言えないでいる。そうですね?」

 この場合、返事をしないことが返事になった。

「でもそれは、初めて現実を知って、心を動かされた証拠です。人は、心が動くと、行動が変わります。あなたはどうですか? 心が動いても、まだ現実に目をつぶって、前と同じ行動を続けますか?」

 厳しい質問だ。
 知った現実を無視して生きるのは、心を殺すのに等しい。
 だが、行動を変えるとは、国王陛下に対する忠誠を捨てることを意味する。

(天使は俺に、裏切りを迫っている。今日見聞きしたことを陛下に報告しないことが、行動を変えるということだ。でも俺に、そんな不義理ができるか?)

 死のう、とコールマンは思った。
 陛下を裏切る自分が想像できない。かといって、農民の地獄を知りながら、今までと同じ顔をして陛下の命令を聞ける自信もない。

(軍人が迷ったらもう終わりだ。王の命令一つで火の中に飛び込むのが軍人だ。しかし、農民の死を聞いて笑ってステーキを頬張る陛下のために、俺は死ねるだろうか? 嗚呼、陛下。自分は二つに裂けてしまいそうです!)

 コールマンの目が、中身の入った茶碗の上に止まったーー青酸ソーダ入りのリンゴジュースに。
 反射的にそれを取り、口に運んだ。

「おじさん、だめだよ!」

 不意に少年の声が耳を刺し、手が止まった。
 振り向くと、四人の子どもが、天使に抱かれて顔を輝かせていた。

「おじさん、それ、ジュースに見えるけど、毒なんだ」

 十二歳の長男が、そう言って笑う。

「さっき、おいらも飲もうとしたんだけどね。飲まなくて良かった。だって、天使に会えたんだよ!」

 子どもたちは天使にしがみつき、キャッキャとはしゃいだ。

(生きていたら、天使に会うこともできる。そういう奇跡を体験したこの家族からは、もはや、心中をする動機が消え去っている)

 生きていれば、何が起こるかわからない。
 どんな悩みも、生きていれば、奇跡的に解決するかもしれない。
 だからーー死ぬのは間違っている。

「ああ、ありがとう。毒なんだね。なら捨てよう」

 コールマンは茶碗を傾けて、中身をこぼした。俺は少年に命を救われたぞ、と胸に刻みながら。
 
「コールマンさん。心は決まりましたか?」

 天使の問い。
 コールマンは見た。
 八人家族の笑顔を。
 ランも笑っている。不思議な老婆も笑っている。

 彼らにはーーずっと笑っていてほしい。

「決まりました」

 コールマンは答えた。

「巡回したが、何も異常はなかったと陛下に伝えます。それで、あなたの言う、正義がなされるのですね?」
「そうです」

 頷いたあと、天使はコールマンの顔を覗き込んだ。

「コールマンさん。あなたは今、あなたの心が正直に命じる、大変良い決定をなさいました。それなのに、少しも笑わないのですね」

 もちろん、とコールマンは言った。

「笑うことなどできません。私は半分死んだようなものです」
「なぜですか?」
「あなたは心が見えるのでしょう?」
「でも、あなたの口から聞きたいのです」
「では言います。私はずっと、陛下のために生きてきました。死ぬまでそうするつもりでした。それを捨てたのです」
「なぜ捨てることができましたか?」

 コールマンは少し考えた。やがて、心に浮かんだままを言った。

「あなたたちのほうが正しくて、自分が間違っていると思ったからです」

 天使は翼を広げた。その翼は、まばゆく光った。

「コールマンさん。今はつらいでしょうが、奇跡は起こります。必ずや、あなたにも素晴らしい未来が開けるでしょう」

 コールマンは、天使の光にすがるように訊いた。

「教えて下さい。私がもし、陛下のために生きるのをやめたとしたら、何のために生きたらよいのでしょう? 陛下の代わりになるようなものが、果たしてこの世にあるでしょうか?」

 コールマンは真剣だった。その真剣さに、思わず笑みを誘われた天使は、コールマンを慈しむように言った。

「私からの提案は愛です。どうぞ試して下さい」
「……愛?」

(これから俺は、愛のために生きる?)

 唐突な天使の提案に、コールマンはとまどいを覚えたが、目の前にいる人々をじっと見つめているうちに、なぜだか知らぬが笑みがこぼれた。


 レオ第二王子の部屋がノックされる。
 三回、一回、三回……ニコラス・スミス宰相の合図だ。
 扉を開けると、体裁の悪そうな顔をした宰相が入ってきた。

「どうしても眠れなくて」

 第二王子の部屋に戻ってきた理由を、そう告げた。

「悪いほうにばかり想像が膨らんで、この無血クーデターの成功を危ぶんでしまいーー」
「ニコラス」

 第二王子は柔和に微笑んだ。

「僕もそうだ。もし失敗したら、という不安はある。しかし、僕もこうして眠れずにいたのは、それよりも先のことを考えていたからだ」

 そう語る第二王子の目は、輝いていた。

「もし成功したら、僕は改革をやる。農民の税は十分の一にしよう。働いたら働いただけ、彼らが豊かになるようにする。そうすれば、労働意欲が湧いて、生きることに喜びを感じるようになるだろう」

 第二王子は興奮していた。失敗への不安は、未来への希望によって厚く覆われていたのだ。

「外国から、新しい農具や技術を輸入しよう。それでかなり生産性は上がるから、税率を下げても心配ない。また教育改革もやる。たとえば女官のエリナだが、あれは優秀だ。貴族でなくても、ああいう子が学校に行けるようにする。そして女性でも、優秀ならば大臣になれるようにするのだ」

 第二王子の熱気が伝染して、ニコラス宰相も身を乗り出した。

「転生者のランのチートアイテムを使えば、医療改革もできますよ。あのポーチからどんどん薬を出してもらうのです。そうすれば、治療費や入院費は大幅に減り、病気による死亡率も格段に下がります!」

 素晴らしい、と膝を打つ第二王子。

「ではランには、厚生大臣をやってもらおう。いや、それだけじゃない。彼女は常人の百倍の力があって二百倍のスピードで動けるから、労働大臣も兼ねてもらう。さらに働く女性の象徴として、初代の女性活躍大臣にも就任してもらおう」

 と、美食を食べてゴロゴロする予定でいたランにとって、むごすぎる青写真が次々と描かれていった。

「いやあ殿下、楽しみですなあ」

 いつの間にか不安を忘れていた宰相が、レオ第二王子の手を握り締めて言った。

「どうせ今夜は眠れません。殿下もそうでしょう? こうなったら朝まで、未来について語ろうではありませんか!」


 ◆◆◆◆◆


 衛兵隊長コールマンは、天使によって、王の寝室の前に瞬間移動させられた。
 天使は煙のように消えた。暗い廊下に、銃剣とランタンを提げ、一人佇む衛兵隊長。
 迷いはまだ、続いている。

(今から俺は、陛下に嘘をつく。陛下に嘘を! まさか自分がそんなことをするとは……できるだろうか? その瞬間になったとたん、俺の唇はひん曲がり、陛下に対して真実の報告をしてしまうのではないだろうか?)

 自分で自分がわからなかった。
 嘘をつけるかどうかーー
 それはきっと、陛下の目を見た瞬間に決まる。

(チクショウ! なるようになれだ!)

 震える手で、ノックをした。
 永遠にも思える時間。
 やがて、扉が開いた。

「ああ、お前か」

 グレイス二世ーー国王陛下は、額に汗を浮かべ、コールマンを探るようにじろじろと見た。

「何の用だ?」

 コールマンは、雷に打たれたようになった。

(何の用だ、だって!?)

 忘れていたのだ、陛下は。衛兵隊長の自分に、王宮の巡回をして、異常がないかどうか報告せよとお命じになられたことを。

「あ、あの……」

 あまりのことに言葉が出ない。すると陛下の後ろから、鼻の頭に汗を浮かべたポーラ王妃殿下が顔を覗かせ、

「まあ、コールマン。ごめんなさいね。私の悲鳴が聞こえたんでしょう?」

 と、意味のわからぬことを言った。
 王妃殿下は妖艶に笑う。

「ねえ、あなた。彼は聞き耳を立てていたのよ。だからさっきの私の声を、悲鳴と勘違いしたのだわ」
「ほう、聞き耳を」

 陛下の目が、いやらしく細められた。

「国王と王妃の秘め事を盗み聞きするとは、お前も隅に置けないな。だが特別に許す。なんたって、余はお前が頼りだからな」

 陛下と王妃殿下からは、獣(けもの)のような匂いが漂った。
 このとき、コールマンの眼前に、不意に少年の顔が浮かんだ。
 一家心中を思いとどまった農家の、あどけない十二歳の長男の笑顔が。
 そして、その顔には愛を感じたのに対し、陛下と王妃殿下の汗ばんだ顔には、何も感じなかった。

「謹んでご報告申し上げます」

 衛兵隊長コールマンは、捧げ銃(つつ)の敬礼をして言った。

「王宮内を隅々まで巡回いたしましたが、異常はありませんでした」

 ここでようやくグレイス二世は思い出し、あ、そうかと言った。

「ご苦労。ではいつものように、朝まで余の寝室の警護をせよ。盗み聞きはほどほどに、な?」

 まるで気心を許した仲間に対するように、下卑た笑い顔をコールマンに向ける国王と王妃。
 しかし、衛兵隊長の心は、まるで天使の住む天と虫の這う地上くらいに、彼らから遠く離れていた。


 その日の朝を、それぞれの人物がどのように迎えたか、簡単に述べておこう。

 グレイス二世とポーラ王妃は、王の寝室で抱き合って。

 衛兵隊長コールマンは、その寝室の前に直立不動で。

 ジェイコブ王太子は、ベッドに横になりながら、新しく妻に迎える美貌の少女のことを悶々と考えて。

 仙女の老婆は、八人家族の農家の家にとどまり、朝まで彼らとクーデター後の世の中について熱く語って。

 レオ第二王子とニコラス・スミス宰相も、同じく未来を語らって。

 残るは四人。
 公爵令嬢コーデリア・ブラウン、女官のエリナ、転生者のラン、料理長であるがーー

「ただいま」

 衛兵隊長を王の寝室の前に瞬間移動させたあと、天使はランとともにコーデリアの部屋に戻ってきた。ちなみに「ただいま」と言ったのは上機嫌のランだ。

「冒険、大成功だよ。コールマンはねーー」

 ランが山麓の農家での出来事を話すと、聞き役の三人は涙を流して喜んだ。

「良かった。その仙女のお婆さんも素晴らしい方ね。ぜひお会いしたいわ」

 コーデリアが鼻をかんで言った。よく泣くお嬢様ではある。

「衛兵隊長の心が変わったのは奇跡です。さあ、私もこうしちゃいられない。重要な明日の任務のために、仕込みを始めなければ」

 料理長はそう言うと、まだ夜明け前にもかかわらず、厨房に降りていった。朝食の準備に火を熾(おこ)す必要もあり、料理長は王宮内で誰よりも早く仕事を始めるのが常であった。

「それではみなさん、私はこれで。もうこちらのことには干渉しませんので、どうぞご無事で」

 天使がそう言って帰ろうとしたので、コーデリアとエリナとランは、どうかあと一日だけ、と必死に引き留めた。

「いえいえ、大丈夫です。これまでどおり天から見ていますから。とにかく今日の行動は例外中の例外なのです。天使の役割としては、ずいぶん出過ぎてしまいました」

 そう言い残して天使は消えた。

「私も帰ります」

 とエリナが頭を下げた。

「ひょっとすると、雑用を言いつけるために、先輩が早く起こしにくるかもしれませんから。もし部屋を抜け出したことがバレて、王妃様に告げ口でもされたら大変」

 そう言ってエリナが後宮に戻ると、部屋にはコーデリアとランが残された。

「コーデリア様」

 ランが優しくコーデリアの手を握った。

「明日は絶対大丈夫。何もかも、うまくいきますから」

 ありがとう。と言ったあと、コーデリアは、しばらくランを見つめた。

「……私の顔に、何かついてます?」
「ううん」

 コーデリアは首を振って、笑った。

「あなたの顔が、あんまりきれいだから、つい」
「コーデリア様こそ」

 ランも笑った。
 やがて、ランも自分の部屋に帰ることになり、二人は手を振って別れた。
 その直後、コーデリアはベッドに突っ伏した。

(ランのことは大好き。でも複雑……)

 まぶたの裏には、ランの部屋の布団に隠れていた、レオ第二王子の顔がある。
 何だかあのとき、バツが悪そうだった。

(私が部屋に入るまで、あの二人は、いったい何をしてたんだろう?)

 苦しい想像だった。
 コーデリアがこのクーデター計画に加わったのは、ほんの数時間前。
 それまで、計画についての話し合いを、レオ殿下とランは、どれほど多く重ねたのだろう。
 どれほど長い時間、二人は親密に、秘密の計画について語り合ってきたのであろうか……

 ベッドのシーツにしわが寄る。無意識のうちに、シーツを固く握り締めていたのだ。

(首尾よくクーデターが成功したら、あの二人は結婚するかもしれない。たぶんそうだ。だってものすごく、お似合いだもの)

 シーツが涙に濡れる。本当に、よく涙の出る大きな目だ。

(それを見る前に、私は実家に帰ろう。そしてもう二度と、王室に関わろうなどとは思うまい)

 もしレオ第二王子が、コーデリアの切ない胸の内を知ったならば、

「僕が好きなのはあなたです!」

 と大声で叫んだだろう。しかし人間は、天使ほど巧みに人の心を読むことはできない。だから、これまでコーデリアに無愛想にしてきたことが災いして、自分は嫌われているだろうと勝手に思い込んでいた。

 それはコーデリアも同じこと。
 もしレオ第二王子の心を知れば、今流している涙の意味は、苦しみから喜びへと百八十度変わるであろう。

 鳥の啼き声に、ふとコーデリアは顔を上げた。
 気がつくと、カーテンの隙間に光。
 夜明けだった。

 こうして、この出来事に関わるどの人物にも眠りを許さなかった一夜が明け、その日の朝を迎えたのであった。


「おい、そこ! 火が強すぎるぞ!」

 王宮の地下の厨房で、料理長の厳しい声が飛ぶ。

「タマネギは弱火で炒めるんだ。そうすれば、素材の甘さが溶け出して、より美味しいポタージュになる。そういうところで手を抜くな!」

 言われた料理人は頭を下げながら、思った。

(何だかこの頃は、病人みたいに暗い顔をして俺たちを心配させたくせに、今朝はやけに元気だ。ひょっとして、男の更年期ってやつか?)

 料理長は気合いが入っていた。王太子の命令に背き、コーデリアの頼みを聞いてやり、この国の未来のために料理に特殊な薬を入れるのである。

(昨日までの自分には、とてもできると思えなかった行為だ。自分は生まれ変わった。今日はその、記念すべき第二の誕生日なのだ!)

 料理長自慢の、今朝の特別メニューは以下のとおり。


・季節野菜てんこ盛りのオードブル(【睡眠薬】入りトマトをどうぞ)。
・カプチーノ風に泡を立てたクリーミーなポタージュ(料理長の気合い入り)。
・バターで皮をカリッと焼き上げた白身魚のムニエル(普通に美味しいです)。
・切り口の赤々しいミディアムレアの最高級フィレステーキ(天使の無毒化済みフグのレバーペーストを載せて)。
・旬なフルーツをふんだんに使ったゼリーとソルベ(コーデリア様への秘めた愛情を込めて)。
・そして王が必ず食後に飲まれるアロマチックなカフェ(危険なクーデター風味)。


 あとはいつもどおりやるだけ、と料理長は自分に言い聞かせた。

(怪しまれずに、三人がトマトを食べればすべては終わる。いや、すべてがそこから始まるのだ。とにかく怪しまれないように、怪しまれないように……)


 ◆◆◆◆◆


(怪しまれないように、いつもどおりにしよう)

 いよいよその日の朝を迎えたレオ第二王子は、日課である王宮の庭園の散歩を終えて、ことさらゆったりと一階の廊下を歩いた。

(頑張れ、コーデリアさん。あなたならきっとできる)

 第二王子は、料理長が仲間になったことをまだ知らない。だから【睡眠薬】は、コーデリアが毒見のときにこっそりサラダの皿に入れる手はずのままだと思っていた。

 第二王子は歩く速度を変えずに、食堂の前を通りかかった。
 いつものように、扉の前に衛兵が二人。
 と思ったらーー

「おや?」

 よく見ると衛兵は三人いた。しかもそのうちの一人は、衛兵隊長のコールマンだった。

(どういうことだ? コールマンは夜中に父の寝室を警護するから、午前中は寝(やす)むことになっているのに……)

「コールマン?」

 レオ第二王子が近寄って声をかけると、コールマンは敬礼をした。

「朝からどうしたんだ? 昨夜は父の寝室を警護しなかったのか?」
「いえ」

 コールマンは直立不動で答える。

「寝もうとしたのですが、眠れなかったのです。そういうときは、任務に就くことにしています」

(余計なことを)

 と、コールマンが仲間になったこともやっぱり知らなかった第二王子は思った。しかし顔には出さずに、

「ご苦労さま。だが、休めるときは休めよ」

 と言って立ち去ろうとした。すると、

「おお、コールマン。ここにいたのか」

 息せき切って、ジェイコブ王太子が駆けてきた。

「父への進言、なるべく早く頼むぞ。実はたった今、後宮へ行ってきて、コーデリア付きの女官の任を解いて、ランには王太子妃の部屋に移る準備をするようにと言付けてきたのだ。こういうことは早いほうがいいからな。だからお前も、行動は迅速を旨とするように。じゃ」

 と早口で言って踵を返そうとしたときに、

「ん? レオか」

 ようやく第二王子の存在に気づいた。

「そういや、お前にはまだ言ってなかったが、婚約は解消したよ。コーデリアのやつ、毒見役になりたかったんだってさ」

 あり得ない大嘘を、しゃあしゃあと弟に告げる。

「そしたら陛下が、例のセイユの毒見役を俺にくれるって。まあ、毒見の一族だから身分は奴隷なんだけど、俺はこういうことはきちんとしたいから、正式に妻にしようと思ってね。というわけでよろしく」

 最低の男め、コーデリアさんを毒殺しようとした報いは受けてもらうからな、と第二王子が内心で毒づいていると、

「ところで、レオ。お前、軍務を解かれて、シェナ王国史の編纂をやらされるみたいだぞ。おかしな意地を張って俺たちと同じ食事を摂らないから、陛下に愛想を尽かされたんだな。そのうち勅命が下るだろうけど、がっかりすんなよ」

 王太子は弟を見下して言った。
 と、そのときだった。
 いつもより三十分は早く、王と王妃が食堂にやって来た。
 仲睦まじく、手を握り合って。

 三人の衛兵は敬礼を、王太子と第二王子は目礼をした。

「ジェイコブ」

 グレイス二世が、鷹揚な態度で長男に言う。

「新しい毒見役を呼んで来てくれ。食事の前に、少し話をしたいのだ」


 料理長が、ワゴンを押す料理人を従えてやって来た。
 レオ第二王子の姿を認めると、腰を折って深くお辞儀をする。

「殿下、どうぞお部屋でお待ち下さい。今すぐ朝食を運ばせますので」
「いや」

 衛兵隊長コールマンをちらりと見やって、第二王子は首を振った。

「まだ三十分早い。いつもと同じ時間にしてくれ」
「かしこまりました」

 料理長は頭を下げて、食堂の中へ消えた。
 その数分後、ジェイコブ王太子が戻ってきた。
 元婚約者の、コーデリアを連れて。

(コーデリアさん!)

 第二王子は、自らのパワーを送るつもりで、コーデリアを見た。
 コーデリアは、ほんの一瞬だけ第二王子と目を合わせると、かすかに顎を引いて頷いた。
 王太子とコーデリアも、食堂の中へ。

 さらに数分後。
 ランとエリナとニコラス宰相が現れた。

「どうした?」

 第二王子が訊く。ランに関しては、万が一計画が不首尾に終わった場合に、転生者の力を行使して王らを制圧するために、食堂近くに待機することになっていた。
 が、エリナと宰相は、怪しまれないために、普段と同じ行動をする予定だったのだが……

「殿下」

 ニコラス宰相が、やや血の気の失った顔で、レオ第二王子を手招きする。
 心臓の鼓動の音を聞きながら、宰相に歩み寄る第二王子。
 衛兵に聞かれない位置まで移動して、宰相が耳打ちする。

「どうやら昨夜、仙女の老婆が騒ぎすぎたようです」
「仙女が?」

 第二王子が眉をひそめる。

「騒いだとは、何を?」
「この世が変わると。すると農村が、夜明け前からお祭りムードになってしまい、農村に潜んでいたスパイが、まもなくクーデターがありそうだと王に報告しに向かっているようなのです」

 愕然とする第二王子。まったく予期しなかった方向からの危機だ。

「スパイの動きに気づいたのは、その地方の領主です。彼は我々の仲間です。そこでその情報を、早馬を飛ばして私に伝えてくれたのです」
「スパイを阻止するには、どうしたらいい?」

 第二王子の問いに、宰相は、

「それをランに相談しに行くと、エリナと一緒にいて、二人の一致した意見として、天使にお願いするというのです」
「……天使?」

 こうなってくると、第二王子には何が何だかわからない。

「天に祈るしか、方法がないと?」
「あのー、それが、本当に天使が降りてきまして」

 第二王子は口をつぐんだ。思考が追いつかなかったのである。

「詳しいことはあとで説明します。えー、その天使は、今度こそ本当に最後の最後ですよと言って、飛んでいきました。スパイを羽で撫でて、記憶をなくさせるとのことです。しかし」
「まだ何かあるのか?」
「はい。天使が飛んでいくところを、動物たちが目撃したようで、厩舎の馬や牛が興奮して暴れているそうなのです」

 第二王子は腕組みをした。しばらくそうして黙っていたが、やがて食堂のほうへ戻っていき、

「コールマン」

 衛兵隊長に声をかけた。

「今、宰相から報告を受けたのだが、厩舎で馬や牛が暴れているそうだ。何があったか調べに行ってくれ」

 やっかいな猛者(もさ)の衛兵隊長を追い払うつもりで言った。しかしコールマンは、

「では彼らを行かせます」

 と、二人の衛兵に命令を出し、自分はその場に残ってしまった。

(チッ!)

 心の中で第二王子は舌打ちした。
 ちょうどその頃、扉の向こうではーー

(フグ毒ちゃん、フグ毒ちゃん、どうしてあなたはフグ毒なの? 青酸カリの一千倍強い、とっても素敵なフグ毒ちゃん)

 心の中で、ポーラ王妃が鼻唄を歌っていた。

「ねえ、あなた」

 グレイス二世の立派な肩にもたれかかって、王妃が耳元で囁く。

「この次は、ニコラス宰相を毒殺してちょうだい。私、ニコラスの目つきがとっても嫌いなの」
「……わかった」

 妻に囁き返して、シェナ王国の国王は、長男の元婚約者に優しげな微笑みを向けた。

「コーデリアよ。お前は本当に、幸運な娘だ」

 食卓の、ちょうど王の真正面に座ったコーデリアが、無言で頭を下げた。

「この世で最高の食事を、余よりも先に食べることができる。湯気の立つ、出来立てほやほやの温かな料理をな」

 コーデリアは、再び頭を下げながら思ったーーこの恩着せがましいデブのクソジジイめ!

「本当に、どれほど幸運かわかってるかな? お前の正面にいるのは、もっとも偉大な指導者、全時代、全民族を通じて最高の統領である余と、その良き妻と、その血を引く長子なのだ。その余らのために調えられた食事を、いちばん良い状態で味わうことができるーーその幸運を、決して忘れてほしくないと余は心より願う」
「まことにそうですわ」

 王の言葉に、王妃も重ねた。

「これほどの幸運、幸福は、全時代、全民族を見渡しても見当たらないほどです。しかも陛下ほど、人民の幸福を願い、また人民に愛され、それでいて少しも自慢しない、謙虚で自分を顧みない献身的な王はいないのです。陛下が謙遜しておっしゃらないので、あえて私の口から付け加えさせてもらいました」

 食堂の隅に控えた料理人たちが、王妃の言葉にうんうんと頷く。
 すると料理長がハッとしたように、慌ててうんうんと頭を上下させた。
 王が振り向いて料理長の顔を見た。

(ヤバい!)

 料理長は一瞬ヒヤッとしたが、顔を見るのはいつもの合図だったと思い出し、落ち着いて前に進み出て言った。

「えー、それでは本日の朝食の、コース料理のご説明をさせていただきます」
 


「前菜は、季節野菜をふんだんに使ったオードブルでございます。今が旬の夏野菜を召し上がりますと、病気にならないと昔から言われております」

 料理長が極力いつもの調子で料理の紹介をしたが、今回ばかりは「病気にならない」の決まり文句も、あながち誇張ではない。
 なぜなら【睡眠薬】入りのトマトを食せば、百年間は病気どころか老化もせずに眠りこけるからだ。

「スープは、カプチーノ風に泡を立てたタマネギとニンジンのポタージュです。クリーミーで大変飲みやすくなっております」

 料理長が説明するあいだに、料理人が王、王妃、王太子の順番に配膳する。
 そして、彼らの目が光ったのは、肉料理の紹介のときだ。

「ミディアムレアの最高級フィレステーキでございます。レバーペーストを載せて、その上から赤ワインのソースをたっぷりかけてお召し上がり下さい」

 この瞬間、ジェイコブ王太子の鼻の穴がわかりやすく膨らんだのを、コーデリアは見逃さなかった。

(テメー、人が死ぬのを想像して興奮してんじゃねーよ、このサディストの変態野郎が!)

 テーブルの向かい側から、胸の内で絶叫した。

(それにしても)

 とコーデリアは思う。

(朝っぱらから、なんて贅沢な食事だろう。このフルコースが朝食だという点で、飢餓に喘いでいる国民が何万人もいる以上、この王に為政者たる資格はい)

 すべての料理が並ぶと、コーデリアは席を立ち、王たちのほうへ近づいた。
 三人の皿から、前菜、スープ、魚料理、肉料理、デザートを毒見用に取り分ける。カフェだけは、全員分の入ったポットからカップに注いだ。

(大丈夫、手は震えなかった。さすがにサラダから取り分けるときは緊張したけど、いくら死ぬほど不器用な私でも、間違ってトマトを取っちゃうほどドジではない)

 コーデリアがトマトを選ばなかったことを、気にした者はいなかった。それよりも、肉を切って皿に移すときに、ちゃんとレバーペースもどっさり載せたのを見て、三人の鼻の穴はますます大きく膨らんだ。

 コーデリアの前に、豪華絢爛な美食が並んだ。

(もし、レオ殿下やランやエリナがいなかったら)

 コーデリアはしみじみ思う。

(私の命もこれまでだった。あの日、あなたに一目惚れしましたという王太子の嘘の返信に騙され、有頂天になった私は、罠にかかったキツネのように殺されるところだったのだ)

 ジェイコブ王太子が、まさに獲物を一心不乱に見つめる肉食獣のような目を、元婚約者に向けて言った。

「いよいよコーデリアが毒見をします。陛下よ、目前に迫った王太子妃の座を捨てて、王家に真の献身を捧げるために毒見役になる決意をした彼女の志を、どうか諒とされますように」

 芝居がかった、ヘドの出るような台詞。
 志を諒とだと? ふざけんじゃねえ。
 全部テメーが書いた筋書きだろうが!
 するとグレイス二世も、息子に調子を合わせて言った。

「むろん、彼女の美しい献身は、人の住むあらゆる土地で評判となり、シェナ王国で未来永劫語り継がれるであろう。余もそれが嬉しい」

 語り継がれるのは、テメーら三人の情けない百年の眠りだーーという台詞を、コーデリアは吐き気をこらえながら呑み下した。

(フン。まんまと騙したつもりだろうが、見事に騙されたのはそっちだからな。さてと、念のために【胃薬】も服んだし、天使が無毒化してくれたことだから、とことん味わって食ってやる!)

 コーデリアはフォークを取り上げると、フルコースの順番どおりに、もぐもぐむしゃむしゃと食べ始めた。
 前菜、スープ、魚料理が、きれいにコーデリアの胃袋に消える。
 いよいよ肉料理の番ーー

(来たっ!)

 王太子と王妃の視線が交錯する。

(ついに来ました、母よ。フグ毒の素晴らしい威力をご照覧下さい)

(ああ、ジェイコブ。あなたは言いました。食後二十分から三時間で身体がしびれはじめ、手足が動かなくなり、頭痛、腹痛、嘔吐、言語障害が起こり、やがて運動麻痺から倒れて呼吸困難となり、四時間から六時間で死亡すると。そのフグ毒ちゃんの素敵なショーが、いよいよ開幕するのね!)

 目は口ほどに物を言う。その点では、この母子の目は実におしゃべりだった。

 コーデリアは、そんなサディストの注視のもと、料理長のお薦めどおりにフィレステーキに山盛りにレバーペーストを載せ、その上からたっぷり赤ワインソースをかけて、生まれてからいちばんと言っていいほど大きく口を開けて、パクリとそれを食った。

 次の瞬間だった。
 
「う!」

 コーデリアが顔面を紅潮させ、手で口を押さえた。

(む? フグ毒は無味無臭なはずだが、何かに気づいたか?)

 王太子の眉間にしわが寄る。
 料理長が身体を強張らせる。
 するとーー

「う……旨っ!」

 料理長自慢の最高級フィレステーキの味に、思わず感動して声を洩らすコーデリアであった。
 王太子と料理長は緊張をゆるめた。

(驚かせやがって。しかしこれで、毒が確実に胃に入った。あとはその作用を待つばかり。早ければ、あと二十分で効果が現れる)

 王太子が、こぼれる笑みを抑えきれずにニヤニヤすると、つられて王妃がクスッとし、それにつられた王がプッと笑った。
 その「プッ」が、王太子のツボに入り、「アハッ」と笑うと、王妃がテーブルに顔を伏せた。
 笑いをこらえる王妃のひくつきで、テーブルの上の皿がカタカタ鳴った。

(こいつらマジか? 人に毒を呑ませるのがそんなに面白いか?)

 笑ってはいけないと思えば思うほど、涙が出るほど笑ってしまう三人を尻目に、コーデリアはデザートのゼリーとソルベに舌鼓を打ち、カフェのアロマを心ゆくまで堪能した。

「ごちそうさまでした。陛下、食事に問題はございません」

「毒見」を終えたコーデリアがそう告げると、ようやく笑いの収まったグレイス二世が、うむと鷹揚に頷いた。

(息子よ。コーデリアが毒を呑んでから、十五分ほど経ったが、もう少しで効き始めるか?)

(まあ、慌てず、じっくり待ちましょう)

 おしゃべりな目を持つ父子が、目でそんな会話をする。

「おい、料理長」

 ジェイコブ王太子が、おもむろに命じた。

「この肉は赤みが強すぎるぞ。火が通ってなかろう。交換せよ」

 それは、事前に料理長に伝えてあった予定どおりの台詞だったが、

(あの野郎。肉料理に毒を盛ったのを白状したも同然だな)

 と、コーデリアをさらにムカつかせた。

「コーデリアよ」

 王はことさらゆっくりと、いかにも時間を引き延ばすように言った。

「美しい毒見役は、食卓の華だ。余らが食べ終わるまで、そこに座っているように」

 どうせテメーも、毒が効いてきてのたうち回るのを見たいんだろ。という言葉は胸にしまったまま、コーデリアは黙って頷いた。

「スープと魚料理とカフェは、温め直して順番に持ってくるように。肉料理は作り直せ」

 王が料理長に命じたあと、三人は、やけにのんびりと前菜をつつき出した。
 早く食べ終わってしまうと、せっかくのショーが始まる前に朝食が済んでしまうからである。

(まだかな……)

 王太子は壁の時計を何度も見た。が、見るたびに、時計の針は五分も進んでいなかった。

(そろそろ手がしびれてこないか、まだか、まだか)
 
 無意識に首を捻るジェイコブ王太子。それを見てコーデリアは思う。

 残念でした。
 死なないよーだ!

 王も、王妃も、王太子も、ついにトマトを食べた。
 コーデリアの背中を電流が駆け上がる。
 が、表情は変えない。

(【睡眠薬】はいつ効き始めるのかしら。五分後? 十分後?)

 いちばん最初に、王妃が前菜を食べ終わった。
 その前に、スープの皿が置かれる。
 右手でスプーンを持ったとき、王妃の上体が前に倒れた。

「どうした?」

 また笑いの発作か? と思いながら、王が隣の王妃を覗き込む。
 しかし、今度はひくついていない。
 代わりに深い呼吸が聞こえた。

(……イビキ?)

 と不審に感じたとき、自らも猛烈な眠気に襲われた。