「あんたは誰だ?」
生活苦に耐えられず、一家心中を決意した農家の主人にそう訊かれたとき、
(俺は衛兵隊長。せっかくこの世に生まれたあなたたちを、地獄に突き落とした王様を護る仕事をしている。そしてその王様のおこぼれで、大変美味しい食事を毎日たらふく食っている)
という答えが、コールマンの脳裏をよぎった。
だが実際には何も言わなかった。
無力感に襲われて、口が動かなかったのである。
(何と情けないことだ。この奴隷たちが作った米を、俺は毎日残すほど食っている。しかし彼らは、今日食べる米がなく、年端のいかぬ子どもたちとともに死のうとしている。それなのに俺は、今の今まで、国のために彼らよりもリッパな仕事をしていると思っていたのだ……)
奴隷たちの犠牲に支えられて生きていながら、その奴隷の苦しみに目を向けようとしなかった自分を、コールマンは激しく愧(は)じた。
「コールマンさん」
うなだれたコールマンの首すじに、天使の声が新雪のように柔らかく降りかかる。
「あなたの心が、私には見えます。あなたはこちらの家族が死ぬのを望んでいない。そうですね?」
当たり前だ、という答えが浮かんでも、顔を上げることはできなかった。それを言う資格すら、自分にはないと感じていたから。
「この国の王様のせいで、すでに何万、いえ、何十万という農民が死んでいる。あなたはその王の信頼厚い衛兵隊長として、こちらの家族に合わせる顔がない。だから何も言えないでいる。そうですね?」
この場合、返事をしないことが返事になった。
「でもそれは、初めて現実を知って、心を動かされた証拠です。人は、心が動くと、行動が変わります。あなたはどうですか? 心が動いても、まだ現実に目をつぶって、前と同じ行動を続けますか?」
厳しい質問だ。
知った現実を無視して生きるのは、心を殺すのに等しい。
だが、行動を変えるとは、国王陛下に対する忠誠を捨てることを意味する。
(天使は俺に、裏切りを迫っている。今日見聞きしたことを陛下に報告しないことが、行動を変えるということだ。でも俺に、そんな不義理ができるか?)
死のう、とコールマンは思った。
陛下を裏切る自分が想像できない。かといって、農民の地獄を知りながら、今までと同じ顔をして陛下の命令を聞ける自信もない。
(軍人が迷ったらもう終わりだ。王の命令一つで火の中に飛び込むのが軍人だ。しかし、農民の死を聞いて笑ってステーキを頬張る陛下のために、俺は死ねるだろうか? 嗚呼、陛下。自分は二つに裂けてしまいそうです!)
コールマンの目が、中身の入った茶碗の上に止まったーー青酸ソーダ入りのリンゴジュースに。
反射的にそれを取り、口に運んだ。
「おじさん、だめだよ!」
不意に少年の声が耳を刺し、手が止まった。
振り向くと、四人の子どもが、天使に抱かれて顔を輝かせていた。
「おじさん、それ、ジュースに見えるけど、毒なんだ」
十二歳の長男が、そう言って笑う。
「さっき、おいらも飲もうとしたんだけどね。飲まなくて良かった。だって、天使に会えたんだよ!」
子どもたちは天使にしがみつき、キャッキャとはしゃいだ。
(生きていたら、天使に会うこともできる。そういう奇跡を体験したこの家族からは、もはや、心中をする動機が消え去っている)
生きていれば、何が起こるかわからない。
どんな悩みも、生きていれば、奇跡的に解決するかもしれない。
だからーー死ぬのは間違っている。
「ああ、ありがとう。毒なんだね。なら捨てよう」
コールマンは茶碗を傾けて、中身をこぼした。俺は少年に命を救われたぞ、と胸に刻みながら。
「コールマンさん。心は決まりましたか?」
天使の問い。
コールマンは見た。
八人家族の笑顔を。
ランも笑っている。不思議な老婆も笑っている。
彼らにはーーずっと笑っていてほしい。
「決まりました」
コールマンは答えた。
「巡回したが、何も異常はなかったと陛下に伝えます。それで、あなたの言う、正義がなされるのですね?」
「そうです」
頷いたあと、天使はコールマンの顔を覗き込んだ。
「コールマンさん。あなたは今、あなたの心が正直に命じる、大変良い決定をなさいました。それなのに、少しも笑わないのですね」
もちろん、とコールマンは言った。
「笑うことなどできません。私は半分死んだようなものです」
「なぜですか?」
「あなたは心が見えるのでしょう?」
「でも、あなたの口から聞きたいのです」
「では言います。私はずっと、陛下のために生きてきました。死ぬまでそうするつもりでした。それを捨てたのです」
「なぜ捨てることができましたか?」
コールマンは少し考えた。やがて、心に浮かんだままを言った。
「あなたたちのほうが正しくて、自分が間違っていると思ったからです」
天使は翼を広げた。その翼は、まばゆく光った。
「コールマンさん。今はつらいでしょうが、奇跡は起こります。必ずや、あなたにも素晴らしい未来が開けるでしょう」
コールマンは、天使の光にすがるように訊いた。
「教えて下さい。私がもし、陛下のために生きるのをやめたとしたら、何のために生きたらよいのでしょう? 陛下の代わりになるようなものが、果たしてこの世にあるでしょうか?」
コールマンは真剣だった。その真剣さに、思わず笑みを誘われた天使は、コールマンを慈しむように言った。
「私からの提案は愛です。どうぞ試して下さい」
「……愛?」
(これから俺は、愛のために生きる?)
唐突な天使の提案に、コールマンはとまどいを覚えたが、目の前にいる人々をじっと見つめているうちに、なぜだか知らぬが笑みがこぼれた。