王太子様、婚約者の私を毒見役と交代させるとはどういうおつもりですか?



 真夜中の廊下に、軍靴の床を踏む音が戛戛(かつかつ)と響く。

 衛兵隊長のコールマン。
 彼は、筋金入りの「愛国者」であった。
 
(世の中が変わるという噂か。冗談じゃない。そんな噂を喜ぶとは、農民どもは陛下を舐めている。天子たるシェナ国王陛下のために労働できることを、奴隷は喜ぶべきなのだ)

 彼自身、衛兵隊長として、いつでもグレイス二世の盾となって死ねる立場にいることに、無上の悦びを感じていた。

(俺は、陛下のために生き、陛下のために死ぬ。これほど幸福な生き方はない。できることなら、国民すべてがそうあってほしい)

 グレイス二世を崇めるコールマンは、今回のことを、決して軽く見てはいなかった。それどころか、極めて憂慮していた。

(国王陛下は、王妃殿下と王太子殿下の家族の情に流されてしまわれた。やはりレオ第二王子殿下は、暗殺なさるべきなのだ。残念ながらレオ殿下には、国王陛下を支える立場であるという御自覚がない。万が一のことがあって王位を継承されても、シェナ王国の伝統を守っていこうという気概もない)

 だから、とコールマンは考える。

(飼い殺しなどという生ぬるい処置で、生かしておく理由はない。いつか危険分子になり得る。クーデターの起こる可能性がほとんどなくても、思想の違う次男などは、もっと早く殺してもよかったのだ。内憂は早めに除去するのが上策だ)

 ランタンを掲げながら、廊下を行く。深夜に不審な行動をする者がいないかどうかを探るために。

 角を右に曲がろうとしたとき、背後から足音がした。
 振り返ると、王の寝室から出てきたジェイコブ王太子が早足で近づいてきた。

「コールマン。相談がある」

 王太子は言い募った。父が誰よりも信頼しているお前に、ぜひ頼みたい。ご子息が本気で望んでいる結婚を、決して邪魔してはなりません。祝福するのです。そうすれば、王と王太子は一枚岩となり、国民に対する支配力がより強固になります。そのように、父に進言してもらいたいのだと。

 何の話だ? とコールマンはしらけきった。婚約者を毒見役と交換? その奴隷女との結婚を祝福? 不穏なクーデターの噂に陛下が眠れぬ夜を過ごされていたときに、王太子殿下は、そんな下らぬことを考えていたのか?

 コールマンは返事ができなかった。とてもではないが、はい、いいですよと請け合う気分になれなかったのである。
 すると王太子が、薄暗い廊下でもはっきりわかるほど、表情を険悪にした。

「よく考えてくれ。将来王になる王太子の切なる願いを断わったら、どうなるか。やがて代替わりの時期が来たときに、新しい王の覚えがめでたくなければ、それまでに得た勲章をすべて剥奪されることもあり得る。軍人にとって、これほど不名誉で悲惨な末路はあるまい?」

 露骨な脅迫。
 コールマンの気持ちは暗くなった。

(この王太子殿下は、本当に国のことを第一に考えておられるのか……が、やはり御長男である限り、天子には違いない。我々ごときが、反感を覚えることが許されるお方ではないのだ)
 
「わかりました。ご期待に添えるようにいたします」

 たちまち王太子は表情を明るくした。

「頼んだぞ。お前は本当に頼りになる男だ」

 足音も軽く自室へと帰る王太子。コールマンはそれを見送ると、角を曲がった。
 そのときだった。

 廊下の先に、人影が見えた。
 影は二つ。どちらもランタンは持っていない。
 一人のシルエットは男で、もう一人は女。
 二人とも、いかにもこそこそと、後ろ暗いところのありそうな様子で歩いている。

(怪しいやつらめ。何か企んでいるな。拷問ですべて吐かせてやる!)

 愛国者の衛兵隊長は、鋭く誰何(すいか)した。

「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」

 硬直する二つの影。

 一人は料理長。
 もう一人は女官のエリナ。

 エリナは、コーデリア・ブラウンがあまりにも不器用で、毒見のときに【睡眠薬】を入れることができそうにないので、料理長に前もって食事に【睡眠薬】を入れてくれるように頼むことを思いついた。
 料理長はコーデリアの大ファンだ。コーデリアの口からそれを頼まれたら、きっと断われないーーそう考えて、料理長をコーデリアの部屋に連れてくる途中であった。

 料理長は料理長で、翌朝の朝食に「毒」を入れるようジェイコブ王太子に命令されて、悩みで眠れずにいた。
 そこへ突然やってきたエリナに、

『王太子に良からぬことを頼まれて、悶々としてたんでしょう。どう、図星?』

 と爆弾発言をされて、すっかり観念し、エリナに手を引かれるまま廊下を歩いているところだった。

 そこへ誰何されて、料理長は気を失いかけた。

(嗚呼、もう何もかも終わりだ。妻や娘にも会えないまま、私はこの場で処刑される……)

 エリナもまた、血の気を失った。

(まさか見つかるなんて……料理長には悪いことをした。きっと拷問で、何をするつもりだったかを吐かせようとするだろう。でも私は、たとえ殺されても一言も洩らすことはできない。こんなところで、レオ王子様の計画をぶち壊すわけにはいかないのだ)

 戛戛(かつかつ)と軍靴の音を響かせて近づいてくるコールマン。
 その姿は、不吉な破滅の使者のようだった。

「おや? お前は料理長だな。そしてお前は、コーデリア嬢に付いている女官か。どうした二人とも、小鳥みたいに震えて。何か企んでいるのか?」

 料理長の身体が後ろに倒れそうになる。
 エリナがそれを支えようと手を伸ばす。

「動くな!」

 コールマンの怒鳴り声に、ハッと目を見開く料理長。

(殺される!)

 パニックを起こした料理長が、くるっと後ろを向いて走り出す。

「待て!」

 コールマンが追う。エリナもまたパニックになり、反射的に飛び出した。
 コールマンは銃剣を突き出した。

(……しまった!)

 威嚇のために突き出した銃剣だったが、暗い廊下で目測を誤り、その鋭い切っ先が、エリナの胸を抉った。
 エリナは崩れるように倒れた。
 仰向けになったエリナの青い女官服の胸のあたりが、見る見る赤い血で染まっていった。


 その頃王宮の地下では、摩訶不思議なことが起こっていた。
 
(きっと厨房には毒が隠されている。万が一の事故が起こらないように、それを処分してしまおう)

 そう思いついた「元毒見役」のランが、深夜に厨房に忍び込んだとき、何者かが天井に張りついていることに気づいた。

 ランは逃げようとした。
 が、常人の二百倍のすばやさがあるランより、その何者かのほうがすばやく、扉を開けようとしたランの手は、上から押さえられてしまった。

 さっと振り向いて、何者かの顔を見る。

「あっ!」

 ランは小さく叫んだ。
 その顔はーーイケメンだった。

「あなたは……」

 ランは一瞬にして、自分がまだ白崎蘭だった時代のことを思い出した。

「その節は、どうも」

 ペコリと頭を下げるラン。
 すると相手も、同じく頭を下げた。

「いえいえ、至りませんで。どうですか、異世界は?」

 心配そうにランの顔を覗いたのは、まだ中学生だった白崎蘭の死後に転生特典をいくつも与えた、イケメンの天使だった。

「おかげさまで、楽しく過ごしています」
「そう言ってもらえると嬉しいです。でも、毎日美味しい物を食べてゴロゴロしているというご希望には、残念ながら添えていないようで」

 ああ、それは、とランは照れたように笑い、

「このゴタゴタが落ち着いたら、気の済むまでゴロゴロしようと思います。だけど、このゴタゴタしたシェナ王国に転生させてくれたおかげで、エリナとかコーデリア様とかレオ王子様とか、とても素敵な人たちと出会えたので、すごく感謝しています」

 それを聞いた天使は、非常に申し訳なさそうに、羽をすくめた。

「それなんですが……まさか私も、運命がこんなふうになるとは」

 天使の口ぶりに不吉なものを感じて、ランの心臓がドキリと鳴った。

「……こんなふうって?」
「これをお聞かせするのはまことに心苦しいのですが、レオ第二王子のクーデターは、失敗に終わります」

 大きく目を見開くラン。天使は続ける。

「明日には、第二王子とコーデリアさんと宰相が処刑されます。エリナさんは、衛兵隊長に銃剣で刺されて、今夜中に息を引き取ります」

 気がつくと、ランは床に座り込んでいた。

「嘘でしょ……みんなあんなに頑張ったのに……どうして?」

 天使はますます小さく羽をすくめる。

「いくつもの偶然が重なって、計画が露見したのです。私は天からそれを見て、あなたに対して本当に悪いことをしたという気持ちになり、地上に降りて参りました。地上のことに干渉するのは、あまりいいことではないのですが」

 それを聞いた瞬間、ランは天使の足にすがりついた。
 
「お願い! 干渉して! あなたの力で、地上の運命を変えて!」

 ランは泣いていた。
 本来天使というものは、このイケメンの天使に限らず、人間を護(まも)ってやりたいという深い愛情を持っている(堕天使は除く)。
 なので、このとき天使は、ランの涙を見て胸が張り裂けそうになり、

「ああ、もちろんですとも! そのつもりで、私は地上に来たのです!」

 たちまち顔を明るくするラン。

「運命は、変えられるのね?」
「きっと。いや、必ず。さあ、急ぎましょう。コーデリアさんの部屋の前へ」

 急ぐとなると、ランと天使は速かった。
 まるでつむじ風が舞い上がるように、あっという間に二人の身体は地下から二階に到達した。

 その薄暗い廊下で二人が見たものは、腰を抜かしてへたり込んでいる料理長と、銃剣とランタンを提げて悄然と佇んでいる衛兵隊長と、胸から血を流して倒れているエリナの姿だった。
 
 ランと天使が突如として現れたことに、まだ誰も気づいていない。

(運命を変えなきゃ!)

 ランは何も考えずに行動した。
 エリナを見降ろして立ち尽くしている衛兵隊長の前に行き、その顔をビンタした。

 ランの力は、異世界人の百倍である。
 女の子のビンタなど、軍人にとってはハエの止まったようなものだーー普通なら。
 しかしこの場合は、百人の中学生に同時に張り飛ばされたも同然だった。
 
 衛兵隊長コールマンの筋骨隆々たる身体は、まるでバレリーナのようにクルクルと回転し、意識を失ってその場にぶっ倒れた。

 驚いたのは料理長である。
 突然、空中から何物かが出現し(異世界人の二百倍のすばやさで動くとそう見える)、バチンと音がして、衛兵隊長がきれいにピルエットを回ったのだ。

「ななな、何だ?」

 コールマンが床に倒れたかと思うと、羽の生えた人間が進み出て、それをお姫様抱っこの形にかかえ上げた。

「天使さん! そっちはいいから、こっちを!」

 ランはエリナのそばに跪いて、叫んだ。
 天使はシッと言い、

「大きな声を出してはいけません。エリナさんなら、もう大丈夫です」

 ランはエリナを見た。
 その女官服の左胸のあたりは、真っ赤に染まっている。

「どうして大丈夫なの? 血が止まらないよ!」
「落ち着いて。ポーチから、薬を出せるでしょう?」
「あ、そうか」

 ランは腰に常にポーチをつけていることを忘れていた。そのポーチからは、前に生きていた世界にある薬を取り出すことができ、異世界人にはそれが劇的に効くのだった。

「エリナ、待ってて。すぐ治してあげる」

 ランはポーチから【絆創膏】を出すと、エリナの胸をはだけ、血を流している傷口に貼った。
 出血は、すぐに止まった。

「……良かった」

 ランはエリナに覆いかぶさって、優しくその身体を抱いた。
 すると、エリナが目を開いた。

「あれ? 私、何で寝てるの? あのー、私の上にいるのはどなたですか?」

 自分が刺されたことを憶えていないエリナを、ランはたまらなく愛おしく感じ、身体を押しつけてギュッと抱き締めた。


 コーデリア・ブラウンは生きた心地がしなかった。

「こんな時間に誰だ! 何をしてる?」
 
 と、コールマンが誰何したときに、誰が何を言っているのかはわからなかったが、

(廊下で人がしゃべっている)

 ということはわかり、ベッドで寝たフリをしながら、小刻みに身体が震えるのをどうにも抑えられなかった。

(もしかして、エリナが衛兵にでも見咎められたのでは? そして、料理長を私の部屋に連れてこようとしたこともバレたのでは? もしそうなら、私も含めて、怪しい行動をしたとして国王陛下の前に突き出されるかも。最悪の場合、地獄のような拷問を受けて、レオ殿下のクーデター計画を白状させられてしまうかもしれない……)

 ここまできてレオ殿下を裏切るくらいなら、いっそのこと舌を噛み切って死のうーーそんな悲愴な決意を固めるほど、コーデリアの予感は悪い方向に膨らんだ。

 そしてそれは、天使が介入しなければ、まさしく的中する予感であった。

 やがて、料理長が逃げる足音、コールマンが怒鳴る声、エリナが胸を刺されて倒れる音なども聞こえ、コーデリアは悲鳴が出ないように掛け布団の端を必死で噛んだ。

(今にドアがノックされる。衛兵に、部屋から引きずり出される!)

 恐怖で気を失いそうになるコーデリア。
 ところが、ランがコールマンをビンタしたバチンという音と、「天使さん! そっちはいいから、こっちを!」という怒鳴り声がしたあとは、ほとんど物音がしなくなり、コーデリアの部屋がノックされることもなかった。

(どうしたんだろう。エリナと料理長は、どこかに連れ去られたのかしら?)

 不安が募って寝たフリを続けられなくなり、ベッドから降りて、そーっと部屋の扉まで歩いていったときに、

〈コツコツ〉

 扉がノックされたので、わっと叫んでしまった。
 しかしーー

「奥さん、エリナです。開けて下さい」

 と、若い女官の落ち着いた声が、扉の隙間から聴こえてきたので、コーデリアは安堵のあまり膝から崩れ落ちた。

「良かった……見つかったんじゃなかったのね」

 思わず独り言が洩れる。
 コーデリアはゆっくりと立ち上がり、扉を開けた。
 すると、

「説明はあとでします。とにかく全員入れて下さい」

 と早口で言ったエリナを先頭に、暗い顔をした料理長と、晴れやかな笑顔のランと、衛兵隊長のコールマンをお姫様抱っこしたイケメンの天使が入ってきた。
 今度こそコーデリアは、気絶しそうになった。

「奥さん、ベッドにお連れします。どうぞ気を楽にしてお聞き下さい」

 倒れそうになるコーデリアをとっさに支えたエリナが、女主人をベッドまで歩かせ、ふかふかのクッションによいしょと座らせた。

 さて何から説明しようかと、エリナが思案していると、料理長がいきなりコーデリアの前に進み出て土下座をした。

「お赦し下さい、コーデリア様!」

 美しい王太子の元婚約者を目の前にしたとたん、自分がいかに恐ろしいことを実行しようとしていたかにハッとさせられ、心の底から懺悔したい気持ちに駆られたのである。

「王太子殿下に頼まれて、私は明日の朝食にーー」
「言わなくていいよ」

 と、料理長を制止したのはランだった。

「王と王太子に逆らったら家族ごと殺されるのは、みんな知ってるから。ところで毒って、厨房の氷の冷蔵庫に隠してあった、魚の内臓?」

 料理長の顔が、真っ青になった。

「あ、あれを、見たのですか?」

 ランはやっぱりとつぶやき、

「食べて処理しようと思ったんだけど、グロすぎて無理だった。天使さん、あれはどうしたらいい?」

 天使はコールマンを抱っこしたまま、

「あなたが厨房に来る前に、この羽で一撫でして、無毒化しておきました。だから安心して食べられますよ」

 みんなシーンとしてこのイケメンを見つめていた。そこでランはコホンと咳払いをし、

「紹介が遅れましたが、こちらは天使さんです。私が死んだときに、こちらの世界に転生させてくれた恩人、いえ、恩天使です」

 説明はそれだけだったが、コーデリアも料理長もエリナも、それぞれ自分なりに天使の存在を受け止めた。なるほど、天使ね。どうりで羽が生えてると思った。きっといい人、いえ、いい天使に違いないわ。

 こうして、ジェイコブ王太子によるコーデリア毒殺計画にまつわる心配事は除き去られたがーー

「料理長さん、一生のお願いです!」

 ベッドから降りて床に正座し、料理長と目線の高さを合わせたコーデリアの胸には、自身の毒殺計画よりも遙かに重大な問題がのしかかっていた。

「明日の朝食に、【睡眠薬】を入れてほしいのです。どうか、どうかお願いします!」

 コーデリアの柔らかな手が、料理長のガサガサに荒れた手をギュッと包む。
 料理長は息を呑んだ。
 まるで宝石のように輝く、コーデリアの潤んだ大きな瞳が、息がかかりそうなほど近くに……

「プハー!」

 窒息寸前で、呑んだ息をようやく吐き出すことのできた料理長は、何度も首を縦に振った。

「コ、コーデリア様のお望みであれば、何でもさせていただきます!」

 ほらね、とエリナが、得意げに女主人のほうを見た。

「料理長はもう王室を崇敬してない。だから大ファンの奥さんの頼みなら絶対聞くって言ったでしょ? 私の勘はよく当たるんだー」

 コーデリアがエリナに微笑むと、天使が料理長に質問した。

「王太子からは、何に毒を入れるようにと頼まれましたか?」

 料理長は、イケメンの天使をまぶしそうに見上げ、

「はい、肉料理に入れろと」
「では【睡眠薬】は、肉料理以外の物に混ぜるといいですね。コーデリアさんは、すべての料理を毒見するのですか?」

 天使の質問に、コーデリアはいささか緊張ぎみに答えた。

「あ、はい。そう伺っております……天使、さん」
「でしたら、サラダのトマトにでも【睡眠薬】を入れたらどうでしょう? コーデリアさんは、毒見のときにトマトをとらなければいいのです。王太子はあなたが肉を食べるところだけに注意していて、トマトを選ばなかったことなど気にしないでしょう」

 コーデリアは黙って頷いた。確かにいい方法だ。たとえば飲み物やスープなどに薬が入っていると、均等に溶けてしまうので、どうしてもある程度は飲むことになる。その点、サラダのトマトにだけ溶けているのだったら、それを避けて皿にとって毒見すればよいのだ。
 そのとき不意に料理長が、

「あのー、天使さん」

 と、腰を浮かしながら発言した。

「もしよろしければ、私の代わりに、天使さんが【睡眠薬】を入れてくれませんか? そのほうが、成功確実に思えますので」

 コーデリアもエリナもランも、それに賛成するような顔をした。
 しかし天使は、

「私は生きている人間に対して、身体的な影響を及ぼすような力は行使しないと決めています。人を殴ったり、毒や薬を服ませたり、病気を治したり、傷を癒やすようなことはしません。良いアドバイスをしたり、人を導くことはいたしますがーーすみません」

 やろうと思えばできるが、地上の人間のことに干渉する限度を決めている。というのが、この天使の倫理観であった。

 料理長は、わかりましたと引き下がった。
 コーデリアは、チートアイテムである【睡眠薬】を料理長に渡した。

「国王陛下、王妃殿下、王太子殿下のそれぞれが、一粒ずつ服むようにして下さい。味や匂いはなく、水にとてもよく溶けるそうです」

 かつてのコーデリアは、自分の美貌を鼻にかけ、それを武器にしていた。
 しかし、ランの美しさに接して謙虚になった今では、自分の美貌をほとんど意識することはなかった。
 が、それでも料理長にとっては、やはり強力すぎる武器に違いなく、

「が、頑張ります!」

 薬を手渡しされた瞬間、思わず上ずった声で叫んでいた。
 と、その声に反応したのか、

「……うん?」

 天使にお姫様抱っこされた衛兵隊長が、目をパチッと開いた。
 たちまちコーデリアの部屋に緊張が走った。


 衛兵隊長のコールマンは、自分を抱いている者の顔を見上げた。

 イケメン。
 そしてーー背中には大きな翼。

「どうも、コールマンさん。私は天使です」

 だろうな、とコールマンは思った。初めて見るが、少なくとも人間ではない。
 天使が手を放すと、コールマンは床に立ち、部屋をゆっくりと見渡した。

 コーデリア・ブラウン嬢。
 料理長。
 女官のエリナ。
 新しい毒見役の少女。

 気を失う前の記憶が甦る。
 廊下で料理長とエリナを見つけ、誰何した。
 料理長がパニックを起こして逃げ出し、それを追った。
 するとエリナが飛び出してきたので、威嚇するために銃剣を向けた。
 が、暗い廊下で目測を誤り、銃剣の先がエリナの左胸を抉った。
 倒れたエリナを見降ろすと、女官服に赤いシミが広がっていった。
 その直後、風が吹いたように感じ、気を失った。

(そうか。あのとき天使が天から舞い降りてきて、俺を気絶させたのだな)

 そうコールマンは考えた。事実は、ランのビンタに意識を飛ばされたのだったが。

「コールマンさん」

 天使が穏やかに言う。

「あなたはこちらの少女を殺すところでした。ランさんが【絆創膏】で傷の手当てをしなかったら、エリナさんは出血多量で息を引き取る運命でした。なぜならこの王宮では皆ーーあなたも国王も侍医もーー罪のない十四歳の女の子が死ぬのを黙って見殺しにすることになっていたからです」

 その発言に、コーデリアが反応した。

「エリナ、あなたの胸!」

 うかつなことに、コーデリアはほかに気を取られることが多すぎて(突然の天使の出現や、料理長への頼み事など)、エリナの服が血に染まっていることに気がつかなかったのだ。

「奥さん、心配いりません。ランが転生者のアイテムで治してくれましたから」

 エリナが元気よく答えると、コーデリアは鼻をすすった。こんな少女でも命をかけて闘っているーーということに、胸を打たれたのだ。

「そして運命では」

 天使が続けた。

「あなたは料理長さんとコーデリアさんを拷問し、それによって聞き出したことを国王に告げ口し、国王は命令を出して、レオ第二王子と宰相とコーデリアさんを処刑することになります。そこには一片の正義もありません。ですから私は、地上のことに介入するのは本意ではありませんが、こうして降りてきたのです」

 衝撃的な天使の未来予告に、コーデリアたちは絶句した。

「しかし」

 なおも天使は続ける。

「あなたが国王の元へ行き、巡回したが何も異常はなかったと報告すれば、今言ったことは起こりません。代わりに正義がなされます。どうでしょう、コールマンさん。あなたはどちらの行動を選択しますか?」

 コールマンは、ギロリと天使をにらんだ。

「俺は国王陛下に忠誠を誓っている。だから嘘の報告などできん」

 すると、この衛兵隊長に大切な親友を殺されかけたランが、固く握った拳(こぶし)を突き出して怒鳴った。

「偉そうにすんな! あのとき私がビンタじゃなくてグーで殴ってたら、今頃あんたはお陀仏(だぶつ)だったんだぞ!」

 コールマンは顔色一つ変えなかった。言われたことの意味がわからなかったのである。

「衛兵隊長さん」

 コーデリアが、情に訴えかけるように言った。

「あなたの行動によって、広く国民に慕われているレオ殿下が死ぬかもしれないのです。殿下の優しさはあなたもご存じでしょう? その罪のない血を流す代わりに、命を救う選択をして下さいませんか?」

 コールマンがコーデリアに顔を向けたが、やはり表情は変わらなかった。

「答えは一緒です。国王陛下に対し、ありのままの事実を報告するのみです。それとも陛下を裏切れとでも?」

 このとき、料理長がゴクリと唾を呑み、勇気を振り絞って言った。

「コールマンさん、聞いてくれ。私はジェイコブ殿下に、コーデリア様を毒殺するよう命令された。もちろんそれは、陛下の了承を得てのことだと思う。これはただの殺人だ。婚約者に飽きただけの、身勝手極まる行為だ。だから私は、もう陛下や王太子殿下を尊敬できなくなり、盲目的に従うことをやめた。どうかコールマンさんも、現実を見てほしい。国王陛下と王太子殿下に、果たして忠誠を貫き通すだけの価値があるかどうかを」

 コールマンはじっと虚空を見つめた。ジェイコブ王太子に、尊敬できない面があることは確かだ。本当に国のことを第一に考えているのかと疑問に感じることもある。が、だからと言って、軍人が忠誠を捨てたら国を守れない。それだけは、何があってもしてはならないことだ。

「料理長」

 コールマンは冷たく言い放った。

「お前の考えなどどうでもいい。俺は俺の務めを果たす」
「ねえ、隊長さん」

 その鋭い勘で、物事の本質をズバリと突くことのあるエリナが、不意に質問を投げかけた。

「隊長さんは、それで幸せ?」

 コールマンはエリナを見た。質問には答えなかった。
 エリナが一歩前に出る。

「本当は知ってるんでしょ? 私たちの王が、国民を幸せにしていないことを。その王に仕えることで、人を不幸にする体制をせっせと支えていることを。だからあなたは、そんな不幸せそうな暗い目をしてるんだわ」

 コールマンが銃剣を持ち上げた。
 その刹那、風が吹き、手から銃剣が消えた。
 銃剣は、ランの手に移っていた。

「殺せたよ」

 銃剣の先は、正確にコールマンの心臓に向けられている。

「あんたがまばたきするあいだに、私はあんたを殺せる。でもそうしないのは、私は人殺しの王様とは違うから。こちらの天使さんもそう。その気になれば、あんたの命なんか一瞬で奪えるのよ。でもそうしないのは、あんたが正しい道を選べるように、チャンスを与えてやってるんだよ!」

 コールマンは銃剣の先を見据えた。
 そして、おもむろに床にあぐらをかき、

「殺すなら殺せ。俺は陛下のために死ぬ覚悟はできている。陛下を裏切ってまで、生き延びようとは思わない」

 ランは天使のほうを見た。
 天使は、仕方ないですね、と言って肩をすくめた。

「コールマンさん」

 天使が近づいて、羽でコールマンを撫でた。
 と、たちまちコールマンの身体は硬直した。天使の力によって動けなくされたのである。
 
「あなたには、言葉による説得は通じないようです。なので今からこの国の実態を見てもらいます。自分の目で見たものによって、どう行動するかを決めて下さい。ではランさんも一緒にどうぞ」

 そう言って天使は翼を広げると、その背中にコールマンとランを乗せ、まるでつむじ風が舞い上がるように王宮から消えた。


 天使は、ほんの数秒で、王宮からおよそ百キロ離れた山麓の農村に飛んだ。
 その背中で、ランと衛兵隊長のコールマンがハッと目を覚ます。瞬間移動をしているあいだ、ほとんど気を失っていたのだ。

「ここは?」

 呆然とつぶやくラン。糠のような雨に、服がしっとりと濡れそぼつ。

「ある農家の上空です。私の力で、屋根を透視できるようにします。向こうから、こちらの姿は見えません」

 天使が言ったとたん、藁葺きの屋根が透けた。
 家の中では、深夜にもかかわらず、八人家族の全員が起きていた。

「お母さん、見て。これ何だと思う?」

 六歳の次女の声が、天使とランとコールマンの耳にはっきりと届いた。

「何だろうね。クマさんかい?」
「違うよ。クマさんは耳が丸いんだよ。これは三角でしょ?」

 真夜中に粘土遊びとは……ランはそれを、可愛らしい粘土のお人形とは裏腹に、何か異様なものに感じた。

「この大きなしっぽは、タヌキさんでしたー」 

 次女がケラケラと笑うと、十二歳の長男も、

「爺ちゃん、見て。おいら、お城作ったよ。王様と王妃様と王太子様が住んでるんだ」

 竹と紙で作ったお城を見せ、幼児のようにはしゃいだ。
 その様子を、泣き笑いのような顔で黙って見ていた一家の主(あるじ)が、

「さて、そろそろ、ろうそくが尽きてしまう。それが最後の一本なんだ」

 急に八人家族がシンとした。やっぱり何か変だーーランは胸騒ぎを覚えた。

「みんな、一息に飲んでくれ。それで楽になれる」

 主人は、家族一人一人の前に茶碗を置き、ヤカンから液体を注(そそ)いだ。

「あれは何? 何をしてるの?」

 下を見降ろしたまま、ランが天使に訊くと、

「青酸ソーダ入りのジュースです。彼らは今から一家心中するのです」

 えっ、とランが甲高い声を出したが、下の家族は無反応だった。上空での会話は、天使の力で聞こえないようにされていたのだ。

「天使さん、止めないの? まさか、見殺しにはしないよね?」

 ランの問いを、天使はそのままコールマンにパスした。

「コールマンさん、どうしましょう。見殺しにしますか?」

 コールマンは答えない。ただじっと、怒ったように下の光景をにらんでいる。

「あなたのような軍人も含めて、国民には知らされていませんが」

 天使が静かに言う。

「農民の餓死や自殺や心中は増える一方です。なぜなら、どんなに不作でも、納める税は年々増えているからです。王がそう命令しているのです」

 そのとき下では、十歳の長女が泣き出し、それに耐えきれなくなった長男が、

「……おいら、最初に飲んでいい?」

 と、茶碗を取った。
 
「王は知っています」

 天使が言う。

「餓死者や自殺者の数は、王に報告されています。しかし彼は、それを薄笑いで聞くと、食い扶持が減っていいとさらに税を増やし、自分は毎回捨てるほど多くの食事を食卓に並べさせています。コールマンさん、あなたはこの現実を知っていましたか?」

 コールマンは、あっと小さく声を洩らした。
 長男が、茶碗を口元に近づけたのだ。
 飲めば呼吸困難となり、早ければ数分で死亡する。

「天使さん!」

 たまらずランが天使の羽を揺さぶったときーー

「待つのじゃ!」

 玄関の戸がいきなり開けられて、驚いた長男の手から茶碗が落ちた。

(……誰だ?)

 コールマンは知る由(よし)もなかったが、その闖入者の正体は、ランとレオ第二王子を結びつけた、職業「仙女」を選択した転生者の老婆だった。

(まるでいきなり空中から現れたみたいだが、あの老婆も、天使の仲間か何かか?)

 コールマンの頭は激しく混乱した。が、ともかく長男が毒を呑まずに済んだので、声を出さずにほっと息をついた。

「一家心中などやめたがいい」

 老婆は、一家の主人を説得しようとした。

「仙女の言うことに間違いはない。この世は変わる。死ぬ必要もなくなる。奴隷は解放されるのじゃ」

 主人は信じなかった。

「奴隷を解放? そんなことをした国は、過去から現在に至るまで一つもありません。ましてやシェナ王国が……」
「信じられんか? しかし何がどう変わるか、あんたにはわからんじゃろう? わからないくせに、何も変わらんと勝手に決めつけて、四人の幼子から未来を奪ったらそれは殺人じゃ」
「殺人ですよ!」

 主人は声を張り上げた。

「そっちこそ、決まってもないことを聞かせて喜ばせないで下さい。もういいから、楽にさせて下さい。望みはそれだけなんです。それとも奴隷には、死ぬ自由も権利もありませんか?」

(まずいな……)

 コールマンは唾を呑んだ。

(あの様子だと、説得は効かない。早くすべての茶碗をひっくり返さないと、発作的に毒を呑まれてしまうぞ)

 その悪い予感はあたった。
 老婆が説得する言葉を探しているあいだに、主人は茶碗を取り上げて、一息に毒入りジュースを呷(あお)ってしまった。

「あっ!」

 コールマンは叫んだ。
 全身から血の気が引き、手足が冷たくなる。

(クソッ! やられた! だがすぐに吐き出させれば、まだ間に合う)

 コールマンは天使の翼を引っ張って言った。

「俺を降ろせ! あそこに行かせろ! 毒を吐き出させる!」

 ところが天使は、慌てるそぶりもなく、

「おや、コールマンさん。あの農民は、王への務めを勝手に放棄して、死を選んだんですよ? そんな非国民の奴隷は、見殺しにすればいいじゃないですか」
「急げ! 早く救けろ!」
「王の意向を聞かなくてもいいですか? あの王様なら、ほっとけ、コールマン、と言いそうですが」
「早く!」

 翼を強く揺すられて、天使はじゃあと言い、コールマンを乗せたまま農家の家の中に瞬間移動した。
 コールマンは急いで天使の背中から飛び降りると、床に倒れた主人の口元に顔を近づけた。
 息はしている。
 服をはだけて左胸に耳をつける。良かったーー心臓もまだ動いている。

「コールマンさん」

 天使の柔らかな声が聞こえた。

「毒を吐かせる必要はありません。あなたは気がつかなかったようですが、一足先に、ランさんをここに瞬間移動させたのです。そしてランさんは、【胃薬】という万能薬を、この方が毒を呑む直前に、すばやく口に放り込んだのです。ですから彼は死にません。仙女さんも、そういうことですので、どうぞご安心を」

 コールマンは言葉もなく、天使とランと仙女をぼんやりと見た。
 すると、毒を呑み干したという思いで一瞬気絶していた主人が、うーんと唸って身体を起こし、突然現れたコールマンたちに驚いて言った。

「……あんたたちは誰だ?」

 天使の力で、彼らの姿は見えるようにされたのである。


「あんたは誰だ?」

 生活苦に耐えられず、一家心中を決意した農家の主人にそう訊かれたとき、

(俺は衛兵隊長。せっかくこの世に生まれたあなたたちを、地獄に突き落とした王様を護る仕事をしている。そしてその王様のおこぼれで、大変美味しい食事を毎日たらふく食っている)

 という答えが、コールマンの脳裏をよぎった。
 だが実際には何も言わなかった。
 無力感に襲われて、口が動かなかったのである。

(何と情けないことだ。この奴隷たちが作った米を、俺は毎日残すほど食っている。しかし彼らは、今日食べる米がなく、年端のいかぬ子どもたちとともに死のうとしている。それなのに俺は、今の今まで、国のために彼らよりもリッパな仕事をしていると思っていたのだ……)

 奴隷たちの犠牲に支えられて生きていながら、その奴隷の苦しみに目を向けようとしなかった自分を、コールマンは激しく愧(は)じた。

「コールマンさん」

 うなだれたコールマンの首すじに、天使の声が新雪のように柔らかく降りかかる。

「あなたの心が、私には見えます。あなたはこちらの家族が死ぬのを望んでいない。そうですね?」

 当たり前だ、という答えが浮かんでも、顔を上げることはできなかった。それを言う資格すら、自分にはないと感じていたから。

「この国の王様のせいで、すでに何万、いえ、何十万という農民が死んでいる。あなたはその王の信頼厚い衛兵隊長として、こちらの家族に合わせる顔がない。だから何も言えないでいる。そうですね?」

 この場合、返事をしないことが返事になった。

「でもそれは、初めて現実を知って、心を動かされた証拠です。人は、心が動くと、行動が変わります。あなたはどうですか? 心が動いても、まだ現実に目をつぶって、前と同じ行動を続けますか?」

 厳しい質問だ。
 知った現実を無視して生きるのは、心を殺すのに等しい。
 だが、行動を変えるとは、国王陛下に対する忠誠を捨てることを意味する。

(天使は俺に、裏切りを迫っている。今日見聞きしたことを陛下に報告しないことが、行動を変えるということだ。でも俺に、そんな不義理ができるか?)

 死のう、とコールマンは思った。
 陛下を裏切る自分が想像できない。かといって、農民の地獄を知りながら、今までと同じ顔をして陛下の命令を聞ける自信もない。

(軍人が迷ったらもう終わりだ。王の命令一つで火の中に飛び込むのが軍人だ。しかし、農民の死を聞いて笑ってステーキを頬張る陛下のために、俺は死ねるだろうか? 嗚呼、陛下。自分は二つに裂けてしまいそうです!)

 コールマンの目が、中身の入った茶碗の上に止まったーー青酸ソーダ入りのリンゴジュースに。
 反射的にそれを取り、口に運んだ。

「おじさん、だめだよ!」

 不意に少年の声が耳を刺し、手が止まった。
 振り向くと、四人の子どもが、天使に抱かれて顔を輝かせていた。

「おじさん、それ、ジュースに見えるけど、毒なんだ」

 十二歳の長男が、そう言って笑う。

「さっき、おいらも飲もうとしたんだけどね。飲まなくて良かった。だって、天使に会えたんだよ!」

 子どもたちは天使にしがみつき、キャッキャとはしゃいだ。

(生きていたら、天使に会うこともできる。そういう奇跡を体験したこの家族からは、もはや、心中をする動機が消え去っている)

 生きていれば、何が起こるかわからない。
 どんな悩みも、生きていれば、奇跡的に解決するかもしれない。
 だからーー死ぬのは間違っている。

「ああ、ありがとう。毒なんだね。なら捨てよう」

 コールマンは茶碗を傾けて、中身をこぼした。俺は少年に命を救われたぞ、と胸に刻みながら。
 
「コールマンさん。心は決まりましたか?」

 天使の問い。
 コールマンは見た。
 八人家族の笑顔を。
 ランも笑っている。不思議な老婆も笑っている。

 彼らにはーーずっと笑っていてほしい。

「決まりました」

 コールマンは答えた。

「巡回したが、何も異常はなかったと陛下に伝えます。それで、あなたの言う、正義がなされるのですね?」
「そうです」

 頷いたあと、天使はコールマンの顔を覗き込んだ。

「コールマンさん。あなたは今、あなたの心が正直に命じる、大変良い決定をなさいました。それなのに、少しも笑わないのですね」

 もちろん、とコールマンは言った。

「笑うことなどできません。私は半分死んだようなものです」
「なぜですか?」
「あなたは心が見えるのでしょう?」
「でも、あなたの口から聞きたいのです」
「では言います。私はずっと、陛下のために生きてきました。死ぬまでそうするつもりでした。それを捨てたのです」
「なぜ捨てることができましたか?」

 コールマンは少し考えた。やがて、心に浮かんだままを言った。

「あなたたちのほうが正しくて、自分が間違っていると思ったからです」

 天使は翼を広げた。その翼は、まばゆく光った。

「コールマンさん。今はつらいでしょうが、奇跡は起こります。必ずや、あなたにも素晴らしい未来が開けるでしょう」

 コールマンは、天使の光にすがるように訊いた。

「教えて下さい。私がもし、陛下のために生きるのをやめたとしたら、何のために生きたらよいのでしょう? 陛下の代わりになるようなものが、果たしてこの世にあるでしょうか?」

 コールマンは真剣だった。その真剣さに、思わず笑みを誘われた天使は、コールマンを慈しむように言った。

「私からの提案は愛です。どうぞ試して下さい」
「……愛?」

(これから俺は、愛のために生きる?)

 唐突な天使の提案に、コールマンはとまどいを覚えたが、目の前にいる人々をじっと見つめているうちに、なぜだか知らぬが笑みがこぼれた。


 レオ第二王子の部屋がノックされる。
 三回、一回、三回……ニコラス・スミス宰相の合図だ。
 扉を開けると、体裁の悪そうな顔をした宰相が入ってきた。

「どうしても眠れなくて」

 第二王子の部屋に戻ってきた理由を、そう告げた。

「悪いほうにばかり想像が膨らんで、この無血クーデターの成功を危ぶんでしまいーー」
「ニコラス」

 第二王子は柔和に微笑んだ。

「僕もそうだ。もし失敗したら、という不安はある。しかし、僕もこうして眠れずにいたのは、それよりも先のことを考えていたからだ」

 そう語る第二王子の目は、輝いていた。

「もし成功したら、僕は改革をやる。農民の税は十分の一にしよう。働いたら働いただけ、彼らが豊かになるようにする。そうすれば、労働意欲が湧いて、生きることに喜びを感じるようになるだろう」

 第二王子は興奮していた。失敗への不安は、未来への希望によって厚く覆われていたのだ。

「外国から、新しい農具や技術を輸入しよう。それでかなり生産性は上がるから、税率を下げても心配ない。また教育改革もやる。たとえば女官のエリナだが、あれは優秀だ。貴族でなくても、ああいう子が学校に行けるようにする。そして女性でも、優秀ならば大臣になれるようにするのだ」

 第二王子の熱気が伝染して、ニコラス宰相も身を乗り出した。

「転生者のランのチートアイテムを使えば、医療改革もできますよ。あのポーチからどんどん薬を出してもらうのです。そうすれば、治療費や入院費は大幅に減り、病気による死亡率も格段に下がります!」

 素晴らしい、と膝を打つ第二王子。

「ではランには、厚生大臣をやってもらおう。いや、それだけじゃない。彼女は常人の百倍の力があって二百倍のスピードで動けるから、労働大臣も兼ねてもらう。さらに働く女性の象徴として、初代の女性活躍大臣にも就任してもらおう」

 と、美食を食べてゴロゴロする予定でいたランにとって、むごすぎる青写真が次々と描かれていった。

「いやあ殿下、楽しみですなあ」

 いつの間にか不安を忘れていた宰相が、レオ第二王子の手を握り締めて言った。

「どうせ今夜は眠れません。殿下もそうでしょう? こうなったら朝まで、未来について語ろうではありませんか!」


 ◆◆◆◆◆


 衛兵隊長コールマンは、天使によって、王の寝室の前に瞬間移動させられた。
 天使は煙のように消えた。暗い廊下に、銃剣とランタンを提げ、一人佇む衛兵隊長。
 迷いはまだ、続いている。

(今から俺は、陛下に嘘をつく。陛下に嘘を! まさか自分がそんなことをするとは……できるだろうか? その瞬間になったとたん、俺の唇はひん曲がり、陛下に対して真実の報告をしてしまうのではないだろうか?)

 自分で自分がわからなかった。
 嘘をつけるかどうかーー
 それはきっと、陛下の目を見た瞬間に決まる。

(チクショウ! なるようになれだ!)

 震える手で、ノックをした。
 永遠にも思える時間。
 やがて、扉が開いた。

「ああ、お前か」

 グレイス二世ーー国王陛下は、額に汗を浮かべ、コールマンを探るようにじろじろと見た。

「何の用だ?」

 コールマンは、雷に打たれたようになった。

(何の用だ、だって!?)

 忘れていたのだ、陛下は。衛兵隊長の自分に、王宮の巡回をして、異常がないかどうか報告せよとお命じになられたことを。

「あ、あの……」

 あまりのことに言葉が出ない。すると陛下の後ろから、鼻の頭に汗を浮かべたポーラ王妃殿下が顔を覗かせ、

「まあ、コールマン。ごめんなさいね。私の悲鳴が聞こえたんでしょう?」

 と、意味のわからぬことを言った。
 王妃殿下は妖艶に笑う。

「ねえ、あなた。彼は聞き耳を立てていたのよ。だからさっきの私の声を、悲鳴と勘違いしたのだわ」
「ほう、聞き耳を」

 陛下の目が、いやらしく細められた。

「国王と王妃の秘め事を盗み聞きするとは、お前も隅に置けないな。だが特別に許す。なんたって、余はお前が頼りだからな」

 陛下と王妃殿下からは、獣(けもの)のような匂いが漂った。
 このとき、コールマンの眼前に、不意に少年の顔が浮かんだ。
 一家心中を思いとどまった農家の、あどけない十二歳の長男の笑顔が。
 そして、その顔には愛を感じたのに対し、陛下と王妃殿下の汗ばんだ顔には、何も感じなかった。

「謹んでご報告申し上げます」

 衛兵隊長コールマンは、捧げ銃(つつ)の敬礼をして言った。

「王宮内を隅々まで巡回いたしましたが、異常はありませんでした」

 ここでようやくグレイス二世は思い出し、あ、そうかと言った。

「ご苦労。ではいつものように、朝まで余の寝室の警護をせよ。盗み聞きはほどほどに、な?」

 まるで気心を許した仲間に対するように、下卑た笑い顔をコールマンに向ける国王と王妃。
 しかし、衛兵隊長の心は、まるで天使の住む天と虫の這う地上くらいに、彼らから遠く離れていた。


 その日の朝を、それぞれの人物がどのように迎えたか、簡単に述べておこう。

 グレイス二世とポーラ王妃は、王の寝室で抱き合って。

 衛兵隊長コールマンは、その寝室の前に直立不動で。

 ジェイコブ王太子は、ベッドに横になりながら、新しく妻に迎える美貌の少女のことを悶々と考えて。

 仙女の老婆は、八人家族の農家の家にとどまり、朝まで彼らとクーデター後の世の中について熱く語って。

 レオ第二王子とニコラス・スミス宰相も、同じく未来を語らって。

 残るは四人。
 公爵令嬢コーデリア・ブラウン、女官のエリナ、転生者のラン、料理長であるがーー

「ただいま」

 衛兵隊長を王の寝室の前に瞬間移動させたあと、天使はランとともにコーデリアの部屋に戻ってきた。ちなみに「ただいま」と言ったのは上機嫌のランだ。

「冒険、大成功だよ。コールマンはねーー」

 ランが山麓の農家での出来事を話すと、聞き役の三人は涙を流して喜んだ。

「良かった。その仙女のお婆さんも素晴らしい方ね。ぜひお会いしたいわ」

 コーデリアが鼻をかんで言った。よく泣くお嬢様ではある。

「衛兵隊長の心が変わったのは奇跡です。さあ、私もこうしちゃいられない。重要な明日の任務のために、仕込みを始めなければ」

 料理長はそう言うと、まだ夜明け前にもかかわらず、厨房に降りていった。朝食の準備に火を熾(おこ)す必要もあり、料理長は王宮内で誰よりも早く仕事を始めるのが常であった。

「それではみなさん、私はこれで。もうこちらのことには干渉しませんので、どうぞご無事で」

 天使がそう言って帰ろうとしたので、コーデリアとエリナとランは、どうかあと一日だけ、と必死に引き留めた。

「いえいえ、大丈夫です。これまでどおり天から見ていますから。とにかく今日の行動は例外中の例外なのです。天使の役割としては、ずいぶん出過ぎてしまいました」

 そう言い残して天使は消えた。

「私も帰ります」

 とエリナが頭を下げた。

「ひょっとすると、雑用を言いつけるために、先輩が早く起こしにくるかもしれませんから。もし部屋を抜け出したことがバレて、王妃様に告げ口でもされたら大変」

 そう言ってエリナが後宮に戻ると、部屋にはコーデリアとランが残された。

「コーデリア様」

 ランが優しくコーデリアの手を握った。

「明日は絶対大丈夫。何もかも、うまくいきますから」

 ありがとう。と言ったあと、コーデリアは、しばらくランを見つめた。

「……私の顔に、何かついてます?」
「ううん」

 コーデリアは首を振って、笑った。

「あなたの顔が、あんまりきれいだから、つい」
「コーデリア様こそ」

 ランも笑った。
 やがて、ランも自分の部屋に帰ることになり、二人は手を振って別れた。
 その直後、コーデリアはベッドに突っ伏した。

(ランのことは大好き。でも複雑……)

 まぶたの裏には、ランの部屋の布団に隠れていた、レオ第二王子の顔がある。
 何だかあのとき、バツが悪そうだった。

(私が部屋に入るまで、あの二人は、いったい何をしてたんだろう?)

 苦しい想像だった。
 コーデリアがこのクーデター計画に加わったのは、ほんの数時間前。
 それまで、計画についての話し合いを、レオ殿下とランは、どれほど多く重ねたのだろう。
 どれほど長い時間、二人は親密に、秘密の計画について語り合ってきたのであろうか……

 ベッドのシーツにしわが寄る。無意識のうちに、シーツを固く握り締めていたのだ。

(首尾よくクーデターが成功したら、あの二人は結婚するかもしれない。たぶんそうだ。だってものすごく、お似合いだもの)

 シーツが涙に濡れる。本当に、よく涙の出る大きな目だ。

(それを見る前に、私は実家に帰ろう。そしてもう二度と、王室に関わろうなどとは思うまい)

 もしレオ第二王子が、コーデリアの切ない胸の内を知ったならば、

「僕が好きなのはあなたです!」

 と大声で叫んだだろう。しかし人間は、天使ほど巧みに人の心を読むことはできない。だから、これまでコーデリアに無愛想にしてきたことが災いして、自分は嫌われているだろうと勝手に思い込んでいた。

 それはコーデリアも同じこと。
 もしレオ第二王子の心を知れば、今流している涙の意味は、苦しみから喜びへと百八十度変わるであろう。

 鳥の啼き声に、ふとコーデリアは顔を上げた。
 気がつくと、カーテンの隙間に光。
 夜明けだった。

 こうして、この出来事に関わるどの人物にも眠りを許さなかった一夜が明け、その日の朝を迎えたのであった。


「おい、そこ! 火が強すぎるぞ!」

 王宮の地下の厨房で、料理長の厳しい声が飛ぶ。

「タマネギは弱火で炒めるんだ。そうすれば、素材の甘さが溶け出して、より美味しいポタージュになる。そういうところで手を抜くな!」

 言われた料理人は頭を下げながら、思った。

(何だかこの頃は、病人みたいに暗い顔をして俺たちを心配させたくせに、今朝はやけに元気だ。ひょっとして、男の更年期ってやつか?)

 料理長は気合いが入っていた。王太子の命令に背き、コーデリアの頼みを聞いてやり、この国の未来のために料理に特殊な薬を入れるのである。

(昨日までの自分には、とてもできると思えなかった行為だ。自分は生まれ変わった。今日はその、記念すべき第二の誕生日なのだ!)

 料理長自慢の、今朝の特別メニューは以下のとおり。


・季節野菜てんこ盛りのオードブル(【睡眠薬】入りトマトをどうぞ)。
・カプチーノ風に泡を立てたクリーミーなポタージュ(料理長の気合い入り)。
・バターで皮をカリッと焼き上げた白身魚のムニエル(普通に美味しいです)。
・切り口の赤々しいミディアムレアの最高級フィレステーキ(天使の無毒化済みフグのレバーペーストを載せて)。
・旬なフルーツをふんだんに使ったゼリーとソルベ(コーデリア様への秘めた愛情を込めて)。
・そして王が必ず食後に飲まれるアロマチックなカフェ(危険なクーデター風味)。


 あとはいつもどおりやるだけ、と料理長は自分に言い聞かせた。

(怪しまれずに、三人がトマトを食べればすべては終わる。いや、すべてがそこから始まるのだ。とにかく怪しまれないように、怪しまれないように……)


 ◆◆◆◆◆


(怪しまれないように、いつもどおりにしよう)

 いよいよその日の朝を迎えたレオ第二王子は、日課である王宮の庭園の散歩を終えて、ことさらゆったりと一階の廊下を歩いた。

(頑張れ、コーデリアさん。あなたならきっとできる)

 第二王子は、料理長が仲間になったことをまだ知らない。だから【睡眠薬】は、コーデリアが毒見のときにこっそりサラダの皿に入れる手はずのままだと思っていた。

 第二王子は歩く速度を変えずに、食堂の前を通りかかった。
 いつものように、扉の前に衛兵が二人。
 と思ったらーー

「おや?」

 よく見ると衛兵は三人いた。しかもそのうちの一人は、衛兵隊長のコールマンだった。

(どういうことだ? コールマンは夜中に父の寝室を警護するから、午前中は寝(やす)むことになっているのに……)

「コールマン?」

 レオ第二王子が近寄って声をかけると、コールマンは敬礼をした。

「朝からどうしたんだ? 昨夜は父の寝室を警護しなかったのか?」
「いえ」

 コールマンは直立不動で答える。

「寝もうとしたのですが、眠れなかったのです。そういうときは、任務に就くことにしています」

(余計なことを)

 と、コールマンが仲間になったこともやっぱり知らなかった第二王子は思った。しかし顔には出さずに、

「ご苦労さま。だが、休めるときは休めよ」

 と言って立ち去ろうとした。すると、

「おお、コールマン。ここにいたのか」

 息せき切って、ジェイコブ王太子が駆けてきた。

「父への進言、なるべく早く頼むぞ。実はたった今、後宮へ行ってきて、コーデリア付きの女官の任を解いて、ランには王太子妃の部屋に移る準備をするようにと言付けてきたのだ。こういうことは早いほうがいいからな。だからお前も、行動は迅速を旨とするように。じゃ」

 と早口で言って踵を返そうとしたときに、

「ん? レオか」

 ようやく第二王子の存在に気づいた。

「そういや、お前にはまだ言ってなかったが、婚約は解消したよ。コーデリアのやつ、毒見役になりたかったんだってさ」

 あり得ない大嘘を、しゃあしゃあと弟に告げる。

「そしたら陛下が、例のセイユの毒見役を俺にくれるって。まあ、毒見の一族だから身分は奴隷なんだけど、俺はこういうことはきちんとしたいから、正式に妻にしようと思ってね。というわけでよろしく」

 最低の男め、コーデリアさんを毒殺しようとした報いは受けてもらうからな、と第二王子が内心で毒づいていると、

「ところで、レオ。お前、軍務を解かれて、シェナ王国史の編纂をやらされるみたいだぞ。おかしな意地を張って俺たちと同じ食事を摂らないから、陛下に愛想を尽かされたんだな。そのうち勅命が下るだろうけど、がっかりすんなよ」

 王太子は弟を見下して言った。
 と、そのときだった。
 いつもより三十分は早く、王と王妃が食堂にやって来た。
 仲睦まじく、手を握り合って。

 三人の衛兵は敬礼を、王太子と第二王子は目礼をした。

「ジェイコブ」

 グレイス二世が、鷹揚な態度で長男に言う。

「新しい毒見役を呼んで来てくれ。食事の前に、少し話をしたいのだ」