その頃王宮の地下では、摩訶不思議なことが起こっていた。
 
(きっと厨房には毒が隠されている。万が一の事故が起こらないように、それを処分してしまおう)

 そう思いついた「元毒見役」のランが、深夜に厨房に忍び込んだとき、何者かが天井に張りついていることに気づいた。

 ランは逃げようとした。
 が、常人の二百倍のすばやさがあるランより、その何者かのほうがすばやく、扉を開けようとしたランの手は、上から押さえられてしまった。

 さっと振り向いて、何者かの顔を見る。

「あっ!」

 ランは小さく叫んだ。
 その顔はーーイケメンだった。

「あなたは……」

 ランは一瞬にして、自分がまだ白崎蘭だった時代のことを思い出した。

「その節は、どうも」

 ペコリと頭を下げるラン。
 すると相手も、同じく頭を下げた。

「いえいえ、至りませんで。どうですか、異世界は?」

 心配そうにランの顔を覗いたのは、まだ中学生だった白崎蘭の死後に転生特典をいくつも与えた、イケメンの天使だった。

「おかげさまで、楽しく過ごしています」
「そう言ってもらえると嬉しいです。でも、毎日美味しい物を食べてゴロゴロしているというご希望には、残念ながら添えていないようで」

 ああ、それは、とランは照れたように笑い、

「このゴタゴタが落ち着いたら、気の済むまでゴロゴロしようと思います。だけど、このゴタゴタしたシェナ王国に転生させてくれたおかげで、エリナとかコーデリア様とかレオ王子様とか、とても素敵な人たちと出会えたので、すごく感謝しています」

 それを聞いた天使は、非常に申し訳なさそうに、羽をすくめた。

「それなんですが……まさか私も、運命がこんなふうになるとは」

 天使の口ぶりに不吉なものを感じて、ランの心臓がドキリと鳴った。

「……こんなふうって?」
「これをお聞かせするのはまことに心苦しいのですが、レオ第二王子のクーデターは、失敗に終わります」

 大きく目を見開くラン。天使は続ける。

「明日には、第二王子とコーデリアさんと宰相が処刑されます。エリナさんは、衛兵隊長に銃剣で刺されて、今夜中に息を引き取ります」

 気がつくと、ランは床に座り込んでいた。

「嘘でしょ……みんなあんなに頑張ったのに……どうして?」

 天使はますます小さく羽をすくめる。

「いくつもの偶然が重なって、計画が露見したのです。私は天からそれを見て、あなたに対して本当に悪いことをしたという気持ちになり、地上に降りて参りました。地上のことに干渉するのは、あまりいいことではないのですが」

 それを聞いた瞬間、ランは天使の足にすがりついた。
 
「お願い! 干渉して! あなたの力で、地上の運命を変えて!」

 ランは泣いていた。
 本来天使というものは、このイケメンの天使に限らず、人間を護(まも)ってやりたいという深い愛情を持っている(堕天使は除く)。
 なので、このとき天使は、ランの涙を見て胸が張り裂けそうになり、

「ああ、もちろんですとも! そのつもりで、私は地上に来たのです!」

 たちまち顔を明るくするラン。

「運命は、変えられるのね?」
「きっと。いや、必ず。さあ、急ぎましょう。コーデリアさんの部屋の前へ」

 急ぐとなると、ランと天使は速かった。
 まるでつむじ風が舞い上がるように、あっという間に二人の身体は地下から二階に到達した。

 その薄暗い廊下で二人が見たものは、腰を抜かしてへたり込んでいる料理長と、銃剣とランタンを提げて悄然と佇んでいる衛兵隊長と、胸から血を流して倒れているエリナの姿だった。
 
 ランと天使が突如として現れたことに、まだ誰も気づいていない。

(運命を変えなきゃ!)

 ランは何も考えずに行動した。
 エリナを見降ろして立ち尽くしている衛兵隊長の前に行き、その顔をビンタした。

 ランの力は、異世界人の百倍である。
 女の子のビンタなど、軍人にとってはハエの止まったようなものだーー普通なら。
 しかしこの場合は、百人の中学生に同時に張り飛ばされたも同然だった。
 
 衛兵隊長コールマンの筋骨隆々たる身体は、まるでバレリーナのようにクルクルと回転し、意識を失ってその場にぶっ倒れた。

 驚いたのは料理長である。
 突然、空中から何物かが出現し(異世界人の二百倍のすばやさで動くとそう見える)、バチンと音がして、衛兵隊長がきれいにピルエットを回ったのだ。

「ななな、何だ?」

 コールマンが床に倒れたかと思うと、羽の生えた人間が進み出て、それをお姫様抱っこの形にかかえ上げた。

「天使さん! そっちはいいから、こっちを!」

 ランはエリナのそばに跪いて、叫んだ。
 天使はシッと言い、

「大きな声を出してはいけません。エリナさんなら、もう大丈夫です」

 ランはエリナを見た。
 その女官服の左胸のあたりは、真っ赤に染まっている。

「どうして大丈夫なの? 血が止まらないよ!」
「落ち着いて。ポーチから、薬を出せるでしょう?」
「あ、そうか」

 ランは腰に常にポーチをつけていることを忘れていた。そのポーチからは、前に生きていた世界にある薬を取り出すことができ、異世界人にはそれが劇的に効くのだった。

「エリナ、待ってて。すぐ治してあげる」

 ランはポーチから【絆創膏】を出すと、エリナの胸をはだけ、血を流している傷口に貼った。
 出血は、すぐに止まった。

「……良かった」

 ランはエリナに覆いかぶさって、優しくその身体を抱いた。
 すると、エリナが目を開いた。

「あれ? 私、何で寝てるの? あのー、私の上にいるのはどなたですか?」

 自分が刺されたことを憶えていないエリナを、ランはたまらなく愛おしく感じ、身体を押しつけてギュッと抱き締めた。