この夜は、眠れぬ人々が多かった。
王宮からおよそ百キロ離れた、山麓の農村。
星月夜の王都とは違い、こちらは、糠のような雨が降りつづいている。
その一軒の農家では、夜中になっても、八人家族の全員が起きていた。
「お母さん、見て。これ何だと思う?」
六歳の次女が、粘土で器用に作った人形を、母親に見せる。
「何だろうね。クマさんかい?」
「違うよ。クマさんは耳が丸いんだよ。これは三角でしょ?」
「じゃあ猫かい?」
「全然違う! 猫はこんなしっぽじゃないよ。しっぽが特徴だよ。見て」
「降参。教えて」
「この大きなしっぽは、タヌキさんでしたー」
ケラケラと笑う。ほかの子も、藁や竹や紙などで、熱心に工作している。普段は家の手伝いで一日中忙しく、夜は陽が沈めば寝てしまうので、夜中までずっと起きていて遊んでいいと言われたのは、どの子も生まれて初めてなのだった。
「爺ちゃん、見て。おいら、お城作ったよ。王様と王妃様と王太子様が住んでるんだ」
十二歳の長男も、この夜ばかりは、幼児に帰ったようにはしゃいだ。
「立派なお城じゃのう。わしも一度でいいから、王宮を見てみたかったものじゃ」
「爺ちゃん、行ったことないの?」
「ない、ない。わしが見たら、きっと立派すぎて、目が潰れてしまったかもな」
年寄りも、楽しそうに孫と話す。その様子を、泣き笑いのような顔で黙って見ていた一家の主(あるじ)が、
「さて、そろそろ、ろうそくが尽きてしまう。それが最後の一本なんだ」
八人家族の十六個の目が、短くなったろうそくの炎に向けられる。
「みんな、一息に飲んでくれ。それで楽になれる」
主人は、家族一人一人の前に、縁の欠けた茶碗を置いた。
その中に、ヤカンから液体を注(そそ)ぐ。どの茶碗にも、溢れるほどいっぱいに。
「子どもたちと爺ちゃん婆ちゃんが、中身をすっかり飲み干すのを見届けたら、俺と母さんも飲む。それで家族全員が、この地獄からおさらばできるんだ」
と言いながらも、目は真っ赤だった。
どれほど貧困に苦しみ、子どもらを食わせていく希望はなく、いくら考えても一家心中する以外に道は残されていなくても、死ぬのはやはり、最大限につらい決断だった。
「お父さん……味、まずくない?」
次男が訊いた。もしこの飲み物が美味しくなかったら、一気に飲めないかもしれない。一気に飲めなければ、ちゃんと死ねなくて、親に迷惑をかけるのではないかと、この子は九歳なりの頭で心配したのであった。
母親の、鼻をすする音が響いた。
「大丈夫よ。あなたたちの大好きな、リンゴジュースだから」
ありがとう、と六歳の次女が言うと、十歳の長女が急に泣き出した。毒入りジュースにありがとうと言った妹が、健気(けなげ)なような哀れなような、複雑な感情に襲われたのだ。
その幼い姉妹を、祖母が固く抱き締めた。
「……おいら、最初に飲んでいい?」
耐えきれなくなって、長男が茶碗を取った。
「いいか、見本を見せるからな。あとから真似しろよ」
口元に近づける。
青酸ソーダ入りのリンゴジュース。
飲めば呼吸困難となり、早ければ数分で死亡する。
(ためらうな。生きていたって、何もいいことはないんだ。死ねば楽になるし、父さん母さんも助かる。さあ、飲もう!)
自分に必死に言い聞かせる長男。
その口が、茶碗の縁に触れたときーー
「待つのじゃ!」
田舎の、鍵などない玄関の戸がいきなり開けられて、わっと驚いた長男の手から、茶碗が落ちた。
毒入りジュースが、床に敷いたゴザに広がっていく。
みな呆然として、深夜の闖入者の顔を見た。
まるでおとぎ話から抜け出てきたような、皺くちゃな老婆の顔を。
「間に合って良かった。あんたたちの会話は、わしの特殊能力の【地獄耳】で聞いた。一家心中など、やめたがいい」
主人は声もなく、その古代ふうの怪しげな紫色の布をまとった老婆を見ていたが、やがて、
(これは普通の人間ではない)
と結論づけて、質問した。
「……あなたは、誰ですか?」
「仙女じゃ」
正確には、職業「仙女」を選んだ転生者ということになるが、むろんそんなまだるっこしい説明はしない。
「仙女、ですか?」
「そうじゃ。噂くらいは聞いておろう?」
山の反対側の村に仙女が現れて、川の氾濫を予言したという話は農家の主人も聞いていたが、こうして実物を見るまでは、どうせキツネが化けたとかいう類いのホラ話の一つだと思っていた。
「仙女の言うことに間違いはない。この世は変わる。死ぬ必要もなくなる。奴隷は解放されるのじゃ」
主人は信じられなかった。
「奴隷を解放? そんなことをした国は、過去から現在に至るまで一つもありません。ましてやシェナ王国が……」
この三千年の歴史を持つ独裁国家の体制が変わるはずがないーー農民を含めたほとんどすべての国民が、心の深いところで諦めきっていることだった。
「信じられんか? しかし何がどう変わるか、あんたにはわからんじゃろう? わからないくせに、何も変わらんと勝手に決めつけて、四人の幼子から未来を奪ったらそれは殺人じゃ」
「殺人ですよ!」
まだ絶望の中にいた主人に、冷静な反応はできなかった。
「そっちこそ、決まってもないことを聞かせて喜ばせないで下さい。もういいから、楽にさせて下さい。望みはそれだけなんです。それとも奴隷には、死ぬ自由も権利もありませんか?」
ヒステリックに食ってかかる。
それに対して、
(もう少し辛抱したら、必ず幸せになれる。それを伝えて、これまで十を超える家族が、心中を思いとどまってくれた。だから、この心優しい一家も必ずや……)
老婆が説得する言葉を探しているあいだに、主人は茶碗を取り上げた。
「あっ、待て!」
老婆が叫んだが遅かった。
主人は一息に、毒入りジュースを呷(あお)ってしまったーー