グレイス二世はスパイを多数抱えていた。
彼らは、貴族や平民や奴隷などに扮し、それぞれの階層で、普通に社会生活を営んでいた。
国民の中に、王や王家の悪口を言う者がいるか、反体制の思想を持つ連中が集まったりしているか、外国に逃亡しようとしている者がいるか、また外国から侵入したスパイがいるかなど、さまざまなことに目を光らせて、情報を収集し、王に直接報告しに訪れるのである。
グレイス二世は、自分とスパイとのあいだに、役人を決して介入させなかった。側近中の側近である宰相もしかり。つまり彼は、側近よりもスパイを信用していた。それほど独裁者というものは、ある意味孤独なのだった。
(信用できるのは、スパイと軍人だけだ。あとの者には、常に疑いの目を向けていなければならぬ。そのくらい用心深くなければ、我が王国の独裁体制を、長く安定させることはできない)
その夜、晩餐も終わってさあ寝ようかというときに、一人のスパイが報告に訪れた。
スパイに対しては、二十四時間いつでも会うと伝えていた。重大な情報があれば、それを聞くのを何時間も遅らせたくはない。だから真夜中であろうと、翌朝まで待つことなく、一刻も早く告げに来いと。
そのスパイは、農民のあいだに紛れている者だった。
「妙な噂を聞きました」
王は寝室で、寝巻き姿のまま、ベッドにあぐらをかいた姿勢でスパイの話を聞いた。
「クーデターがあるというのです」
王の眉間に、深いしわが刻まれる。
「その噂の主は、仙女の老婆です」
「仙女?」
王の口から、不審げな声が洩れる。
「仙女とは、おとぎ話によく出てくる、あの仙女か?」
「はい」
片膝を床についた格好で、スパイが頷く。
「巷(ちまた)にはいろいろと怪しげな者がおります。錬金術師やまじない師や星を読む者など。彼らの多くはペテン師ですが、この仙女に関しては、確かに不思議な術を用いるようです」
「たとえば?」
王は興味を引かれて訊いた。
「はい。その老婆は、普段は山奥の洞窟に暮らしているそうですが、【地獄耳】という術を用いて、山の麓(ふもと)の農村での会話を聞いているようです。会話をピタリと言い当てられた、という証言が山ほどあります」
「それは、単に盗み聞きしたのではないのか?」
「見渡すかぎり田んぼで、隠れ場所のないところでした会話も聞かれたとか」
「まあ、それはよい。その老婆が、いったいどんな噂を流したのだ?」
スパイは声を低く抑えて言った。
「近頃仙女は、一家心中しようとしている農民の家を突然訪問し、死ぬ必要はない、もうすぐ世の中が変わって奴隷は解放されるから、と告げまわっているようなのです」
「もうすぐ世の中が変わる……」
王は腕組みをした。
「それはクーデターを意味しているのか? よくある救世主伝説の類いではないか?」
「いずれにしても、仙女の予言はよく当たります。彼女が晴れると言えば晴れるし、降ると言えば降る。土砂崩れや川の氾濫も前もって当てるので、農村では多くの人命が救われています」
「その老婆が、まもなく世の中が変わると言ったのだな?」
「そうです。そのためいくつかの農村では、近いうちにクーデターがあるようだという噂になり、それが私の耳に入ったのです」
スパイの話はここまでだった。
あくまでも田舎での噂。何の証拠もない。
噂の出どころは、怪しげな老婆。
その老婆の言葉を信じるか?
単に気安めを、自殺しようとしている農民に言っただけではないか?
しかし、天気や災害をピタリと言い当てるというのが本当なら、どうにも不気味だ。
クーデター。
ありえない話ではない。
「報告ご苦労であった。引き続き情報収集に努めよ」
と言ってスパイを下がらせたが、グレイス二世から眠りはすっかり奪われていた。
クーデター、クーデター……
王の脳裏には、一人の顔が浮かんでいた。
次男のレオ。
(もし、仮に、クーデター計画があったとする。その場合、誰が新体制のトップになるか。反体制派が担ぎ出すとしたら、王の血を引きながら王位継承から外れた者、すなわち第二王子……)
いや、まさか、あの虫も殺せぬような軟弱な息子がクーデターなど……と否定しようとしたが、逆に軟弱であるだけに、反体制派に近づかれて説得されたら強く断われないのではないかと、息子を疑う気持ちが大きくなっていった。
(そう言えば、あいつはいつからか、我々と同じ食事をしなくなった。世の中に飢えている人がたくさんいるのに、それを知りながら美食を食べたくはないと。フン。軟弱な思想だと思ったが、その思想を推し進めれば、奴隷解放につながる。どうもあいつは、生かしておいたら危険な気がしてきた)
グレイス二世はせっかちだった。ひとたび危険だと思うと、すぐにでも排除しなければ気が休まらない。衛兵に言って、今夜にでも暗殺させるかと、そんなことさえ頭をよぎった。
まさにその瞬間、寝室の扉がノックされた。
(スパイが戻ってきたか?)
と思ったが違った。衛兵隊長のコールマンが、「王妃殿下が参りました」と告げ、当のポーラ王妃が、目を潤ませて入ってきたのだ。
扉が閉まるなり、むしゃぶりついてくる王妃。
「待て。どうして女のほうから忍んできた?」
「だって、我慢できなかったのですもの。あなた最近、ちっとも来て下さらないから」
「今夜はよせ。そんなことより、重大な話がある」
王妃はすすり泣いた。勇気を振り絞った自分の行動を、そんなことの一言で切り捨てられたから。
「そうだ。お前と二人で話すより、コールマンも呼ぼう」
寝室の扉を開いて、
「コールマン、折り入って話がーー」
と言いかけた王は、ジェイコブ王太子がそこにいるのを見て驚いた。
「どうした、こんな深夜に?」
「えー、その、コーデリアが志願した毒見役との交代のことで、いろいろ心配になって眠れなくて……」
なんだ、下らない。そう思った王は、長男の話を遮って、衛兵隊長と長男に言った。
「二人とも中に入ってくれ。重大な相談がしたいのだ」