エリナを連れて、深夜に自分の部屋に帰ったあと、コーデリアはしばらく茫然自失していた。

 ランの部屋での、レオ第二王子との会話が頭の中をぐるぐると回る。

「もしかして、私が、陛下と殿下を暗殺するのですか?」

 向こうの世界の薬には大変な力があると聞かされたコーデリアが、血の気の引く思いで訊くと、

「いいえ。まさか女性に、そんなことはさせませんよ」

 レオ第二王子は、ランから受け取った【睡眠薬】を、コーデリアの手に握らせて言った。

「【胃薬】と間違えないで下さいね。こっちが【睡眠薬】。このほんの小さな錠剤一つをこちらの世界の人間が服むと、百年間は眠ります。ちょうど白魔法の【スリープ】をかけられたときのように、生命は維持したまま細胞の活動が超スローになるのです」

 転生者の老婆から聞いた知識の受け売りを、恋する人に得意げに話す。

「細胞の活動が超低速になると、呼吸だけで生命を維持する【ブレサリー】という状態になります。実際、ヨガの達人の中には、過酷な訓練によって【ブレサリー】の術を身につけて、七十年間も呼吸だけで生きた人がいるそうです。まあ、それはともかく、百年後に再び父と兄が目覚めたときには、シェナ王国は独裁国家ではなくなっているでしょう。それは僕が保証します」

 そんな大事な役を私などに、とコーデリアが固辞しても、

「いいえ、僕は決めました。あなたが明日の毒見役になったことに、僕は運命というか、何か大きな天の意志のようなものを感じるのです。僕のクーデター計画、ランの転生、兄の毒見役への執着、あなたの手紙などすべてが、明日の朝食という一点に集約されたことーーそう。あなたこそ、邪悪な王と王太子を百年眠らせるべく選ばれた女性です。大丈夫、僕を信じて下さい。決して危険な目には遭わせません。何が起きても、必ずあなたを護ります!」

 そのあと何を話したかは憶えていない。
 ぼんやりと時計の針を見る。午前零時十分。

「エリナ」

 今夜は眠れそうもない、と思ったコーデリアは、女官の少女の手を握り、

「お願い。薬を入れる練習を手伝って」

 するとエリナはにっこり笑い、

「はい、奥さん」

 と言った。
 コーデリアは嫌な顔をした。

「奥さんはやめて。婚約破棄されたんだから」

 エリナはますます笑顔になる。この勘の鋭い女官は、コーデリアに対して、「未来の王様の奥さん」という意味で言ったのだ。

「奥さんは奥さんです。ねえ、奥さん。シェナ王国は、どんなふうに変わるでしょうね?」

 エリナの楽天的な口調に、コーデリアはやや苛立った調子で、

「今はそれどころじゃないわ。明日のことで頭がいっぱい」
「第二王子様が僕を信じろっておっしゃったじゃないですか。悪いことを考える必要はないですよ」
「私は自分を信じられないの! あんなサディストを、いい人だと信じたくらいドジなんだから」

 そして、レオ王子様の気持ちに気づかないくらいドジだわーーとエリナは、女主人を愛おしい思いで見つめた。

「奥さん、レオ王子様は、どんな改革をなさるでしょうか?」

 コーデリアは苛立ちながらも、

「それはきっと、農民の税を軽くなさるでしょうね」

 と答えた。エリナは手を叩いた。

「素晴らしいです! 農民たちは、涙を流して喜びますよ!」

 エリナの目が潤んだ。それを見て、コーデリアの目頭も熱くなった。

「そうね。餓死の心配がなくなったら、飛び上がって喜ぶでしょうね」

 言ったとたん、コーデリアの目から涙が溢れた。
 エリナが涙声で言った。

「奥さん、優しいですね。農民のことを思って泣いて……」
「あなたも泣いてるじゃない……」
「もらい泣きですよ。それとも嬉し泣きかな……」
「どうして私たち、こんなに泣くんでしょう……」

 深夜はおかしいテンションになるものだ。しかも今夜は特別。二人にとって、生涯でもっとも長い夜になった。

「……エリナ、そろそろ練習してもいい?」
「はい、奥さん」

 エリナがテーブルに皿を用意した。
 右手に【睡眠薬】の錠剤を隠し持つコーデリア。
 その手をゆっくりと皿のほうにーー

「あっ!」

 錠剤は、皿の遙か手前で落ちた。

「もう一度!」

 今度は、手汗で錠剤が溶けかけて、手のひらに貼りついてしまった。

「もう一度!」

 今度は震える手が皿に当たって皿をひっくり返し、錠剤も勢いよく宙を飛んだ。

「だめだ! 絶対に無理っ!」

 コーデリアはテーブルに突っ伏して泣いた。悲しすぎる涙であった。

「誰でもできるだなんて大嘘よっ! 手汗はひどいし手はぶるぶる震えるし……私が死ぬほど不器用なのを殿下は知りもしないで勝手に決めたのよ。百パーセント確実に失敗するわ!」
「奥さん、信じて。奥さんは選ばれた人よ」
「無理無理無理無理無理無理!!」

 パニックで呼吸困難になる。エリナもさすがにこれは無理だと考え直し、

「仕方ないですね。料理長にお願いしましょうか」

 と提案した。
 えっと驚いて、エリナをまじまじと見つめるコーデリア。

「料理長にお願い? だって、コチコチの勤王家なのでしょう?」
「つい最近までは」

 エリナは、はっきりとした確信を持って言った。

「でももう、王家への崇敬の念はないですね。目を見ればわかります」
「それは、単なるあなたの勘でしょう?」
「勘ですよ」

 エリナにとって、それこそが何よりの証拠なのであった。

「そして彼は、奥さんの大ファンです。だから奥さんが、料理にこれを入れてって【睡眠薬】を渡したらーー」
「いけないわ。殿下に黙ってそんなことをしたら」

 コーデリアが首を振ると、

「じゃあ予定どおり、奥さんがします?」

 エリナは非情に言い放った。
 コーデリアはにっちもさっちもいかなくなった。
 
「……私、どうしたらいいかわからない。あなたはどう思う?」
「レオ王子様に相談しても、今さら作戦は変更しないと思います。だから私が料理長のところに行って、奥さんの命が懸かってるって言ってきます。そうしたら、絶対に協力しますよ」
「そこまで言うなら……任せるわ」
「任せて下さい」

 エリナはコーデリアの部屋を出て、料理人たちが寝泊まりする地下へと降りていった。
 そしてこれが、最悪の失敗であった。