場面は戻る。
ジェイコブ王太子に誘われたコーデリアは、亡霊のような足取りで、二階の自室から一階の撞球室へ。
言われるまま、機械的にナインボールをする。その二ゲーム目の途中、
「ランという毒見役の女がいる」
キューを握って撞球台に身を乗り出した王太子が、自ら切り出した。
「……はい?」
彼女は知らない顔をして聞き返した。しかし心臓は、激しく鳴っていた。
王太子が冷たい目を彼女に向ける。
「珍しく、まだ父が手をつけていなかった。ほんの数日前に選ばれたばかりだからだ」
ここで王太子は、奇妙な嘘をついた。
ランが選ばれたのはこの日の昼であって、数日前などではない。
このサディストの王太子は、自分が十四歳の少女に一目惚れしたことに動揺していた。
それを認めるのが恥ずかしいーーという気持ちがあったため、ランは数日前から後宮にいたが、たまたま王がまだ夜這いに来ていないことを知ったため、興味を持った。というストーリーを作ったのである。
どうでもよい自意識であった。
ランが今日選ばれたことは、コーデリアはエリナから聞いて知っていた。事実、今日の昼までは、前任者が毒見役を務め、その場にコーデリアもいたのである。見え透いた嘘を平気でつく。それもまた、王太子の特徴であった。
王太子は続けた。
「俺は前から願っていた。父が手をつけていない毒見役の女を自分のものにしたいと。その最大のチャンスが訪れた。あれを正式に俺の妻にしたら、もはや父も手は出せまい」
「ちょ、ちょっと、待って下さい、殿下……」
鼓動が速くなりすぎて、切れ切れにしか声を出せなかった。
「どういうことでしょう。私はーー」
「婚約破棄だ」
王太子の目がギラついた。
「俺は独裁国家の王太子だ。文句は言わせない。何ならお前は突然死したことにしてもいいんだぞ」
「教えて下さい、理由を!」
「飽きた。お前の濃い顔に。もうゲップが出たよ」
この瞬間、コーデリアの中で何かが切れた。
(私の濃い顔に……ゲップ?)
クソ野郎め。
人を馬鹿にしやがって。
王太子妃の座? フン。そんなものクソ食らえだ。
あんたみたいなクズ野郎には、いつか絶対復讐して、ざまぁ見ろって言ってやっからな!
と、心の中で吠えたものの、
「どうか命だけは」
口ではそう懇願するしかない立場だった。
王太子は唇だけで笑った。
「命だけはか。さあて、こういう場合父ならどうするか。自分に恨みを持つ者を、果たして呑気に生かしておくような甘い真似をするかな?」
「恨みません! どうぞ私に落ち度があったとして、婚約破棄なさって下さい! 家に帰って一生おとなしくしていますから!」
「お前が一生約束を守ると、どうしてわかる? やはり殺してしまったほうが気苦労がない」
「お願いです! お願いです!」
コーデリアは土下座をした。王太子は非情にも、彼女の頭をキューで突いた。
「やめろ。お前の運命は決まったんだ。決まってないのは死に方だけだ。ピストル、ナイフ、ロープ、どれがいい?」
返事をせず、ひたすら床に額をこすりつけるコーデリア。
すると王太子は突然、
「そうだ。毒見役の女を妻にするんだから、お前が毒見役になればいい!」
と、まるでたった今思いついたかのように叫んだ。
「そうだそうだ。これぞナイスアイディア。まさに万事が丸く収まる」
芝居である。見え透いた嘘に、次から次へと嘘を重ねる。
「毒見役といっても、暗殺計画がなければ何の危険もない。俺たちと同じ物を食える特別な身分だ。たいてい数年で交代するが、父に気に入られたら、二十年くらい愛人でいられるかもしれないぞ。よし、そうしろ。これは命令だ。父には俺から話しておく。ただし、あくまでもお前が志願したことにするんだ。不満ならいつでも殺すからな」
毒見役の少女の予言どおりになった。
近いうちに、「お前を毒見役と交代する」と王太子に告げられるだろうと。
無念だが、拒否する選択はなかった。
この提案を呑むしかない。
でなければ、ブラウン家一族全員が殺される。
そして、コーデリアにはわかっていた。
このクソったれの王太子は、毒見役をする一度目の機会で、必ずや彼女を毒殺しようとすることを……
「そうと決まれば早いほうがいい。明日の朝食から、お前が毒見をしろ」
むちゃくちゃな話である。
だが現実だ。
うら若きコーデリアの命は、翌日の朝食までと決まった。
(こいつはきっと、できるだけ苦しんで死ぬ毒物を選ぶだろう。そういう男だ。だったらいっそのこと、この場で舌を噛み切って死んだほうがマシ……)
本気で死にたい、と彼女は思った。
しかし、そう思った次の瞬間、
(何で私が、こんなクソ野郎のために死ななきゃならないの?)
馬鹿らしいにもほどがある、という思いが突き上げてきた。
(ランのところに行こう。私を救けると言ったんだ。残された道はそれしかない)
コーデリアは、女官のエリナから教えられたとおりに言った。
「承知いたしました、殿下。それでは毒見役の心得を、ランさんから習っておきます」
それを聞いたとき、王太子はこう思った。
(どうやら観念したな。でもお前が毒見をするのはたった一回だ。それで死ね)
彼女がフグ毒で苦しみ抜いて死ぬ場面を想像して、込み上げる笑いを噛み殺しながら、「好きにしろ」とサディストの王太子は言った。
コーデリアは一礼すると、撞球室を出て後宮に向かった。
入口のところで声をかけ、エリナを呼んでもらい、ランにあてがわれた部屋に案内させた。
このときエリナの心では、快哉の叫びが上がった。
(やった! 奥さんがランを信用してくれた!)
エリナはドアをノックすると、弾んだ声で言った。
「ラン、お客様よ。奥さんをお連れしたわ。どうか約束どおり救けてあげてね」