場面はコーデリア・ブラウンの部屋に戻る。

 婚約四日目の午後、女官のエリナに、

「旦那さんがランに奥さんと婚約破棄して、お前を娶るって言ったんだよ」

 と教えられ、

「第二王子に鞍替えしたら?」

 と唆(そそのか)され、

「ランは後宮一の美貌の、毒見役の十四歳の少女ですよ」

 と余計な知識を吹き込まれて、

(きっと毒見役のランは、その解毒の術の秘法によって、全身を毒に冒されているだろう。ひょっとすると身体全体が毒になっているかもしれない。そんな少女とキスでもしたら、たちまち相手の男は毒がまわって死ぬのではないか? いっそのこと王太子もそうなればいい)

 美貌で負けたかもしれないという嫉妬に苦しんで、コーデリアがそんなことを願った場面の続きだ。

「奥さん」

 エリナが言った。

「ランはいい子ですよ。会ったら、絶対に奥さんも好きになります」

 絶対にそうならないと、コーデリアは確信を持って言えた。

「私、勘は鋭いんです。あの子は信用できる。どうか奥さんも信じて下さい」

 その「奥さん」の地位は、その小娘のものになるかもしれないのだ。信じるもへったくれもなかった。

「ランから言付けがあります。きっと近いうちに、『お前を毒見役と交代する』って旦那さんに言われるよって」

 もしコーデリアがペンを持っていたら、怒りで真っ二つにへし折っていただろう。

(どういうつもり? もう自分が婚約者になった気分でいるの?)

 まるで目の前に毒見役の少女がいるかのように、両の瞳に炎をたぎらせた。

「それで、もしそう言われたら、『では毒見役の心得を教わってきます』と旦那さんに言って、私を訪ねてくるようにって。そうしたら、奥さんを救けてあげられるからって」
「救けるですって?」

 コーデリアの喉から出たのは、その美貌に似つかわしくないヒステリックな金切り声だった。

「私は奴隷に救けてもらう身分じゃない! もしそんなことになったら、舌を噛み切って死んでやる!」

 あまりの剣幕に硬直して黙り込んだエリナに、

「出てけっ! お前は奴隷と仲良くしていろっ!」

 怒号を発し、部屋から追い出した。

 コーデリアは一人になった。
 彼女のことを好いてくれ、自分も味方にしたいと思っていたエリナに、恐怖で顔が歪むほどの暴言を浴びせてしまった。
 
 ベッドに倒れ込み、枕に顔をうずめる。

(お父さん、お母さん、救けて……)

 その心の悲鳴が、遠い実家に届くはずもなかった。
 いくら名門ブラウン家であっても、王室に文句をつけることは許されない。
 仮に愛する娘が毒見役にされ、奴隷と同じ扱いを受けても、それが王、あるいは王太子の方針であれば、意義を申し立てることなど不可能なのだ。

 文句、意義は、死を意味する。しかも下手をすれば、国家反逆罪に問われ、一族すべてが虐殺されかねなかった。

(逃げられない。衛兵に見つからずに王宮から逃げるのも無理だし、もし奇跡的に逃げられたとしても、その罰としてブラウン家全員が処刑されてしまう。私に逃げ道はない。もちろん毒見役の小娘にも、私を救うことなどできやしないだろう。残された道は王太子様の愛を取り戻すだけ……王太子、様? 様? うっ!)

 心の中でさえ、ジェイコブ王太子に「様」をつけると拒絶反応が起こり、胃液が逆流しそうになった。

(救けて……)

 このとき、枕に押しつけていた彼女のまぶたの裏には、レオ第二王子の顔が浮かんでいた。
 王室で、唯一尊敬できる人物の顔が。

『第二王子に鞍替えしたら?』

 エリナの声が頭に響く。

(あの方に打ち明けたら、何とかしてくれないだろうか?)

 それははかない希望だった。
 第二王子の立場で何ができるだろう。
 シェナ王国の王室は長子相続だ。長男がすべてを得て、次男以下にはいかなる権力も渡らない。
 第二王子が意見したところで、王太子に聞く気がなければどうにもならないのだ。

(レオ第二王子様に泣きつこうだなんて、虫のいいことを考えちゃだめ。殿下は私なんかが近づけない崇高な方。農民の窮状に心を痛めるような、王侯貴族には珍しい心の美しい方ですもの……)

 それに引き換え自分は、奴隷と仲良くしてろなんて怒鳴ったりしてーーとコーデリアは、自己嫌悪に苦しんで枕を濡らした。

 やがて夕刻になり、エリナがしょげた顔で晩餐の時間ですと告げに来た。

「気分がすぐれないから行かないわ。みんなにそう言って謝っておいて」

 気分がすぐれないのは事実だったが、食堂に行きたくないいちばんの理由は、新しい毒見役になったランの顔を見たくないからであった。

「……はい」

 エリナはドアを閉めようとした。すると、

「待って」

 コーデリアが呼び止めた。

「さっきはごめんなさい。悪かったわ。まだ十四歳のあなたに、大人げなく怒鳴ったりして」
「いえ……」

 エリナは首を振った。
 主人はコーデリアである。自分が怒鳴られることは少しも気にならない。
 しかし、ランを誤解させたことは気が重かった。

 ランの正体は、反体制派の女スパイ。本当は毒見の一族ではないし、エリナの女主人から王太子妃の座を奪おうなどとは夢にも思っていない。
 しかもそのボスはレオ第二王子。すなわち反体制派のリーダーは、第二王子なのだ。

 その事実は、口が裂けても言うことができない。が、言えないことによって、コーデリアにランのことを信用させられないという、もどかしいジレンマに陥ってしまった。

(奥さんには、ランを頼ってほしい。それしか奥さんの救かる道はない。でもその根拠は言えない……ああ、もどかしいっ!)

 エリナがしおれていると、コーデリアは近づいて肩に手を置いた。

「ランには申し訳なく思っているわ。毒見役も立派な仕事なのに、奴隷なんて罵ったりして。だからさっき言ったことは忘れてね」

 エリナの目に熱いものが込み上げた。なんて優しい奥さん……どうか奥さんが、救かりますように!

 目をそっと拭って帰るエリナ。
 再びベッドに横になるコーデリア。
 その二時間後、いきなり部屋のドアが開いた。

「朝まで寝てる気か?」

 ジェイコブ王太子だった。

「そろそろ起きろ。俺は退屈なんだ。撞球でもしよう」

 そう言った王太子の目は、まるで底なし沼を覗くように真っ暗だった。