塾の授業がひととおり終わり、逃げるように教室から出て、穏やかな灯りがついた古びた料亭を見る。店の室外機の横に設置された自動販売機がある。
コインを入れて、エナジードリンク缶を買ってみた。
それを自習室に持ち込んだ。
自習室といっても、塾の出入り口にある一番狭い教室を使っただけの簡易な机と椅子が複数あるだけの部屋だ。
それをヤケ酒を飲むお父さんみたいに一気飲みした。
「こーら、そんなもんばっか飲んじゃ身体に悪いぞ」
聞いたことがある声に立ち上がった。自習室の扉の向こうに、あの銀髪の大学生の男の姿があった。びっくりした。
「な、何見てんのよ」
「見えたんだよ。女子高生らしからぬものを買っているのがね」
「おじさんが塾に入ってきてもらわないでくれますか」
「お腹をすかせた、いたいけな受験生への出前くらいい許されるだろ」
黒い木目調のトレイに、あのときと同じ湯気立つお椀を乗せていた。
まさかまた来てくれるなんて。胸がきゅ、となったが、ぐっと堪えた。
「それに、一応学生の身分だしまだおじさんじゃねぇよ。ていうか生意気聞くぐらい回復したんだな、良かったよ」
「そっか、大学生だったね。じゃあ、この問題解いてよ。解説読んでもイミフなんだ」
「や、無茶ぶりすぎるだろ……。大学生だからって大した奴だと思ってくれたら大間違いだ」
男は、私の前の席の椅子に座って、背もたれに寄りかかった。大人びているけれど、学生同士と肌で感じるゆるさ。三角巾を外すと銀色の癖のある髪がぴょん、と姿を現す。なんだか、動物みたい。
器の中身はやはりにゅうめんだった。具材は変わっていたが、卵でとじられていた。ふわふわの黄色い卵をれんげに載せて口に含む。あったかい味だ。
男は私の話を何でも献身的に聞いてくれた。
口を閉じたら店に帰ってしまう気がして、上品ではないが、彼を繋ぎ止めるために食べながら自分の話をし続けた。
「親は構ってくれないし、友達は遊んでくれないし、先生たちは私を数字を上げる道具としてしか見てくれないの」
「ははっ文句たらたらだな」
麺をすすっていると、普段喉につっかかってる本音がボロボロと出てきた。
「じゃあ、名付けてやる。今日から君の名前は"クレナイ"だ」
「はっ何それ~。そういえば、名乗ってなかったねお互い」
「クレナイ、クレナイって文句ばっかりだからな」
やがて男は自分のことを「サナギ」と名乗った。
冬は苦手で布団にくるまってなかなか起きれない体質だかららしい。可愛い由来だ。
「サナギ」。私はその響きをとても気に入った。
男改め、サナギが引き上げたあとも引き続き自習室で勉強していた。すると戸が開き、
漆原くんが端の席に座った。
「柊木さん、さっきこの部屋の横通ったとき、うどんみたいな匂いがしたんだけど、知らない?」
耳を疑った。でも自習室には彼の他に私しかいなかった。なんと、初めて話しかけられた。
「あとなんか部外者がいたような気がするんだけど」
「き、気のせいじゃない?」
応えてすぐ黙り込んで塾のテキストをめくった。彼もそれ以上何かを言うつもりはないみたいで復習作業に取りかかったようだ。
部外者、という言葉が胸にぐさ、と突き刺さった。なんだか気まずかった。
それから、サナギは毎日自習室に顔を出し、あったかいにゅうめんをくれて、食べ終わるまで私の話をいつまでも聞いてくれた。
そんな感じで、家に帰ると時刻は毎晩二十二時をまわっていた。
「自習捗ってるのね」。お母さんの書き置きと共に、冷めたご飯がラップで閉じられた状態でテーブルの中央に置いてあった。
リビングには既に来年のカレンダーが掛かっていた。一月の某日にしっかり赤ペンで丸がされていた。
一般入試まで数週間を切っていた。


