当時の私は、放課後、週に数回塾に通っていた。
それは駅前の繁華街の脇道にあった。
そこはどう考えても勉強に集中できなさそうな賑やかな場所だけど、お母さん曰く、どうも月謝が安いらしかった。
昨日の今日でまっすぐ家に帰る気を失くし、とりあえず塾の自習室に向かうことにした。
「十二月かぁ……」
塾までの繁華街の道のりをぶらぶら歩いていると、
頭上にはイルミネーションが張り巡らされていて、スピーカーからは陽気なクリスマスソングが流れていた。
凍てつくような夜風。キャッチのお兄さん。すれ違う、華やかな服装の大人達。どの人も十二月という季節に浮足立っているようだった。
それはまるで、幸せじゃない中途半端な私の居場所はここじゃない、って囁かれた心地だった。
いつか、他の人たちみたいに、幸せな気持ちで、ここを歩ける日なんて本当に来るのかな。
「私に何が足りなかったんだろ……」
大学生になったら、その足りないものは埋まるの?
あと数か月我慢したら、それで手に入るの?
それでも、私には遠い。
今。今なの。
誰かにいてほしい。
大学生になってからじゃダメ。今、足りない何かが欲しい。
じゃないと、きっと間に合わなくなる。受験にも、高校卒業にも。
艶やかな商店街を出て、看板の光る細い路地で私は歩みを止めた。
どうやらその年の初雪が降っていたようだった。髪や肩がどんどん濡れていく。
構わなかった。どんなに冷たくても。このまま凍り付いても。
「わ、君ちょっと大丈夫?」
キッ、と自転車が私の横に止まった。
カッパを羽織った男が跨がっていた。
フードから覗く髪が銀に光って、雪解けの水滴がキラキラしていた。
デニム調のエプロンを腰に巻いている。
自転車の後部座席には大きな鉄箱を乗せていた。
「だ、だいじょうぶです」
「いやいや、君、涙垂れてるよ」
──泣いてる?私が?
「えっと…」
言葉を発しようとすると、嗚咽が止まらなくなった。確かに私は泣いていたようだった。男は何も言わず、泣き止むのを待ってそこにいてくれた。
腰のエプロンには、そこには"麺専門店後藤屋"という達筆のワンポイントが刻まれていた。
「もし、良かったらなんだけど、コレ食べない?」
跨ったままの自転車の後部座席にある、鉄箱をコンコンと手の甲で叩いた。
「予約もらって届けに行ったのに、キャンセルされちゃったんだ。もうだいぶ冷めちゃってるし、このまま帰っても排水溝に流すだけになりそう」
「いいです、そんな…」
伏せていた顔を上げると、白銀の髪から覗く目元が純粋無垢そうにみえた。
「泣いてる子が遠慮するんじゃないの。サービス、サービス」
くしゃ、と私の頭に手に置いて、髪についた雪を払った。
そのとき、私はこの人に、すれ違う大人達と違う何かを感じた。
「は~、しかし急に寒くなったよな」と白い息を吐いて、自転車を降りてついて歩き出した。
──この人もきっと、寂しいんだ
瞬時にそう思った私は、その後を続いた。
少し歩いて見つけた、街灯の下に忘れられてたように存在した頼りないベンチ。男は自転車を脇に停めると、うっすら積もっていた雪をささっとどかして、レインコートのフードを取ると、頭に巻いていた三角巾をサッと外して敷いた。そこに腰掛けるよう促した。
鉄箱から取り出したものは、ホカホカと湯気があがる陶器のどんぶりだった。ご丁寧にレンゲまでつけてあった。手馴れた所作は、"麺専門店後藤屋"のプロの従業員であることを感じさせた。
「あったかい……」
しばらくその陶器の温度を感じていた。
「このうどん、麺細くない?」
「それにゅうめんって言うんだ。冬に食べる素麺だよ。女性や子どもでも食べやすいだろ、ウチの人気商品なんだ」
「へぇ……」
湯気立つお椀。素麺がふわりとした卵にとじられていて、ネギやごまが散らされている。 店名が入ったお椀に手を添え、レンゲでスープを掬う。
「ぅんまぁ……!」
それは想像を絶する美味しさだった。箸が止まらず、あったかい素麺をつるつる食べて、スープもごくりと飲み干した。よほど一瞬だったのか、男は腹を抱えて笑い出した。
「よかったぁ。このまま捨てられちゃう可哀想な食事が、君が食べてくれたおかげで幸せな最後を迎えることができた。その制服、高校生?何年生?」
指を三にして示した。
「一緒じゃん。俺も三年生。ただし大学の、だけど。なんだよ、一番楽しいときじゃん」
「学校と塾の往復でなんにも楽しくないよ」
財布を出そうとすると、僕が君に食べて欲しかっただけだからいいよ、と制された。男は雪解け水で濡れた銀色の髪をかきあげると、私のお尻に敷いた三角巾を回収して、出前の自転車のサドルに跨った。ぐるりと方向を変えるとペダルに足をかけた。
「じゃ、」
その背中に、なんだか去って欲しくなかった。
なんとか呼び止めたくて、私は気が付けば叫んでいた。
「あの!」
「ん?」
「あっ……あとで、身体で払って、とか言わないでよね!」
ふは、と吹き出すと、「なんつーこと言うんだよ。奢りに決まってるだろ」
と言い、自転車ごとよろつきかけた。私はさらに言葉を重ねた。
「転ばないようにね、あと、滑らないように気をつけて」
「それ受験生が言うセリフじゃないだろ」
私を振り向いて、にかっと笑ったその顔が頭に焼き付いて離れなかった。
どんどん遠くなって小さくなっていく男の姿。夜風でレインコートがはだけ、腰元のエプロンがヒラヒラしていた。
大人びた大学生だけど、その無邪気な笑い顔はなんだか幼かった。胸がズキズキした。はやる心が、私の足を動かした。私は駆け出していた。どんどん消えていく男を追いかけた。
すると、なぜか知っている道順ばかりを辿り、よく知っている場所に出た。そこは私が通っている路地裏の塾だ。
男はそこを素通りして、向かいにあった古びた看板の料亭の脇に自転車を停めると、横開きの木の扉を開けて男は入っていった。
「あの!!」
声をかけると、びっくりしたように、こちらを振り返った。
「え、着いてきてたの?お代はいらないって」
「私、この塾に通ってるの」
「え、なんだよ、ご近所さんだったのかぁ」
鉄箱を抱えて、そしてこう言った。
「……じゃ、またな!」
その言葉に、胸の高鳴りが止まらなくなった。
雪が降る、十二月の繁華街。スピーカーから流れる陽気なクリスマスソングと、定時の急行電車が走り出す発車音。
始まる、そんな予感がした。