「あなた名前は?」
くるっと向かい合った。女はキリッとした眉で、背が高かった。トイレはホテルのロビーみたいな綺麗さと広さで、重厚感と女の威圧感に飲まれそうになる。でも負けじと即答した。
「クレナイ」
名を告げると、女は愕然とした表情に変わり頭を抱えた。しばらくして髪を掻くと、化粧台の前の椅子へと私を引っ張った。

「クレナイちゃん。酷い化粧ね」
女は頭をわし摑みにすると、自らの小さい鞄から取り出した化粧水のスプレーを断りもなく私の顔面に拭きかけた。むせそうになる私などおかまいなしに、サナギの指の跡を、全てコットンで拭い取った。女の憤慨っぷりが指使いで伝わった。
「ん」と女が言うので鏡に映る自分をじっくり見ると、私の顔は小綺麗な女性に変貌していた。
「化粧禿げすぎ。あとチーク濃ゆすぎ!自然に色づくぐらいが丁度いいんだから」
「えっこれ私」
女の手際に良さに感心して、顔をぺたぺた触った。女が後ろの壁にもたれて、胸の下でだるそうに腕を組んでいるのが鏡に映る。
「呆れた、凪ってば本当手が早い男。あなたはどこで拾われたの?」
「駅前で……」
「げぇ、嘘でしょ」
女は真実を告げた。

「凪は、大学を一年近く無断休学してたの。なんでか分かる?」
「え……?」
「子持ちなの。大学二年生のときに彼女を妊娠させて。責任を取る形で結婚したの」

──その娘が、一歳の誕生日を迎える直前に亡くなっちゃったんだ。
彼女とも離婚して、生きがいをなくしてしまって、三年生を最後に連絡も絶ってしまってね。
あの憔悴っぷり、ストレスで髪の色が抜けてしまって、見てられなかった……。──

女はそんな風にサナギの話をしてくれた。
なんで、こんな形で知ることになってしまったんだろうか。
なんでここに座っているのが私なんだろう。誰か他の人の物語だったらよかったのに。そう願ったけれど、紛れもなく私は関わってしまった一人、だった。

「クレナイちゃん。あなたは何なの?凪の何?」
そう問い正されるとゾッとした。
弟の漆原くんと同級生で、サナギから見ると向かいの塾で過ごすただの”ご近所さん”だ。

本当の話らしかった。隣町の霊園にきちんと墓もあるらしい。
女は昔話をし続けたが、やがて言葉を詰まらせたので私たちはトイレを出た。元の場所に、サナギはいなかった。



帰りは一人で電車に揺られて帰った。地下街のあるいつもの駅の、イルミネーションの木。
黒いコード線が巻き付いた木は息苦しそうだけど、その正体が分かった。
手に白い息を吹きかけた。


『──あの人、娘の紅花(べにか)ちゃんのこと、クレナイちゃんって呼んでたのよ。
真っ赤の顔をして可愛くって、そう呼んでたんだって』


私はなんだったんだろう。こんな気持ちは初めてだった。
雨が降って来た。やがて雪になり、みぞれになり、
凍った。


  *

あれから年が明けても、共通テストが終わる頃になっても、頭のくらくらが治らなかった。
カチャカチャと台所で音が聞こえたので覗くと、母が三人分の食べ終えた夕食の洗い物をしている。
「食器洗うよ」
「えっ、そんな、いいわよ。明日第一志望の大学の入試でしょ」
「どうせ家事手伝うことなんか、家出たらなくなるんだから、やらせてよ!」
母をどかして食器と洗剤のついたスポンジをぶんどる。傷ついた表情の母を無視してお湯で磨き始めた。何か考えるときは手を動かしてたほうがいいと聞く。

あの日を最後に、サナギはにゅうめんを持ってこなくなった。麺専門店ののれんを覗いてもその姿はなかった。

女の人が語った言葉が、何日経っても胸に突き刺さる。
食器を洗い終えてお湯で手を洗う。サナギと絡めた指の感触だってまだ残ってる。
娘の代わり?
そんなことは、あって欲しくなかった。