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「まゆ、どこ行くの」
「塾の模試。急にやること決まって」
モーニングコーヒーを飲んでパソコンでデータ整理をする母に問われた。「こんな時期に?」そんな声が聞こえたので、怪しまれる前に適当な私服を選んで大きな紙袋を抱えてそそくさと出発した。出先の公衆トイレで大きな紙袋から取り出した黒地の花柄ワンピースに着替えた。ポーチごと昨日買った化粧品セットもふんだんに使った。ファンデーションやマスカラ、チークにアイブロウ。動画サイトで夜叩き込んだ知識を自分の顔に重ねていく。変わっていく顔立ち。仕上げに口紅を唇に塗り込む。クレナイの完成だ。
サナギは当然ながら私服だった。黒いダウンジャケットにチャコールのリブニット。細身のテーパードパンツがスラリとした体型によく似合っている。お互い制服以外の姿を見せるのは初めてだった。
「お化粧、似合う?」
サナギは銀色の毛先を揺らして笑った。
「似合うよ」
電車に乗り込んで数駅。確かにその大学ではオープンキャンバスを開催していた。だけれども、来場者は控えめな人数しかいなかった。十二月の末なので、滑り止め出願を狙っての開催だそうだ。そこには実行委員らしき人がいるが、どれも学部の説明も講堂ではなく、ブースでの個別対応だ。
キャンバスを散歩した。
「大学って広いんだねぇ」
「学部ごとに建物が違うからな。ここで色んな将来が思い描けるんだ。」
あちこちに出来た水溜まりは、どれも青空と枯れ木を映していた。
私は黒い花柄のワンピースを翻し、ブーツで踊ってみせた。
サナギはしゃんとした姿勢で、ははっと笑った。見下ろすその目が優しい。私もちゃんとクレナイで居ようとおどけて歩いた。
噴水庭園に、芝生広場。キッチンカー。五、六階まである図書館。学内マップをもらって、散策した。チェーン店のカフェも入っている。どこまで続くのか分からないエスカレーターに乗って、お洒落な服を着た大学生達が小さくなるのを見ていた。パソコンの画面を複数人で覗き込んだり、プロジェクターに投影した資料を発表したり。
「こんなところで生活していたら毎日がデートみたい!高校と大違いだね」
私たちは、お互いの姿をスマホで撮り合った。
庭園に立つモニュメントとじゃれたり、芝生に寝そべってみたり、レトロな図書館で隠れんぼうをしたり。遊園地に来たみたいに、はしゃいで遊んだ。
「サナギも、大学の友達とこうやって遊んだ?」
「いやいや、毎日通ってるんだからすぐ慣れちゃったよ」
「えー!もったいない」
学内に飲食店は他にもあったけれど、結局、一番大きい学生食堂で、うどんを注文した。
「麺専門店後藤屋の、にゅうめんのほうがうまいや」
「まぁな。値段が倍違うからな……こうやって見ると、いい大学だなぁ。入学してからの思い出いっぱいあるもん。クレナイのおかげで色々思い出せたよ」
授業でよく使う講堂、友達と馬鹿みたいに騒いだお気に入りのトイレ、初めて付き合った彼女と歩いた学内を繋ぐ歩道橋なんかも懐かしんで紹介してくれた。
「ここ、俺の学部棟」文学部事務局と書かれていた。
しん、としていて冷ややかで静かな場所だった。
建物内のベンチに二人で腰を下ろす。
「クレナイ、その化粧ポーチ貸して」
サナギは口紅を取り出した。「じっとしててな」と言い、私の唇に丁寧に塗り込んだ。
顔が近くて恥ずかしくなった。
「うん。可愛い」
愛おしそうな目でそう呟いたので、私は固まってしまった。しばらくその体勢のまま見つめ合う。やがて男が吹き出してしまい、先に立ち上がった。その手を慌てて摑むと、サナギは指を絡めてきた。「あっ!」思わず声が漏れ、歓喜のあまり泣きそうになった。
からっとした青空に自慢したく思う。私は今恋をしている。この手の温度が、何よりも証拠だ。
「クレナイ、あのさー……」
彼が何が言いかけたとき、大きな声が廊下中に響いた。
「もしかして、凪じゃない!?」


