そして、クリスマスを迎えた。
「予定ある?」
「受験生に予定なんてあるわけないでしょー」
なんてわずかに浮足立つ声を学校で耳にしつつ、私はポケットで密かに口紅をお守りのように握りしめていた。

放課後、自習室でサナギが来るのを待つと、いつもより少し遅れてノックが鳴った。
「ごめん、さすがに今日は店が忙しくて、ちょっとしか一緒に居られないんだけど……」
「じゃあにゅうめんはいいよ。その代わり、駅前のツリーを観に行きたい」

イルミネーションが施されたツリーは写真を撮るカップルでいっぱいだった。

「綺麗だね」
「だな」

私は、彼を独り占めしたい。
もっと知りたい。抱えているもの、全部。弱さごと、私が埋めてあげたい。
LEDに捕縛されたクリスマスツリー。コード線がぐるぐる巻き付いた、痛々しいその姿を感じさせない、儚い輝き。
暗闇にぽつんと浮かぶ、光の瞬き。
それを私は愛していたい。

私は口紅を取り出すと、キャップを外して、底を回転させた。
自分の唇にその爛々とした色を乗せて、
私はすこしだけ、かかとを浮かした。
サナギの唇に重ねた。
恥ずかしくなって瞳を閉じる。
すると、サナギの手が私の頬を包んだ。
彼の吐息が鼻にかかる。
唇と唇がもう一度重なった。

イルミネーションの色が変わったようだ。シャッター音があちこちから聞こえる。埋もれて、私たちは寂しさをわかち合った。浮かれたクリスマスソングが脳に響く。ずっとこの幸せに浸かっていたい。

サナギの背後には、どこまでも透き通った夜空があった。初めてのくちづけを交わしたあとに見た、最初の景色だった。サナギは私の前髪をかきわけ、その隙間にくちづけをした。冷ややかな風が心の隙間に吹いた。ストン、となにかが腑に落ちた。

「……ねぇサナギ。前言ってた、正岡子規の俳句、調べたよ」
「……ありがとう」

「"くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる"。──正岡子規が病床から見える景色を詠んだ一句らしいね。なんでこの句が好きなの……?サナギ、何があったの?何を隠してるの?」


──『俺、自由だよ。とても、怖いくらいに自由。でも、家族に縛られてるってのは実は幸せなことなんだよな』

私はずっと、この言葉の意味を考えていた。真意を知りたい。
カップルが行き交う雑踏の片隅に立ち止まって私たちはずっと見つめ合っていた。
私の頬を包んだ手を力なく下ろすと、しばらくしてぽつりと言った。

「……ストレスらしいんだ。髪、これ染めてるんじゃなくて」

咳払いをして、銀色の髪のえりあしを掴んだ。

「そうなの?」
「何もしてないのに色が抜けて、銀色になったんだ」
雪が溶けて綺麗だと思った銀色の髪。大好きな髪。
「でも、俺が病気とかじゃないから、そこは安心して」
「うん」
前髪をかけわけて生唾を飲んで、こう言った。

「弟から電話があって本当はちょっと嬉しかったんだ。気にかけてくれたって。うん、大丈夫。俺はもう大丈夫なんだ、クレナイ」
その声色は、全然大丈夫そうなんか、じゃなかった。

「ねぇ、どっか行こうよ、サナギ、二人で。どこでも行くよ。行きたいところある?」

「じゃあ、明後日俺の大学のオープンキャンバスがあるんだ」
「え?」
少し拍子抜けした。
「……いや、私サナギの大学、受けないし、」
「ばーか。息抜きに連れ出してやろう、って言ってるんだよ。俺が連れていきたいんだよ。大学生ごっこしよう。お洒落して来いよ」

声のトーンをあげ、調子よく言うと、サナギはお店に帰って行った。


唇に触れ、彼を思い出す。サナギは私が移した口紅の味がした。
つまり、これはデートのお誘いだ。
温かいにゅうめん。ほっとする出汁の味。ぼうっと浸っていたくても、いつか終わるときが来るのかな。食べ始めてから食べ終わるまでの関係じゃなくなる、何を意味指すのだろう。それは、一日を棒に振る受験生にとって危険な行為だ。
はじめての、デート。
仮初のものでもいい。どこか遠いところへ私を連れ出して欲しい。

私の足りないものは、きっとサナギだ。