次の日。サナギは、自習室の窓をコツンと鳴らすと、「外に出るぞ」と口パクで合図をした。
その手には、出前用の鉄箱があった。前とはまた違う、景色に溶け込むベンチでにゅうめんを食べた。

「唇、ついてるぞ」
指で私の口元についていたらしいたまごを拭ってきた。びくっとした。
「こどもじゃないんだから……!」
「そうか、ごめんな」
サナギはときどき、私を妙に子ども扱いする。それが恥ずかしくなる。
私たちの間には妙な緊張感があった。

「昨日の子、ひょっとして彼氏?」
「……そんなんじゃないよ。たまに勉強一緒にやってるだけ。もう、なんで出てっちゃったのよ」
「しょうがないだろ。勝手に出入りしてるのは俺のほうなんだから」
銀色の髪を揺らして、笑ってごまかした。
「彼……漆原くんってすごい期待されてる人で、一緒に居てちょっと苦しいんだ。塾の先生にも比較されるし。私は親からも放置されてるのに」
「そっか、そっか。親から見放されてるのは、悲しいよな」
その言葉を口にしたサナギの目が一瞬うるんだ気がして、にゅうめんの器に視線を落とした。


その日は食べ終わった後も夜の繁華街を宛てもなく、二人で歩いた。
私はマフラーを巻いただけの制服で、サナギはジャンパーを羽織り、腰にはお店のデニムエプロンを巻き、出前の箱を積んだ、自転車をひっさげて。そんな不格好な格好で寄り添っていた。

「繁華街って幸せを売ってるんだよね、十二月は特にそう感じるの」

クリスマスは今週だった。行き交う人々は日に日に増えていった。

「私、大学生になれる気がしないよ。親から離れたくて仕方ないのに、誰にも干渉されたくないのに、こんな風にたくさんの人が行き交う十二月の繁華街を堂々と歩ける勇気すらないの」

なぜこんなことを話し出したのだろう。サナギの前では、私はどんどん無防備になっていった。
サナギは少し考えて、自転車を押しながらこう答えた。

「……その怖さはきっと、誰でも抱えているよ。誰かと一緒だと、景色が変わるんだよ。大学生になったら、クレナイだってきっと誰かと、こういう商店街を歩けるようになるよ。服を買いに来るのもいいし、美味しいご飯を食べてもいい。こういう飲み屋だって入れるようになるよ。我慢しなくったって、欲しいものを何でも手に入れることが出来る権利を君は既に持っている」
「……そうなの?」

なんだか泣きつきたくなった。
本当に情けない。その腕に触れたい。手をそっと伸ばしたそのとき、
サナギの携帯が鳴った。着信相手を見ると険しい顔になった。「ちょっと待ってろ」自転車ごと脇へ行ってしまった。
どうしたのだろう、と立ち尽くして眺めていると、すぐに背を向けてしまった。なにやら困っているらしかった。
「サナギ……?」
おそるおそる、近づいてみた。

「お前な、もういい加減にしろよ。もう何年も話してないのに、なんだって今更──」

険しい表情と、声色。
私の視線に気づくと、遠のいてさらに奥へ行ってしまった。
声が怖い。

色んな人にかけられた声が、一斉に頭に流れ込んでくる。

──大学相手に推薦するには、柊木はなにか足りなかったんだ
──しんぼう、しんぼう!もう時間ないんだから遊ぶのは我慢!
──はやくお母さん達を楽にさせてよね。受験生が家にいるってだけで、うっとうしくて仕方ないのよ
──世の中嘘だらけだよ。大人に惑わされるな。自分を強く持つんだ

先生、けいちゃん、お母さん、漆原くん

頭上に張り巡らされたイルミネーション。スピーカー流れる陽気なクリスマスソング。年末セールと書かれた大きな看板。”恋人や家族という、待っててくれる存在の前提”がここにはあった。
足りないものがある人は、並ぶ店のすべてに否定される気がして怖かった。
すれ違う浮かれた足取りの大人達の戯れる声が、私をさらに弱気にしていった。

頭上で繁華街の巨大な鐘が鳴った。おぞましい数のイルミネーションが点滅し出した。
ワァッと歓声があがり、人々はスマホを構えて、写真を一斉に撮り出した。
急行電車が発車する音が耳の奥でザァッと通り過ぎる。
二十一時らしかった。
私は、膝まづいてそれを見た。ブーツや、ヒールや、革靴が行き交う。踏みつぶされてしまいそう。消えてしまいたい。私の足りないもの、それはきっと見つけられない。


──
「ごめんな、多分十分くらい待たせちまった」

見上げた。私は繁華街の真ん中で崩れ落ちていたようだった。
「……相手誰だったの?」「弟。ちょっとした兄弟喧嘩だよ」
震える私の手を取ると、サナギのジャンパーのポケットに自分の手ごとつっんだ。
温かいだろ?大丈夫?と手の甲をなでてくれた。
「ちゃんと話すの久しぶりで、ちょっと動揺しちまった。ごめんな」

サナギの手も震えていた。二人で温度を移し合っていると、次第に落ち着いた。

「クレナイ、いつもありがとな。俺も話し相手が欲しかったのかもしれないな。12月ってほら、なんだか寂しいだろ?」
「うん」
分かる気がした。


「勉強いつもお疲れ様!。メリークリスマス」
ジャンパーにお邪魔したままの手に、奥のほうにあったぐしゃりとした堅い感覚のあるものを握らされた。
「え?」
おそるおそる取り出し手のひらを開くと、それは丸められた麺専門店の回数券と
ネイビーの高級そうな……文房具?

「これ…」
「きっと似合うだろうなと思って、良かったら使って」
フィルムを剥がしてキャップを外すと、驚いた。文房具じゃない。底を回転させると、容器から、爛々とした赤の口紅が登場した。




サナギが店に戻ると、自習室に置きっぱなしだった荷物を取りに戻ってきた。
真っ暗の自習室はしん、としていた。
制服のポケットからもらったばかりの口紅を取り出す。
唇に塗ってみた。手鏡を覗くと、そこには知らない女の顔があった。
それは幼少期より知る私じゃなかった。
ふと角度を変えると、私の背後に誰かの姿を捉え、慌てて手鏡を落としかけた。
「び……っくりした」
「また、あの人と会ってたんでしょ?もう暗いし、送るよ」

漆原くんだった。
私の鞄が残っているのを見て、先生に分からないところを質問しつつ、私の帰りを待ってくれていたようだ。
気まずかった。
──放課後、一緒に勉強しよう。出来れば塾じゃなくて、学校で。誰かとしたほうがきっと効率いいよ。
そう言ってくれていたのに、私はそれをやんわり断っていた。
「なんで塾で自習じゃなくて学校がいいって言ってくれたの?」
「だって、塾だと二人きりになれないじゃないか。いつも邪魔が入ってしまって」

「ん」とカイロを差し出した。
「冷えてないからいいよ」断ったが、漆原くんは怒っていた。
「嘘つけ。ねぇ、まゆちゃん。君は今、何を考えているの?あんな男のどこがいいの?」
手を掴まれそうになり、「やっ……!」その手を振り払った。ガサッとカイロが地面に落ちた。それでも、私は両親が寝静まる家へと走って帰った。
ただただ考えていた。あぁ、サナギに会いたい。