新一はいつも笑っていた。悪く言えばヘラヘラしていたとも言える。ただ誰よりも努力家で嫌いなことも、好きなことも、一生懸命にこなしていた。小さな頃の記憶で曖昧だけど、確かに僕は新一に不満を持っていた。たくさんあったけど、その中の一つにこんなことがあったのを覚えている。

 小学校に上がる前、幼稚園の友達が母親から読み聞かせをしてもらっていると言っていた。「頼んでいるの?」と聞くと、「そんなことないよ」と返ってきた。新一はそんなことしてくれた覚えがない。しょうもない不満。でもみんなのように愛情が欲しくて、みんなと同じように甘えたくて、だから、いつもバイトで帰ってくるのが遅い新一を、その日はずっと待った。

 一時くらいだった気がする。新一が静かにドアを開けて帰ってきた。僕は玄関でウトウトしていたけど、その時の新一の顔は今でも忘れない。ものすごく怒っていた。「夜更かしなんてするな」って。物凄く怖かった。

 でも「読み聞かせをして欲しかった」と新一に素直に言うと、新一は目線を僕に合わせて、頭を優しく撫でてくれた。それで僕の気持ちはスッと収まったんだ。

「わかった。寝室に行ってちょっと待ってて」

 と言って、すぐ寝室に来てくれた。

 新一の手には小説。題名は思い出せないし、とても眠かったから、内容も覚えていない。読み聞かせといえば、絵本のはずなのに、二百以上あるページ数を音読するつもりだったのだろうか。ズレていたけど、それでもすごく嬉しかった。
 

 *


「誰ですか?」

 インターホンが鳴ったから出ると、知らない女性が立っていた。歳はお姉さんとおばさんの間くらいだろうか。

「偉く無愛想だね」
「それは否定しないですけど、敬語を使えない時点で僕の中では論外です」

 ドアを閉めようとすると、足を無理やり挟んできた。

「ずっと新くんを探していたんだ。話くらいしてくれないかな?」

 無理やりドアをこじ開けて、中に入ろうとしてくる。

「な、なんなんですか」

 非力な僕では女性の力と変わらなくて、足も手もドアから外すことができない。

「少しくらい話を聞いてくれてもいいでしょ!」

 女性は指で引っ掛けていたドアを攀じるようにして中に入れてきた。



 玄関でずっとこうしているわけにもいかなくて、不本意ではあるけど、諦めて、とりあえず中に入れた。

「⋯⋯まず名乗ってもらえないですか?」
「住永麗美です。新くんのお母さんの姉だよ」
「それで、麗美さんが何のようですか?」
「⋯⋯意外と落ち着いてるね。内容的には結構驚くはずなんだけど」

 いつかこういうことが起きる可能性を少しは感じていて、若干身構えgあった。

「申し訳なかった」

 麗美さんは急にテーブルに頭を打ち付けて謝ってきた。

「ちょ、やめてください」
「妹と私たち母方の家族は絶縁の状態で、新くんの存在を知ったのもかなり後だったんだよ」
「別に麗美さんが謝ることじゃ無いですよ。絶縁だったのなら、なおさらしょうがないです。とりあえず顔上げてください。ここに来たのには他にも理由があるんですよね?」

 麗美さんはゆっくり顔を上げ、大きく息を吐いて、呼吸を整えた。

「私たちと一緒に暮らせないかな?」

 これも少し予想していた。返答も用意している。

「そう言って頂けるのは嬉しいですけど、それはできないです。すみません」
「どうして?」
「今通ってる学校にも通い続けたいですし、この小さなアパートの一室は僕の家です。帰るべき実家なので、ここを離れるときは一人暮らしをする時って決めているんです」

 何となくそれっぽいことを言った。本心は赤の他人と一緒に暮らしたくない。というだけのことで、でもそれを言ったら丸め込まれそうだから、納得させられるような言い回しをした。

「そんな裕福な暮らしはできてないでしょ? 私たちと一緒なら今よりは少なくともいい生活ができると思うけど」

 別に裕福な暮らしを求めてないし、今が良くないって決めつけてくるのが正直イラッときた。

「まあ、それはそうですけど」

 刺激しすぎないよう、気持ちを抑えて返す。

「生前の新一くんとは前に会っていたんだ。その時、やっと探している子に会えたと思ったんだけど、関わらないでなんて言ってくるからさ。『俺も新も今生活できているし、あなたたちの手助けはいらない』って。意地張ってたんだと思うけど、住んでる場所も大学名も教えてくれなくてさ。だから遅くなったんだ。ごめんね」
「なんで新一が来なくていいって言ってたのに、来たんですか?」
「だって、そんな生活続けられるはずないでしょ? 新くんだってこんな大変な生活続けたくないでしょ?」

 何でこの人は僕のことをわかった風に話すんだろう。新一のことも知ったかしてほしくない。

「帰ってくれないですか?」
「え?」
「帰ってって言ったんです」
「いや、何でそうなったの?」

 あんたに話してもわからないでしょ。

「帰れって!」
「⋯⋯わ、わかった」

 僕の言葉に気圧されて、かなり落ち込んだ様子で立ち上がった。

「いつでも頼ってね。電話番号これだから。あと、電話番号一応教えてくれる?」

 最後、麗美さんはテーブルに電話番号の書いた紙を置いて、僕はテーブル脇の紙に電話番号を書いて渡した。そして麗美さんはすぐに出ていった。



 疲れた。

 あり得ないくらいしんどかった。もういいだろ。僕の家族は新一だけだ。この事実は揺らがない。




 突然、僕のスマホが鳴った。番号は米村先生のものだ。二三時を回っていて、しょうもないことだったら、すぐに切ってやろうかと思いながら、僕は電話に出た。

「おい、今何してる?」
「何ですか。薮から棒に」

 米村先生の声は切羽詰まっていて僕のその一言で「わかった。切る」と言ってきた。状況がいまいちわからない。しかも切られる側になるのか。

「何かあったんですか?」
「唄と連絡が取れないって祖母から連絡があってな。もしかしたらと思ったんだが」
「両親じゃないんですか?」
「新、お前、いや、何でもない」
「唄がまだ家に帰ってないってことですよね?」
「そういうことだな」
「それは⋯⋯心配ですね」

 僕の頭に一つの可能性が過った。

「先生⋯⋯今日何日でしたっけ?」
「二八だが? ていうかそんな話してる場合じゃないんだよ」

 鼓動が早くなった。

「新も知らないってなると、いよいよ校長に報告しなくちゃいけなくなる⋯⋯」
「……親御さんには心配ないって言っといてください。先生ももう大丈夫です。唄のいる場所、わかりました」

 呼吸が荒くなる。

「本当か?」
「はい」
「どこだ」
「すみません。言えないです。でも、大丈夫です」

 無言の圧力を感じた。

 固唾を飲んで、先生の言葉を待つ。

「……そうか。わかった。唄をよろしくな」
「はい」

 そこで電話を切った。


 終電に滑り込んだ。帰りのことなんて一切考えずに寝間着のまま飛び出してしまった。学校の最寄り駅に着いてからも全力で走った。久しぶりにちゃんと息を切れて、こんなに走ることが辛いとは思わなかった。

 すぐに弱音を吐いて、止まろうとする足を鼓舞する。今止まったら全てが終わる気がした。心が僕を前へ進めようと五月蝿く言い続けてくる。体はもうとっくに限界なのに。

 門を攀じ登って、警備員のことなんて考えずに走った。途中階段で足がもつれて、転けそうになった。喉の奥から血の味がして、顎が上がる。生徒会室は四階で、なんでよりによって最上階なんだと嫌気が刺した。それでも足は止まらなかった。

 生徒会室のドアをそのままの勢いで開けると、


「遅いよ」


 真っ暗な生徒会室に唄がいた。雲で霞む月明かりが生徒会室の唯一の明かりとなっている。外を見ていたのか、振り向いた唄は泣いていた。

 ただ一滴、頬を伝って、床に落ちた。

「遅れてごめん」

 唄が何で泣いているのかはわからない。でも、初めて唄の泣いた顔を見た。

「待ちくたびれちゃったよ」

 唄は頬を指でなぞった。

「来てくれると思ってた」

 違う。

「僕は……そんなんじゃない」

 僕は先生から電話がなかったら来ていなかった。唄の期待も全ては理想の僕に対してで、本当の僕は唄の期待には何一つ応えられていない。

 唄の顔から目を逸らした。

「急に電話しなくなってごめんね」

 言葉が出ない。何も考えていなくて、何を言えばいいのかわからない。言葉に詰まる。何か思ったことでいいから、そのまま出そう。

「⋯⋯僕は唄と電話がしたかった」
「じゃあ電話かけてくれればよかったのに」

 でも、君に切られたから。なんて言えない。

「……ごめん」

 夏休み、僕の知らない間に唄に何があったんだろう。さっきの一滴の涙がそこに詰まっているような気がして、僕はやっぱり逃げた夏休みを後悔した。

「新くん。こっちに来て」

 唄の優しい声を聞いて、窓辺にいる彼女の元へゆっくり歩いた。

「ほら、仲直り」

 小さく細い手を差し出してきた。

「私も言葉が足りなかった。新くんも約束に遅れてきた。ほら、仲直り」

 やっぱり唄はいつでも優しい。

 こんな僕に手を差し伸べてくれる。

 彼女の足りなかった言葉ってなんだ。僕は約束すら守れていない。副会長として支えることすらままなっていない。何も解決していないんだ。モヤモヤは何一つ取れなかった。

 形だけで、彼女の手を取った。顔を上げると、さっきの静かに泣いていた唄は顔の上から一枚何かを重ねたように笑っていた。

 今はそれでもいい。でもいつか君のその皮を剥いであげたいと思った。無理して取り繕うその皮を僕の手で――。



「ねえ、何でいつも小説を呼んでるの?」

 二人で生徒会室のソファに座って、離れたところにある窓から外を眺めていた。

 もうシンデレラの魔法は解けていて夢のように感じていた光景も段々現実と重なって、僕らの気持ちもすっかり落ち着いていた。

「現実逃避だよ」
「何でそんなことするの?」
「向き合いたくないから。現実は残酷で、人の命は儚いって知ってるから」
「時々、何言ってるかわかんないよ、新くん」
「それはお互い様だよ」

 僕も唄がよく分からない。

「僕、兄を小学生のころに亡くしてるんだ。この間も友達の妹が亡くなった」
「そうだったんだ」
「だから、人間の脆さを誰よりも知っている自信がある。そんな現実と向き合いたくない⋯⋯んだと思う」

 正直、自分でも途中から何を言っているのかわからなかった。

 それでも唄は僕の意味不明な日本語の羅列を真剣に聞いてくれた。逃げているような気はしなかった。気持ちが軽くなった。

 やっぱり僕は逃げたんだ。



「なんか歌おうか?」

 収拾が付かなくなる思考に歯止めを効かせたのは、唄のその一言だった。

 僕は少し考えて、

「ギラギラ歌ってよ」

 そして出た答えがこれだった。

 Adoの『ギラギラ』。唄と同じ女子高生シンガーの曲だった。ただ声にはパンチがあって、強いビートも入っていたりして、正直言うと、唄には似つかわしくない。それでもギラギラを歌って欲しかった。

「……いいよ。ちょっと待ってて」

 唄は戸惑っていたけど、歌ってくれるそうだ。あまりAdoの曲を頼まれることもなかったんだと思う。


「ジャーン!」

 少ししてから、唄はペンダントを首から掛けて、ギターを持った状態で僕の前に出てきた。両手を大きく広げて、嬉しそうにこっちを見る。

「そのギターどうしたの?」
「軽音部の部室から持ってきた」
「そのペンダントつけるんだな」
「つけたほうが歌いやすいんだよね」

 電波を挟んでしか見たことのなかったUSがそこにはいた。ちゃんと顔があって、その顔はちゃんと唄だった。

「ちょっと⋯⋯照れる」

 見続ける僕に唄は顔をほんのり赤く染めた。

「ギラギラなら本当はドラムの方がいいんだろうけど、ピアノとギターしかできないからさ」
「いいよ。僕は唄のが聞きたいんだ」
「何それ」

 前に立つ唄を後ろから月明かりが照らしていて、とても美しかった。

 そんな唄はすぐに視界から消えて、僕の隣に座った。

 チューニングを始めて、一分もしないうちに終え、

「こっち向かないでね」
「前で歌ってくれないの?」
「嫌だよ、恥ずかしい」
「プロでそんなこと言ってんの、唄だけだと思うよ」
「関係ないってば。ていうかそれが顔出ししてない理由でもあるの!」

 唄は喉を唸らせて、弦を弾いた。

「あーもう本当になんて――」

 歌い出しで思った。唄の声でギラギラを歌うにはあまりにインパクトが足りない。それでも綺麗で、ギターの音すら細やかで、のめり込みそうな声はやっぱりUSなんだと感じた。

 時々、この曲がプレイリストから流れる。

 最初、皮肉のように世界は素晴らしいと言い出す。この曲に出てくる女性は酷く現実に絶望していた。なのに現実に目を向けて、抗おうとする。自分らしく、他に惑わされず。最後には全てを含めて、世界を素晴らしいと心から言っているように感じた。

 曲に意味を求めるのは間違っているのかもしれない。この曲は独特なラブソング。それ以上何があるのかは作詞した本人か本人から聞いた歌手ぐらいしか知らない。それでも僕はこの曲の真意を知りたくて、共通点は高校生シンガーというところしかない唄に頼んだんだと思う。

 飽くまで僕の勝手な思い込みや、この曲に僕の理想を押し付けているだけだとしても、知りたかった。

「――なんて素晴らしき世界だ! ギラついてこう」

 結局、何もわからなかった。

 ただ、唄はそこにいて、今を生きて、そこで歌っているという事実だけがあって、僕はそれを聞いて満たされていた。

 歌い終わった後の唄は表現しづらい、初めて見た表情をしていた。

 もっと唄のことを知って、唄と上辺じゃなくて、特別な関係になりたい。付き合うとか親友とか簡単に表せる関係性じゃなくても、どんなに歪なものでもいい。

「また前みたいに歌ってほしい」

 胸がはち切れそうなほど、心臓が大きく鼓動していた。グーっと血が昇るのを抑えて、意識を保つ。

 この感覚は告白するときのものに近いのだろうか。告白なんてしたことがないけど、そんな気がする。僕にとっては「付き合ってください」と同じくらいの重みをこの言葉に感じた。

「うん」

 唄は顔を赤くして返事をしてくれた。

 それから、電話の時と変わらないように話した。話さなかった夏休みを取り戻すようにたくさん。

「新くん大変だったね。私、お姉ちゃんみたいな叔母さんがいるんだけど、その人が死んだら嫌だよ」
「大切な人?」
「うん。私の人生で欠かせない人だよ。他に三人、大切な人がいるんだ」

 悪戯っぽく笑って、僕の頬に指を当ててきた。

「一人は新くんかもね?」
「いいよ、そういうのは」

 その指を退かすように顔を左右へ振った。

「でも、私の人生には欠かせないよ。家族以外で欠かせないのは新くんとあの人だけだから」
「そうなんだ」

 深追いはしなかった。あの人が誰かなんてどうでもいい。

 濁した理由は聞かれたくなかったからだろう。僕は勝手にそう解釈した。話したい時に話してもらえればいい。話すに値する人間に僕がなれるかはわからないけど、全てを話してくれた時には受け止めて、ただ優しく聞いてあげたい。

 他にも本当に他愛もない話を眠くなるまで。結局、眠くはならなかったから朝までオールした。僕と唄は日が昇ってから帰った。家の目の前まで送り届けて、別れる時の唄は目の下に隈を作っていたけど、最高の笑顔だった。驚いたことがあって、それは意外にも僕の家と唄の家は近くて、自転車で五分もしない位置にあったこと。

 その後、先生に電話して、唄は大丈夫だと連絡をした。先生は寝ていないのか、ガラガラの声で、でも少し嬉しそうに「ありがとな」と言ってきた。


 僕の夏休みは何もないようで、時々忙しなく心が狂って、踊って、辛くなって。新一が死んだあの時から止まっていた僕の時計
は、この夏休みで少しずつ動き出したような気がした