「だけどね、今日ほんとに楽しかった。ほんとに、心の底から笑ったの。強がりなんかじゃなくて、まだ大丈夫だってほんとに思えたの」

 時生は答えなかった。たぶんまた空を見上げている。そんな気がした。

 ふたりの間に沈黙が落ちても、もう気まずくなかった。心地いいとさえ思った。

 こういう静かな時間が、私には必要だったのかもしれない。

「ずっと聞きたかったことがあるんだけど」

「うん?」

「なんでいつもあいつらに言い返さないの」

 時生が言う「あいつら」は蘭音や茜たちのことだ。

 彼女たちが時生を名前で呼ばないように、時生も名前で呼ばない。

「ひとりになりたくなかったからだよ。他に仲いい友達いないし」

「じゃあ母さんは?」

「え?」

「なんで母さんに言い返さないの」

 時生はためらうように静かに言った。

 荒れ果てた家を思い出して、胸がちくりと痛んだ。

 お母さんは私が作ったおにぎりとお味噌汁を食べてくれただろうか。

「お母さん、怒ったらヒステリー起こすから、けっこうひどいこと言われるの。無駄に傷つきたくないし」

「それだけ?」

「それだけ」

「ほんとに?」

 時生がこっちを向いた気がして、私も反射的に顔を向けた。

 黒縁眼鏡の奥にある、まっすぐな双眸が私を捉えていた。

 時生はやっぱり見透かしている。

 嘘をつかせてくれない。取り繕わせてくれない。

 逆を言えば、心の奥底にしまい込んでいた本音を引き出してくれる。

 時生は知っている。臆病で嘘つきな私は、本音を言うのがなによりも苦手なことを。

「なんかもう、ひと言でも言い返したら、糸がぶつって切れちゃいそうで、……ひどいこと、言わない自信、なかったから。お母さんのこと、めちゃくちゃに傷つけちゃいそうだったから」

 喧嘩なんてしたくない。だって傷つきたくない。

 それに──傷つけたくもない。お母さんの傷ついた顔なんて見たいわけがない。

 笑ってほしい。その一心で、どれだけ口に出せない文句を浮かべながらも家事と育児を手伝っていた。

「優しいんだよ。ただ優しすぎて自分を追い込んじゃうんだ。人を傷つけるくらいなら、自分が我慢すればいいって」

 そんなにいい子じゃない。自分が傷つきたくないという気持ちの方がはるかに大きい。

 そう思うのに、言葉にならなかった。

 ──人を傷つけるくらいなら、自分が我慢すればいい。

 そんな偽善が頭をかすめることも、確かにあった。