「どうしても辛いときは逃げたっていいと思う。世界って広いじゃん。俺らがまだ知らない世界はいくらでもあるはずだから」

 なるほど。言いたいことはなんとなくわかった。
 ちょっと不器用すぎるとは思うけど、一生懸命伝えようとしてくれていることだけはものすごく伝わった。
 だからといって素直に頷くことはできない。

「……逃げていいとか、言うけど。無責任なこと言わないでよ。逃げ場なんてないからこうなってるの」

 もっと言えば、逃げる勇気すらなかった。だって逃げた先が天国なのか地獄なのかわからない。今よりもいい環境になる保証はない。そんな保証があるならとっくに飛び出している。
 逃げた先がまた暗闇だったら、私は一体どうなってしまうんだろう。考えただけで怖くて、怖くてどうしようもなくて、ここから一歩も動けない。

 だから私は、これからもずっと、こうして鬱屈した毎日を繰り返すんだ。
 私の人生は、世の中は、こんなもんなのだと言い聞かせながら。
 輪からはみ出さないよう自分を隠しながら、傷つかないよう感情を殺しながら。

「あるよ」
「どこ? 適当なこと言わないでってば」
「ここ」

 細長い人さし指を立てて、先端を地面に向けた。

「ここが逃げ場で、俺が捌け口。またなんかあったら今みたいに飛び出せばいい。それでまた話聞かせてよ」

〝逃げ場〟って物理的な意味じゃない気がするけど。しかも「世界は広い」とか言ったわりにめちゃくちゃ近場だし。
 時生は一生懸命に話してくれている気がしたから突っ込まないでおく。

「捌け口なんてならなくていいよ。そんなことしたら時生のストレスが溜まるだけじゃん」

 誰かの捌け口でいることがどれだけ憂鬱なのか、私は知っている。

「別にストレスなんか溜まんない。いやちょっとは溜まるかもだけど」

 素直だなほんとに。

「だったら……」
「だけど辛くはない。ひとりで苦しんでるとこ見る方がよっぽど辛い。だから俺は大丈夫」

 時生は私の目をまっすぐ見ていた。
 ずっとずっと、人の目が怖かった。
 だけど時生の目は、なぜか怖くなかった。