しっかり前を向いて壁すれすれを歩いていたのに、それでも俺が悪いと言うのか。
納得がいかなくてもひと言「ごめん」と言えば済むのかもしれないが、自分が悪いと思えない事案に対して謝りたくはない。ふたりがかりで壁に寄せられてどんなに睨みつけられようと、断固として謝りたくはない。
「謝るのはあんたでしょ」
見覚えのある女子が、数秒間にわたる睨み合い(俺が一方的に睨まれていただけだが)に待ったをかけた。
それが美桜だった。
「べらべら喋りながらふらふら歩いてたのはあんたらの方でしょ。時生くんは悪くないよ」
一喝された彼等はばつが悪そうに目を逸らし、そそくさと廊下を歩いていった。
「ちょっと! 謝れっつーの!」
「いや、いいから。大丈夫」
「でも!」
「大丈夫。ほんとに」
というか戻ってきたらきたで面倒くさい。理不尽な要求から逃れられたのだから、もはやどうでもいい。
納得がいかなそうに唇を尖らせた美桜は、「もう」と息を吐いた。
「なんで俺の名前知ってんの」
自分から女子に話を振ったのは、人生で初めてかもしれなかった。
いつもならぺこりと頭を下げて、彼等のようにそそくさと去っただろう。
だけどそのときはそうしたくなかった。
彼女を引き留めろと、脳から指令がおりたような気がした。
「だって隣のクラスじゃん」
「えっ」
「えっ? 隣のクラスの子の名前くらい覚えてるでしょ?」
頷けるわけがなかった。このとき俺はまだ美桜の名前を知らなかった。クラスメイトの名前さえ全員言える自信がない(クラスメイト全員に俺の名前を知ってもらっている自信もない)。
それに俺が目立つタイプならまだしも、透明人間なのに。
「時生くん? なんで固まってるの?」
「別に」
「なにそれ。変なの」
もう少し繋ぎ止めておきたかったが、びっくりしている頭では次の会話が浮かばなかった。通常運転でも会話を続ける自信はないが。
「怪我とかない?」
「うん」
「ならよかった。気を付けてね」
小さく微笑んで歩き出した美桜の後ろ姿を見て、思った。
──好きだ。
と。