ペンを渡すと、時生は『逢坂(あいさか)美桜』の横に、お世辞にも流麗とは言えない殴り書きみたいな字で『時生(れん)』と書いた。
 あ、そうだ。蓮だ。時生蓮。花の名前だということだけかすかに記憶に残っていた。
 確かに、名前は無駄にかっこいいな。

「字、綺麗だね」

 意外だった。時生から話を振ってくれたことも、褒めてくれたことも。

「……そう? 初めて言われたかも」

 時生は下手だねと思いながら返すと、時生は黙り込んでしまった。
 終わった。一瞬で会話が終わった。自分から振ったならもう少し続ける努力をしてほしい。
 ちょっと呆れながら、時生からペンを受け取って日誌の続きを書いていく。その間も沈黙という針はちくちくと刺さってくる。さっさと書き終えたいのに、落ち着かないせいで文章が浮かばない。お願いだから帰ってくれ。

 ふう、と小さく息が漏れる。ただ呼吸をしただけみたいにごく小さく。
 ため息をつくのは最近の癖だと自覚していた。我ながら嫌な癖。
 だけどそうしなければ、ドロドロとした液体が胸に溜まり続けて溺れそうになってしまう。

「今日、日直じゃなかったじゃん」
「え?」
「ついこの間やってたじゃん」

 さっきの話の続きだろうか。だとしたら時差がひどい。会話下手すぎるだろ。

「やってたけど……知ってたんだ」
「うん」
「蘭音は具合悪いらしくて、代わったの」
「元気そうだったけど」

 だよね。誰から見てもすこぶる元気だったよね。今日も絶好調だったよね。

「俺が嫌われてるのが悪いのか」
「あれはもとはと言えば蘭音が悪──」

 咄嗟に口を押さえた。
 あっぶな。たとえ本人が目の前にいなくても悪口を言うわけにはいかない。

 時生が蘭音に告げ口することはまずないだろうけど、校内には私たち以外にも生徒がいる。誰がどこで聞き耳を立てているかわからない。いつどこから尾ひれのついた噂が出回るかわからない。
 万が一にでも「美桜が蘭音の悪口言ってたよ」なんて噂が流れたら、その瞬間に私の高校生活はピリオドを打つ。

 誰がいようといなかろうと、校内にいるときは一瞬たりとも気を抜けない。
 だからこそ息が詰まって仕方ない。

「そりゃ……嫌われるでしょ、あんなこと言ったら。あのあと私たちがどれだけ大変だったかわかってる?」

 ──え……興味ないけど。