制服を着て、短くなった髪を軽く整えて、ふう、と息を吐く。

 癖で市販のリボンをつけかけて、それを机に置いた。代わりに、ずっとクローゼットに眠らせていたえんじ色の紐リボンを結んだ。

 リビングにはまだ誰もいなかった。

 食パンを四枚トースターにセットして、その間に卵とウィンナーを焼いて、カップにコーンスープとコーヒーの粉をそれぞれ入れてお湯を注ぐ。焼き上がったトーストを取り出し、二枚はいちごジャムを、二枚はバターを塗ってテーブルに並べる。

 自分のパンを口に運ぼうとしたタイミングで、機嫌がよさそうな蒼葉と葉月、そしてよく眠れたと顔に書いてあるお母さんが起きてきた。

 昨日は子供たちのぐずりや夜泣きがなかったのか、三人ともぐっすり眠れたようだった。

「蒼葉、葉月、おはよう」

「おはよー‼」

「……おはよう、お母さん」

 返事はない。あの日からずっとこんな感じだ。

 苦笑いをひとつこぼしてからパンをかじった。

 お母さんがカフェインを摂っているうちに、子供たちにご飯を食べさせる。パンくずをこぼし、口も手もジャムでべとべとにし、パジャマにスープを滴らせているふたりをせっせとお世話する。

 どうしてこうも完膚なきまでに汚せるのか不思議だけれど、おいしいおいしいとにこにこするから、私もつられて笑ってしまった。

 ああ、そうだ。毎朝このメニューなのは、いちごジャムもウィンナーも卵もコーンスープも、蒼葉と葉月の大好物だからだ。この屈託のない笑顔を見たくて、家事と育児とパートで疲れているお母さんに少しでも休んでほしくて、朝ご飯を作るようになったんだ。

 お風呂だってそう。ふたりが私と入りたいと言うようになって、嬉しかったからそれを受け入れただけ。押し付けられたわけじゃなかった。

 欠けていたパズルのピースは少しずつ戻ってきていた。

 完成したわけじゃない。そんなの不可能なのかもしれない。

 もちろん本当に忘れていることだって数えきれないほどあると思う。それに、全部思い出す必要もないのだと思う。私自身が封じ込めたのではなく、心が壊れてしまわないように、脳が排除してくれたこともあるのだろう。

 だけど、こういう大切なことは少しずつ思い出していけたらいい。

 食器を洗い終え、玄関に向かおうと動かした足を止めて、もう一度ダイニングの椅子に座っているお母さんの方を見た。

「……お母さん」

 この言葉を最後に言ったのはいつだっただろう。どうせ返ってこないと諦めて、いつしか言わなくなっていた。

 だけど、どっちが先だったんだろう。お母さんが返してくれなくなったのと、私が言わなくなったのと。

「いってきます」

 コーヒーを口に運んでいたお母さんの手が止まる。

 私の方を見てくれることを期待したけれど、それは叶わなかった。

 やっぱりだめか。

 それでも、明日も言おう。どっちが先とかそんなのは関係ない。

 お母さんがまた言ってくれるまで、何度でも──

「……いってらっしゃい」

 背中から聞こえた声に、上半身と下半身が真っ二つになりそうな勢いで振り向いた。

 お母さんは私に背中を向けたまま。

 だけど、言ってくれた。幻聴なんかじゃない。

 ものすごく小さな声だったけれど、確かに聞こえた。

「うん! いってきます!」

 今日は五月六日。お母さんは私の誕生日を覚えてくれているだろうか。