三十歳手前の歳だった頃だと記憶している。
 大学卒業後、就職もせずプラプラしていた。
 一応働いてはいたが、職を転々とするフリーター稼業だった。今時、フリーターなんて
呼び方はしないか。
 歳をとった。正直、歳はとりたくない。
 若かりし頃に戻りたい。時代が進歩して、過去と現在、あるいは未来を行ったり来たり
できたら、人生はより スリリングでワクワクでき、退屈しない人生を皆が送れると思う。

 私が、まだ、ドキドキ感と、溢れんばかりの欲望を零す事すら厭わない二十代の話。
 当時、私は演じる事に興味があった。
 といっても舞台役者やアイドルを目指していたわけではない。
 人間観察という事柄について、趣味を通り越し、研究し、統計をとり、膨大な資料を作成していた。
 私は、何処ぞやの研究機関の人間でもなければ、探偵でもない。
 知りたかったからだ。ヒトの心を。
 探りたかったからだ。喜ぶ、怒る、悲しむ、楽しむ。そして、憎しむ、咽び泣くという感覚を。
 その感覚を知り尽くす。知り尽くして習得する。
 そんな事に何の意味がある。
 そう。
 確かに、人によっては何の意味もなさない。
 取り留めのない、下らない事だ。と、一挙両断する輩もあろう。
 でも、それには訳がある。

 この世には、男と女がいる。あるいは女と男がいる。
 今や男女同権の時代。何故、いつも先に、男が来るの! と言われかねない。
 女が居てくれるお陰で男が成立する。
 ちょっと策略が垣間見えて、ざわとらしいか。
 そんな、貴女、今、何を思った?
 貴方は? 
 人間が存在し得る限り、比較したり、上から目線で蔑んだり、小馬鹿にしたり、
悪口を囁き、あるいは、端から無視をする。
 こんな事象は、そこいらじゅうに拡がっている。
 性欲で繋がれた男女の中にも、憎しみは包まれている。
 愛を感じていても、怒りのマグマは眠っている。
 皆、自分がカワイイ。
 ホントは、自分に身勝手に生きたい。
 自分の思い通りに。やりたいように。
 犯罪者にならなけらば、ヤリたい女とヤリたい。
 『理性』という名の、お題目のような見えざる法律により、ストレスを溜め、
偽りのレールを敷き、自己防衛と欲求の間で自らを覆い隠す。

 私は、愛なんて無いと思っている。
 欲をオブラートに内包する為に、愛という言葉を生み出した。
 『愛』は人類最大の発明品。但し、使い勝手のよい大量生産用語。
 『愛』というメッキが剥がれた時、瓦解する信頼関係の底に押し込めていた、『欲』を感じ取る事になる。
 皆、一度や二度は経験がある。
 しかし、何れまた、『欲』の真意を達成する為、『愛』を駆使し、『愛』というカーテンで、互いを覆う。
 『愛』は非常に便利だ。便利さの本質は、消耗品であるという事。

 あなたは「愛」を知らない。可哀そうな人ね。
 前向きに向上心を持っている人は、そう言う。
 そんな一日一善のような人生を全ての人が送れる訳ではないし、
 それを正論と押し立て、価値観を押付けれれるのは御免だ。
 『愛』などこの世に存在しない。
 『欲』が『愛』に化けただけなのだ。
 私は、常日頃から、そう思っている。

 二十代後半、私は、『女』を知った。
 随分遅いね~、今迄の人生何してたの? 何があった?
 今の言葉が返ってきたら、私は真顔で無言を貫く。
 話す意味がないからだ。
 私は、肉体的に女に興味がある。愛ではなく欲に。
 私が、『女』を知ったのは、揺るぎない『欲』を知ったという意味だ。

 ここで1人の女性を紹介したい。
 彼女の名は「繭」。
 本名だ。苗字は伏せる。
 「繭」は細身で切れ長の目をした狐顔の女性だった。
 正直、私の全く好みではない。
 少なくとも当時までは。
 繭は、日頃から眉間に皺を寄せ、多くを語らず、何を考えているか分からない。
 概ね周囲の人間から一致する評価のされ方をしていた。
 何故かやたらと俺に話し掛けてきた。
 俺もあまり口数の多い方ではない。
 余計な事は喋らず、自ら進んで他人とコミニュケーション図る事はしない。
 来るものは拒まず、去る者は追わず、が俺のスタンスだ。
 繭とは職場が一緒だった。
 普段、ブスッとしてるくせに、俺に対しては妙に馴れ馴れしかった。
 そういえば、最初からそうだったのを思い出す。
 初対面でいきなり、芸能人の○○に似てない? ていうか本人?
 と絡んで来た。
 くれぐれも言うが、彼女はお調子者でもなければ、社交的な人間でもない。
 間口が狭く、好き嫌いが激しい。
 暫くして、彼女と絶えず接するようになって、そう思った。
 しかし、俺は極力関わりたくなかった。
 余り、興味の無いタイプの人間だったし、兎に角、顔が好みじゃなかった。
 全くと言っていいほど、そそられない。
 細い目をしたか細い体型の人間は、貧相で軽薄な人間というのが、
私が幼少期から蓄積してきた価値観だ。
 偏見は百も承知。
 心の中で何を思おうと自由。
 世間に向かい、何か声に発すると、真逆の価値観を共有する目に見えざる集団からハラスメントに遭う。
 だから、普段は、心の中に押しとどめている。
 今日は違う。
 繭を語る上では、彼女に対し持ち合わせていた認識を公開しなければならない。
 繭に対しての私の心の変化、あるいは、繭という人間を観察してきた事を踏まえて、
 私が、どう対応を変えていったか。意識的操作と無意識なありのままの行動を曝け出す。
 繭について表現し、繭を通して私という人間の本質があぶり出され、私が愛を否定する。
 否定するというよりは拒絶する。
 臆病さと億劫さと、欲だけを信じる男が、今、この物語の中で、必死にもがき、
心の奥底では、「ヘルプ!」と叫び、助けを求めている。
 後は、周囲が、私を甘やかしてくれるかだ。
 甘い期待とは分かっている。
 しかし、私は認めてもらいたいのだ。
 私の価値観を。
 賛同はしてもらえなくてもいい。
 人は人それぞれ。
 自由が欲しい。
 此の国には自由が足りない。
 身勝手だと断罪しないで欲しい。
 自由を認めない事こそ、身勝手ではないか。
 繭は、そんな私の心の奥底に内包された、憤りと理不尽さへの諦めと、
抑圧された自己主張を全て、解き放ってくれた。
 少なからず、肩の荷を下ろさせてくれた。
 今はこの世にはいないけれど・・・

 繭は三十三歳でこの世からオサラバした。
 実際は、自宅で冷たくなっていた。
 警察の捜査では、事件性はないと思われると判断された。
 しかし、私にとっては、繭が声を発しない、目を見開かない、息遣いを感じる術が永遠に停止している。
 その事柄一つ一つが、事件だ。
 結局、繭とは、愛は成立せず、欲を残す形で、関係性にピリオドが打たれた。
 彼女は、常識にとらわれない存在ではなく、常識が、彼女の意識には存在しない人だった。
 
 ある土曜日の夜21時頃、私の携帯が鳴った。
 繭からだった。
 かったるいので、当時の私は繭からの着信を無視した。
 留守電に何かメッセージが吹き込まれていた。
 音声の中身は聞かなかった。
 夜22時頃、再度、電話が鳴った。
 着信番号を暫く見つめた。
 出るか迷った。
 再度、スルーした。
 留守電になったが、そのまま直ぐに切電された。
 鼻で溜息をついた、私は、風呂の支度をした。
 風呂の支度から戻ると、着信メールが届いていた。
 まだ、LINEなど存在しない時代。
 相手の心打ちが、手に取る様に推し量れるのが、メールの文面だけだった時代。
 心の誘われるままに、受信メールを開いた。

 数分後、私と繭は、私の最寄り駅近くにある居酒屋に二人で言葉を交わす事もなく、入店した。
 彼女は、私の最寄り駅に突然出現した。
 以前、最寄り駅の話をした事があったこと自体忘却の彼方だった。
 少し薄暗い店内で、繭の切れ長の目は、妖しさを増し、性的欲求を湧き起こさせてくれていた。

 彼女はひたすら飲んでいた。
 あえて記憶を無くす事を目的とすべき覚悟がヒシヒシと感じ取れるほどに。
 そして、自らの心境と現状を止めどなく捲し立てた。
 私が何か口を挟もうとしても、掌で私の口唇を塞ぎかねない勢いで、私の発声を制止した。
 私は、ある時から、ただひたすら彼女の言葉の表現に控えめに頷き、
同意を求められた瞬間だけ、コクリと頷き、「うん、そうだね」と彼女の感情に寄り添う姿勢を見せた。
 無論、彼女が頬を紅潮させ、色気を、正確にはエロさ加減を蓄積していく事で、
色々な想像と妄想を絶えず、ずる賢さにおいては、なかなかしたたかであると自負している
自分自身に陶酔しながら、思いを巡らせていた。
 彼女の周囲からの評価は普段から何を考えている女か分からない、が定番の彼女評だ。
 正直、私自身、彼女の本質を推し量り兼ねていた。
 私に対しては親し気に多弁に話し込む。
 しかし、心の奥底のどこかで本心は曝け出していない、と思わせる。
 本心は別にある。深層心理は、発している言葉と真逆の思いを常に携えている。
 抑圧されているものを引きずり出したい。暴き出して、曝け出して、繭の心を裸にしたい。
 心を裸にした状態で、目の前の切れ長の目をした艶めかしく
危うい雰囲気を醸し出す女をしおらしく、そして従順な精神状態で、繭の目前で、
彼女の言葉を静かに受け止めている私に対し、彼女自身自ら、彼女の全てを曝け出し、
脱ぎ捨てる事を、自ら進んで行動を起こすように促すべく、私は話の展開に
歩調を合わせながら、私が差し向ける方向へ彼女を仕向けて行った。

 閉店の時間の知らせが店員から告げられた。
 彼女はまだ、暫く飲みたそうだったので、グラスにアルコールを注ぎ、この日、
彼女が好んで注文した銘柄の酒類をラストオーダーした。
 「これが最後だから」と店員に念押しして。
 渋々、了承し厨房へ去って行く店員の姿をみて、彼女は吐き捨てた。
 「アイツ、ムカつく。客の言われた通りにしろよ。ねえ、そう思うでしょ!」

 私は、淡々と言葉を紡いだ。
 「ああ、君の言う通りだ。僕は君の意見・・・思いに従うよ。キミの思う事は僕の思いと
シンクロしてる。いつも・・・」

 彼女は、薄っすら笑みを浮かべた気がしたが、僕の視線を感じ取り、すぐに黙り込んだ。
 まだ、完全に酔っていないのか、意識を支配する意思はまだ失われていないのか、
本心をまた、スッと覆い隠し、僕の下心を煙に撒いた。

 それからしばらく、互いに、一言二言、声を発する度に、しばし沈黙を繰り返すという事が続いた。
 同様の状況は続いたが、彼女は何かキッカケを探しているようだった。
 少し、何かを我慢しているのか、心の中で、イライラしている感覚を、
必死に抑え込み、いつ、感情を爆発させるべきか推し量りながら、チャンスを窺っている、と直感した。
 
 彼女は、今夜、決めたがっている。
 そう、直感した。
 彼女の固い決心が読み取れた。
 薄暗い個室の中で、同じ空間の空気を肌で感じ、彼女の表情や仕草と、
言葉尻から、彼女の本心が、少しづつ垣間見え出し、彼女の心の内が、
自然と溢れ出しているのが、目に見えなくても、テレパシーともいうべき
人間の本質を見抜く洞察力が、彼女の相対する乙女心と欲望を引き当てた。

 しばしの沈黙の後、互いに何の言葉も交わさず、席を立ち、上着を羽織った。
 会計に向かう途中、彼女は至極当たり前の如く、僕の腕に自らの細やかな手を添え、
やがて、僕の上着を掴み、上着の下に潜む僕の上腕筋を逃さないように、
ガッシリと握り、会計中も決して手放す事はなかった。
 まるで、目の前の店員に、私を自らの所有物であると宣言し、容認する事を強要するかのように。
 店員は関わりたくないのか、一切、目を合わそうとはしなかった。

 店を出ると少し肌寒く感じた。
 互いに、薄手の上着を羽織っていたが、上着の下は俺はTシャツ一枚、繭はタンクトップ姿だった。
 繭の肢体にボリュームは感じられなかったが、時々上目遣いに相手の心を窺う瞳と、
口元に薄っすら笑みを浮かべる仕草が仕組まれた計略ではないかと半信半疑でありつつも
理性を外堀から覆い囲み、ヒタヒタと瞳の奥から侵入し、下腹部を火照らせ、太腿と臀部が
プルプルと震えだしているのがはっきりと分かった。

 繭は俺の指と指の間に、自分の指を一本一本絡めてきた。
 そして、指の第二関節を折り曲げ、ジワリと俺の指の付け根を全て抑えつけ、ギュッと、しっかりと握った。
 更に、私の肩に頭を凭れかけ、何かを囀るように喉の奥から鼓動を波動させ、
俺の心臓に繭の意志を伝播させようと肢体を密着させてきた。
 衣服を突き抜け、俺の肌は、繭の肌に根負けし、とうとう、繭は、俺の領域に侵略し始めた。
 抗うことは出来ない。
 愛は求めていないのだから。
 欲と欲が擦り合い、共に手を合わせ、互いを欲し合っている。
 人々が声高に叫ぶ、愛は、何処かへ隠れたのか出場の機会を失い、『欲』が主戦場に躍り出た。
 溶け込ませながら、ほんの少しだけ、欲が解放される前の準備の時間に、身を任せた。

 もう、俺の自宅は見えていた。
 繭が呟いた。
 「アタシ、貴方と同じ人だと思う」
 俺は囁いた。
 「そんな気がした」
 空いている腕を俺の腰に廻し、繭は、俺の身体を引き寄せた。
 俺の目を見つめ、熟した花弁が、春を待って周囲を一瞬に支配する桜の花びらのような、
職場ではただの一度たりとも見た事のない華やいだ笑顔を見せた。
 気付くと俺は、自宅マンションのエントランス前で、繭と抱き合い、繭の匂いと胸の膨らみを確認する作業に没入していた。

 部屋の鍵を開けた。
 「いよいよだね」
 繭が悪戯っぽく微笑んだ。
 「送ってくれてありがとう」
 意地悪く、はぐらかした。
 そのつもりだった。本心を装う為に。この期に及んで。
 繭は、したたかに、手を小さく振りながら、一歩、また一歩と後ずさりし始めた。
 俺は、ドアのカギ穴に鍵を差し込んだまま、全ての空間と時間と意識が停止した。
 繭が後ずさりを止めた。
 まだ、笑みを浮かべている。
 
 「泊まってく?」
 そう、絞り出した。

 「私、高いよ」

 「風呂、トイレ付。冷蔵庫にはプリンもあるよ」

 「甘いね~」

 「プリンじゃダメかな?」

 「飲んだ後に、プリン?」

 「プリン目にしたら、欲が湧くよ」

  さっきの桜の花びらが戻って来た・・・

 「試してみるか!」

 俺は鍵を開け、ドアを開放した。
 大手を拡げ、繭を部屋の中へ手招きした。

 玄関に入り、繭が口を開いた。
 「今日は、きっと忘れられない夜になるよ。貴方にとって」

 「どんな夜になるの?」

 「繭ちゃんが初めて貴方のウチにお泊りしてあげる日!」

 靴を脱ぎ、電気を点け、部屋の中へと駆け上がり、普段の俺の寝床を見つけ、彼女は、
一目散に寝床目掛けてダイブした。

 「お休みなさ~い」

 俺の布団に顔を埋めた。

 俺の布団の上に女が横たわっている。
 その女は、俺が日常を僅かでも垣間見ている女だ。
 職場で顔を突き合わせている。
 今日は土曜日だ。
 週明けの月曜日にはまた、余程の事がなければ再び互いに言葉を交わすことになる。
 「おはようございます」という取り繕った単語をざわとらしく発しながら。
 繭は暫く身動きせず、うつ伏せの姿勢でジッとしていた。
 
 「酔った?」
 そう、さり気なさを装い、優しく繭の後ろ髪を撫でた。

 「嗅いでるの」

 「嗅いでる?」

 「貴方の匂いを。メインイベント迎える前に前菜を少し嗜もうと思って」

 「なんで、そんな事」

 「私、欲深いの。一滴でも漏らしたくないの」

 俺は、少し力加減を付け足し、何度となく繰り返し、繭の後ろ髪に意識を集中した。
 繭が感じ取ってくれるように。意識を込めて。

 「貴方、もう私のモノだから。少なくとも今夜だけは」

 「今晩だけ? 1度きり?」

 振り向きざまに彼女は、繭の髪を撫でていた私の手を握り、自らの胸に、私の神経の突端である指先を触れさせた。
 
 私は、その手を振りほどこうとした。
 しかし、繭は手放してくれなかった。
 もう片方の空いた手で、繭の頬に指先を伸ばした。
 繭は私の神経の突端を拒み、顔を背けた。

 「演技はいらない」

 繭は厳しい眼差しで、僕の瞳の奥を脅迫し、僕は視線を逸らすことが出来ぬまま、心の奥底で呟いた。

 「ゴメン・・・」

 「じゃあ、どうしたいの」

 繭は、自ら導いた、俺の手を以前よりも増して強く握り、繭の胸の突端に触れていた指を
少しづつ自分の懐に引き寄せ、繭の胸元は僕の掌で覆われた。
 彼女はゆっくりと口元を綻ばせた。
 僕は、視線を落とし、繭の思惑をはぐらかそうとした。
 全て見抜かれているのを少しでも誤魔化したかった。
 繭は、僕の視線を落とした先に、自らの長くしなやかな指を出現させ、僕の太腿に指を這わせてきた。
 上下にかつ両の脚を交互に攻め立てた。
 少しづつ、僕の脚の付け根に接近しながら。

 僕達は、互いの顔を手繰り寄せ、瞳孔の奥に潜む本心と、愛の象徴である接吻をいまだ交わしてはいなかった。

 「愛は求めてないでしょ」

 「そうかもしれない」

 「最初から分かってるくせに」

 繭は、俺のズボンのポケットの中に指先を忍び込ませた、
 ポケットの中を探検し、何かを探り当てるように。

 「こっちじゃないね」

 繭は、ポケットから指を引き抜き、指先を舌で舐め、下唇を腹を空かした狼のような眼つきで舌なめずりをして見せた。
 笑顔はなく、臨戦態勢に入った動物の本能を曝け出した雰囲気を醸し出し始めた。

 私は身動きがとれず、微動だにしない体勢で繭の次の行動を怯えたウサギの如く待ち続けた。
 繭は、さっきとは異なる、私のズボンのポケットに、私の一瞬の隙をついて侵入した。
 今度は激しく乱暴に、ズボンの中を掻き回すように。
 繭の指の甲が、私に触れた。
 私は体が硬直し、躰の下から脳髄に掛けて、ビクンと脈打つのを制止できず、
 繭にその感覚を悟られたという事がはっきり認識できた。
 得も言われぬ敗北感に襲われ、引くか自らを解き放つか、判断を刻一刻と迫られる程、追い詰められた。
 繭は、ズボンのポケットの内側から、私を刺激しながら、空いたもう片方の手で、
脛に指の甲を押し当て、靴下の突端から指を私の肌に触れるために忍び込ませ、瞬く間に、
私を覆っていた私の身に着けてい衣類をずり下げた。両の脚共に。

 繭の唇は度々舌なめずりしているお陰で潤いを放ち、艶めかしく煌いた光を湧き出し始めた。
 繭の唇を吸いたい。
 ずっと、その思いに駆られ、繭の容貌に向かい少しづつ距離を縮めた。

 「私、高いって言ったでしょ」

 僕は躊躇せず、唇を繭の口元に近付けた。

 「一晩だけ満足できないの?」

 繭の至近距離で、繭の輪郭を確認し、繭の瞳に焦点を合わせた。
 繭はただ、ジッと黙り込み、僕の真意を図っているようだった。

 「人間、気が変わる事もある」

 繭の髪に触れ、耳を撫でながら、繭の頬を自分の掌で包み込んだ。

 「私、面倒臭い事とか、駆け引きとか好きじゃないんだ。悩みたくないんだよね」

 「今、思うがままに行きたいだけだよ」

 「行きたいを優先すると、後で生きたいが苦しくなるよ、多分。私だと」

 「そうなったら、その時」

 「分かった。後で私のせいにしないでね」

 繭は俺の唇に自らの滑り気のある下唇を這わせてきた。
 ズボンのポケットの中に忍び込ませた指先で私を包むのと同時に。

 私達は、欲と愛の間を彷徨い、時には、互いの気持ちを探り当てる事に意識を集中しながら、答えを求めた。
 無論、一晩で答えが出せる訳はない。
 歪曲した価値観を所持している二人なのだから。
 欲を愛に化けさせる事も出来る。一晩だけ。
 互いの真意は語らない。
 その時、愛を成り立たせている欲は、無残にも崩落してしまう。
 その瞬間、感情は冷凍され、どちらかが放棄され、永遠に手の届かない場所へ放り込まれる事となる。
 心の何処かで、「それは避けたい」
 その思いが少なからず、それぞれの思惑には存在する。
 その事だけは、互いに感じ取っていた。
 

 (了)