ふたりぼっち兄弟―Restart―



 最重要参考人である、下川治樹と面会できたのは、それから三日経った後のことだった。
 未だに被害者の少年は目を覚まさないらしく、付きっ切りで看病している下川の顔色はまるで死人であった。端正な顔だというのに、隈が目立つ。

 そんな中、呼び出してしまったことが申し訳なく思うが、早急に犯人を捕まえなければならない。

 これは『無差別通り魔事件』と睨んでいる。
 野放しにしておけば、第二の被害が起きるやもしれない。現場の目撃情報はたいへん貴重だった。

 彼を連れて来た、部下の勝呂は大層疲弊しているようだった。
 此処まで連れて来るのに一悶着あったらしい。
 被害者の気持ちを考慮し、病院の会議室を借りて移動時間を皆無にしたのだが、それでも下川は片時も弟の傍を離れないと言って聞かなかったそうだ。
 かと言って、こちらが病室に赴き、事情聴取をするという提案には、「弟に近付させるか」と牙を向いたとか。

 とにもかくにも、下川は過剰なまで警察に対して警戒心を抱いている様子。それは会議室に入り、こちらを見てきた眼光の鋭さで分かった。何故か、大きめの紙袋を持参していた。

(こりゃあ骨が折れそうな事情聴取になりそうだな)

 益田の嫌な予感は、みごとに的中する。
 始まった事情聴取に対し、下川は一切口を利こうとしなかった。
 何を聴いても、うんともすんとも言わない。黙って腕と足を組み、こちらをじっと睨むばかり。まるで獰猛な獣のようだ。

 柴木が口を温めるために世間話を振ってもだめ。勝呂が弟を気遣うような発言をしても無視。益田が率直に聴いても口は開かない。下川は黙ったままであった。
 これでは取り調べにならない。

「頼むよ。また犠牲が出るかもしれねぇんだ」
「また?」

 ようやく下川が口を開く。じつに、三十分後の話だった。


「警察さん方は、この事件をなんだと思ってやがるんだ。まさか、通り魔事件だとでも?」

 だったら警察は無能だと下川。
 ただただ、ふざけた連中だと悪態をついた。
 こういった悪態は慣れているので益田も、柴木も、勝呂も感情的になることは少ない。三人は弟が襲われたせいで、下川の気が立っているのだと判断していた。

 しかし。

「それとも、無かったことにするってか。俗にいう隠蔽って、あれか」

 せせら笑う彼は残念だったな、と鼻で笑い、取り出した携帯を机上に置いた。
 間もなく、そこから流れてくるのは、下川らしき声と少年の声。そして警察の声。内容はストーカー被害の相談と、それを悪質な悪戯だと笑うもの。

(……ばかやろう共が)

 益田はこめかみに手を添えた。下川が警察に警戒心を抱くはずだ。

「数日分、録音している。いつもそうだ。警察に真実を言っても、俺達はばかを見る」

 もしも、警察がもっと誠実に対応をしてくれていたなら。真剣に聴いてくれていたなら。相談に乗ってくれていたなら。弟は刺されなかったかもしれないのに。
 下川の顔が歪む。

「なにが、悪質な悪戯だ。なにが、親に相談しろだ。これが、悪戯かよ!」

 パイプ椅子を倒し、持参していた紙袋を机に叩きつける。
 衝撃で横たわる紙袋からは、大量の写真が出てきた。

 どれも、被害者の少年が写ったものであった。

「俺は相談していたんだよ! 弟が不審者に追い駆け回された。その日から隠し撮りされた写真を送りつけられるようになった。弟を性的な目で見ているカードが送られている。どうしたらいい? って」

 なのに、返って来たのは、こちらを嘲笑うものであった。

「また犠牲者が出るだ? ざけるな! 出るわけねぇだろうが! 犯人は最初から那智を狙っていたんだ! 俺の横を通り過ぎて、那智をッ……那智を……狙われているのは分かっていたのにっ」

 下川が言葉を詰まらせる。感極まったのだろう。
 血が出るほど下唇を噛み、「俺が甘かったんだ」と、後悔を口にする。
 もっと自分が考えて動けば良かったのだ。警察を頼ろうとした自分が馬鹿だったのだ。弟を外に出さなければ良かったのだ、起こした行動がすべて間違いだったのだ、と。


「もう、那智を傷付けさせねえ。他人に――俺の弟を触れさせるもんか」

 一変、下川が能面になる。ぞっとするほど、冷たい顔だった。

「そうだ。傍に置こうしたのが間違いだったんだ。本当に大切なら、傍に置くなんて生ぬるい。あいつは、那智は、那智は俺のだ」

 携帯を引っ掴むと、語り部となっていた下川は早足で扉へ向かう。
 これ以上、話すことなんてないと言わんばかりの態度であった。

「後のことは、俺達を笑ってくれた警察に聴いてみりゃいいんじゃねーの? あんた達も、どうせ今の話に笑っているんだろうがな」

 嫌味と言葉と写真を残し、下川は会議室を出て行った。
 静まり返る一室に、益田の重々しいため息が響く。


「柴木、勝呂、下川那智のストーカー被害に関する相談について片っ端から洗え。この事件は根が深い」


 まったくもって、骨の折れる事件に当たってしまったものだ。



【4】


(頭が、いてぇ)


 ぐらぐら。ぐらぐら。

 世界が大きく、小さく揺れている。
 それは寝不足による目の錯覚。一睡もしていないせいだろう。
 平衡感覚が掴めない。体が限界だと悲鳴を上げているのかもしれない。
 だけど、俺の精神は一切の眠気を拒んでいた。眠れるわけがなかった。那智がいつ、目を覚めるかも分からないのに。

 1205号室。下川 那智さま。

 表記された個室の病室にやっとの思いで辿り着いた俺は引き戸をのろのろと開ける。
 その向こうで俺を待っていたのは、真っ白なベッドで眠りに就く弟の姿だった。血の気のない顔に、消えそうな呼吸。細い腕に点滴が刺さっている姿は、なんとも痛々しい。

「まだ、目は覚ましてない……か」

 ベッド側のスツールに座り、那智の頭を撫でる。
 警察に呼ばれ、小一時間ほど病室を離れていた。
 その間に、もしかすると目を覚ましているんじゃないかと淡い期待を抱いていた俺は、小さく落胆をしてしまう。
 はやくお前の声が聞きたいよ。もう三日も那智の声を聞いていない。

(……それだけ出血が、傷が、酷かったってことだよな)

 担当医曰く、あの時もしも優一が止血の応急処置をしていなかったら、弟の命は危ぶまれていたそうだ。あれがあったから那智の手術は成功し、命に別条がないと診断された。
 失血死の可能性があったという、その現実が俺を絶望に突き落とす。自己嫌悪が止まらない。ストーカーのことを甘く見ていた。

 毎日のように大量の写真を送りつけていた、変態野郎が、いつまでも写真を送るだけと、どうして思い込んでいたんだろう。

 相手は那智に執着したストーカー。
 性的なカードを送りつけていた野郎が、那智に何もせず、写真を送るだけなんてあり得なかったんだ。あり得なかったのに。

 俺はほんのりと冷たい弟の右手を取り、しっかりと両手で握り締める。

「ごめん、那智。本当にごめん。ごめんな。痛い思いをさせちまって」

 お前が痛みをなによりも恐れている、泣き虫毛虫くんだって知っていたのに。

 あの時、どうしてあの時、もっと真剣にストーカー被害について向き合わなかったのか。


 また、ぐらぐらと揺れ始めた視界を遮断すように瞼を閉じ、俺は謝罪と後悔を繰り返す。

 那智は、生涯消すことのできない傷を負ってしまった。
 母親から受けた暴力の他に、大きな傷が刻まれてしまった。きっと、その傷を見る度に那智は事件を思い出すに違いない。どんな形であれ、ストーカーに思いを向けるに違いない。

 それが、とても悔しい。那智を大切に思っているのは俺なのに。
 それが、とても妬ましい。弟には兄貴だけを思っていて欲しいのに。
 それが、とても羨ましい。俺も那智に傷を見て思われたい。

 なによりもこわい。
 絶対だと思っていたふたりの世界が決壊するかもしれない、その“いつか”が。そうなる前にどうにかしないと。どうにかしないと。どうにかしねーと。

(何もせずに終わったら、いつか俺はひとりになる)

 そんなのいやだ。
 この世界が崩れないと信じられる、絶対、が欲しい。俺は那智が欲しい。

(ほしい)

 握り締める那智の手に目を落とす。
 小さな手だ。枝のように細い指は、力を加えるだけで折れてしまいそう。
 おもむろに弟の手を持ち上げ、手の甲に舌を這わせる。味はしない。人差し指を歯で軽く噛んでみると、小さな歯形がついた。俺の歯形だ。痕がつくことが嬉しくなって、夢中で噛んでしまう。

 我に返った時には、歯形だらけの手になっていた。
 俺は弟相手に何をしているだよ。重傷人の弟に、なにを……噛むことが快感になっていた、なんておかしいだろう。

(だめだ。頭痛がひどくなってきた)

 三徹が地味に効いているのかもしれない。
 俺はひどくなり始めた頭痛に重いため息をつくと、那智の手を握りなおし、上体をベッドに預けた。あれほど拒んでいた眠気が、どっと波のように襲い、気付けば意識を失っていた。


 ちょっとした昔話。

 那智が生まれる前の俺は、とにかく母親に愛されようと必死だった。
 なんでもいいから、俺を認めてほしかった。笑い掛けてほしかったし、抱っこをしてもらいたかったし、いい子だと頭を撫でられたかった。

 だから、ひたすら我慢をしていた記憶がある。母親やとっかえひっかえに作ってくる彼氏の暴力や暴言に。
 それに耐えられなくて近所に助けを求めた日まで、ずっと我慢をしていた。

 助けを得られなかった以降の記憶は、よく憶えていない。
 ぼんやりと殴られて過ごす日常を送っていたと思う。見切られたショックのせいで、幼い俺の心は死んでいた。

 心を取り戻し始めたのは那智が生まれて二年くらい経った頃だったか。
 それまで那智が生まれても、なんか小さい奴が家にいるってくらいの認識がなかった俺は子守を任されると、それを淡々とこなしていた。

『にーぃ?』

 言葉を覚え始めた弟は、世話をする俺の名前を呼ぶようになった。適当に返事をしてやると、意味も分かっていないくせに笑いを返した。
 それは俺が求めていた物のひとつ。笑い掛けてくる弟が見たくなり、もっと世話をした。

 決定的になったのは、俺が母親に手をあげられ、怪我をした日のこと。
 いつものように、殴られ自室に閉じ込められてしまった俺は、鬱陶しいという理由だけで部屋に放られた那智と一緒に過ごすことになった。

『いちゃい?』

 体の節々が痛くて、弟の世話をする気分じゃない俺に那智は歩み寄り、そして腫れた頬を見つめ、こんなことを聞いてきた。

 素直に痛い、と答えるとどうだ。
 弟は頬を撫で、傷を癒そうとした。体を突き飛ばしても、離れろと強めに言っても、那智は泣かずに頬を撫でてくる。

 こんなことをされても痛みなんて消えるはずないのに、消えるわけがないのに。弟の俺を思う優しい手が痛みを忘れさせてくれた。

『にぃ、いいこ。いいこ』

 十二分に頬を撫でた後、那智は俺の頭に手を置いた。
 そして、幼い声でいい子だと言って聞かせた。殴られた俺を見て、悪い子じゃない、いい子だと励ましてくれた。

 俺がなにより欲しい言葉を、小さな弟がくれた。殴られて続けていた俺は、どこかで思っていた。自分が悪い子だから母親は愛してくれないのだと。
 だから、自分がいい子だと言われた瞬間、何かがぷっつりと切れてしまった。

 気付けば、声を殺して泣いていた。
 完全に心を取り戻した俺は、弟の体を抱きしめ、心も体も痛いことを訴えた。それを癒そうとする那智も、俺と一緒に泣いてくれた。

 誰かが自分のために泣いてくれたことも、撫でてくれたことも、癒そうとしてくれたことも初めてで、俺はむせび泣いた。
 こいつだけが俺を愛してくれる、そうに違いない。ただひたすらに泣きながら、そう思った。


「――……ぃ……こ……ぃぃ……」

 かすれ切った音と、揺れる髪の振動に重たい瞼を持ち上げる。いつの間にか眠っていたようだ。

 瞬きをする間もなく覚醒する。
 握っていたはずの弟の手がそこにはなく、俺の頭の上に移動していた。それに驚いて顔を上げると、小さな手がするりとベッドの上に滑り落ちる。

 腕を伝った先に、半開きになった目とかち合う。俺の視線に力なく笑いかけたのは、まぎれもなく、たった一人の家族。
 声にならない声で、「いい子」と呟く那智を見つめ、見つめ、みつめ。情けなく顔をくしゃくしゃにしてしまう。

「なちっ……なち……よかった、ほんとうに。よかった」

 あの時のように、那智を抱きしめことはできなかったけど、小さな手を拾って大粒の涙を流す。
 俺を愛してくれる、最愛の家族が目を覚ましたことに、ただただむせび泣いた。


【5】


 那智が目覚めたことで、俺のささくれ立っていた気持ちが、少しだけ落ち着きを取り戻す。

 初日こそ口を利くことが難しかった弟だけど、日を跨ぐと会話ができるようになった。
 長時間しゃべると腹に響くようだが、それでも俺と積極的にしゃべろうとしてくれる。たぶん、やつれた俺に思うことがあったんだろう。

 ただ食欲は皆無で、どろどろの重湯を食べきることができずにいた。
 日が経ち、お粥に切り替わっても、それを完食することは難しい。頑張って食べようとしているんだが、半分まできたところでギブアップしてしまう。

 その代わり、オレンジジュースを差し出すと、すすんで口に含む。飲み切れなくても美味しそうに飲んでくれる。甘味が大好きな那智だからこそ見れる姿に、俺はホッと胸を撫で下ろした。
 少しずつでもいい。食欲を取り戻してくれたら、兄さまは嬉しいよ。

「おれ、刺されたんですよね……」

 那智は刺された当時のことを、よく憶えていないそうだ。
 気付いたら、腹に燃え上がるような激痛が走り、膝を崩して悶えていた。だから犯人の顔はまったく記憶にないと、俺に語ってくれる。

「もし、憶えていたなら、逃げた犯人の手掛かりになったのに。おれが一番、顔を目撃できる可能性があったのに。ごめんなさい」

 そう言って謝罪する那智に、俺はかぶりを横に振った。
 今回の事件はお前のせいじゃない。那智は完全なる被害者だ。どこにも非はない。

 責められるべき人間は犯人と、ストーカー被害を嘲笑った警察だ。あいつらだけは絶対に許せない。特に、お前に傷を残した犯人は見つけ次第、見つけ次第……。

 十日目の昼下がり。
 俺は那智のために、買って来たゼリーをスプーンで細かく砕いていた。
 より食べやすく、喉通りを良くするためだ。クラッシュタイプを買って来ても良かったんだが、生のフルーツも食べさせてやりたかったんだ。那智曰く、病院の病人食はまずいらしいから。

「那智。体を起こすぞ。痛かったら言えよ」

 ゆっくりと体を起こしてやり、枕をクッション代わりに置いてやる。

「あいててて」

 那智が顔をゆがめた。ちょっとの衝撃でも縫合した患部が痛むらしい。

「大丈夫か? 枕をずらすか?」

 ううん。首を横に振る那智は枕に背をあずけて、長い吐息をつく。
 そして不満気に唸った。

「兄さまに迷惑をかけている、この体が憎いんですけど。はやく治らないかなぁ」

「あほ。お前の体は長時間の手術にだって耐えたんだ。少しは労わってやれ」

 そう言っても、那智は自分の不自由な体が憎くて仕方がないらしい。はやく治りたい、元気になりたい、動けるようになりたいとぼやいていた。

「早く兄さまと家に帰りたいです。ここは退屈で退屈で。おれがこんな状態だから兄さま、大学にも、バイトにも行けていないでしょ? ずっと泊まってくれて……」

「俺はいいんだよ。バイト先にも、大学にも、ちゃんと事情を説明している」

 ここで寝泊まりする分にも、まったく問題はない。
 事情が事情だからか、ここの個室は他の個室よりも豪華だ。テレビや洗面台はもちろん、バスやトイレ、ソファーにテーブルと、まるでホテルのような部屋だ。ミニキッチンもあるから、そこで食事も作れる。
 一般の患者として泊まっていたら、たちまち数十万飛んでいきそうな病室だ。

 ちなみにこの部屋は俺の意向じゃなく、病院側の配慮。

 那智はいま、世間を騒がせている事件の被害者だ。
 どこぞのテレビ局や新聞記者が取材に来るやもしれない。また病院には多くの患者が入院している。平穏を守るためにも、中流の一般人が手を出さないであろう個室を手配してくれた。

 有り難い配慮だった。
 おかげで、俺も穏やかな気持ちで病室に泊まることができる。

「兄さま。おれ、いつ動けるんですか?」

 那智の口元にゼリーを運んでやる。
 スプーンごと、ゼリーを含んだところを確認し、「まだまだ先の話だ」と返事をした。

「まずは起きる練習。次に立つ練習。で、歩行練習だ。しばらくは車いすで移動だな」

「ええー?! 車いすぅ?」

「当たり前だろ。無理に動いて傷が開いたらどうするんだ。担当医の許可が出るまで、那智が嫌がろうと俺は車いすに乗せるからな」

 死ぬほど心配させたんだから、これくらいの言うことは聞いてもらわないとな。

「あと、もう少し元気になったら、血を作るもんを食わないとな。毎日夕飯はレバーだ」

「うぇえ。兄さま、おれがレバー嫌いなの知っているでしょ!」

「これを機に好きになりゃいいじゃねーか。体にはいいことだ」

 さも当然のように言うと、那智が血相を変えてしまう。
 こいつは知っている。兄貴が一度言い始めたことは、必ず実行されるってことを。

「れ、レバー以外なら食べますから!」

「あ、言ったなお前。じゃあ、毎日ひじきと大豆を出してやる。それも血を作るらしいぜ」

 那智がしかめっ面を作った。
 予想通りの反応に噴き出してしまう。お前はひじきも大豆も好きじゃないもんな。ほんと、いじめ可愛がりたくなる反応だよ。

「面白い番組ないかなぁ。お昼のドラマってあんまり面白くないですよね」

 話題を替えるために、那智が何気なくサイドテーブルに置いていたリモコンを取って、テレビを点ける。