【1】
「下川那智さん。急いで中庭に避難してください」
その日、おれは何の変哲もない入院生活を送っていた。
いつものように朝七時に起床。八時に運ばれる朝ご飯を取って着替え。九時過ぎに出掛ける兄さまを見送り、十時からリハビリ室で歩行練習。正午過ぎになると病室に戻って昼食。
昼過ぎに帰宅すると言っていた兄さまから、前もって見舞客が来ると伝えられていたから、ちゃんと話せるかどうか発声練習をしたり、ダメだった場合はスケッチブックを用いてコミュニケーションを取ろうと準備をする。余った時間は午前中から午後までの出来事を日記に綴って暇を潰す。
そんな平和で面白味もない時間を過ごしていた、はずだった。
(中庭に避難?)
おれは日記を書く手を止め、病室に駆け込んで来た看護師さんの発言に困惑してしまった。
入院生活をしているうえで避難する、なんて殆ど縁がない言葉だと思っていたのに。ううん、それこそ日常生活においても、まったく耳することのない言葉だと思う。なのに看護師さんは早口に「避難してください」と言ってくる。戸惑わないわけがなかった。
そんなおれを差し置いて、看護師さんが中庭へ誘導してくる。
同時に耳がつんざきそうな火災報知器が鳴ったから、おれは病院のどこかで火災が発生したのだと気づく。急いで日記を閉じると、スケッチブックとボールペンを持って、ベッドから下りて看護師さんの指示に従った。
「下川さん。車いすに乗りますか?」
歩行できるか、と聞かれたから、おれはひとつ頷いて答える。
中庭までの距離ならそう遠くもないし、車いすは移動に便利だけど、誰か付き添いがいないと少し難しい福祉道具だ。兄さまは不在だし、おれ自身も車いすでの移動は減っている。本当に火災が起きているのであれば、身軽に動ける歩行の方が良い。看護師さんは他の患者さんにも声を掛けて、避難させなきゃいけないだろうから、おれのことで手間をかけさせるのは申し訳ない。
おれは歩行で中庭まで移動することを決めた。
(……すごい煙だった)
ようやっとの思いで中庭に避難したおれは、病院内に立ち込めていた白煙を思い出し、身震いをしてしまう。病室を出た先は白煙。本当に真っ白で右も左も分からなかった。
看護師さんが煙を吸わないよう、おれにマスクを渡し、優しく手を引いて誘導してくれたおかげで、無事中庭に避難することができたけれど……中庭に出て、改めて思わされる。すごい煙だったなって。
だって本当に前が見えないくらい、前後左右真っ白だったんだ。
中庭から病院を見ると、大量の白煙がもくもくと出ているのがハッキリと分かる。ということは、それだけ激しい火事が起きたんじゃないかな。
(それにしては焦げるような臭いとか全然しないな。マスクを外しても焦げ臭さを感じない)
息苦しいマスクを外して、ぐるりと辺りを見渡す。
中庭から見えるのは白煙ばかり。焦げた臭いも火の気も見えない。