ふたりぼっち兄弟―Restart―



(まじで今日は厄日なのかもな)

 優一と早川の気遣いを一身に受けながら、第一校舎を後にした俺は大学敷地内にあるトイレの個室でおう吐した。
 手前でも思った以上にダメージを負ってしまっているようだ。
 それは優一の心配だったり、早川の嫉妬だったり、高村の好意だったり、福島の発言だったり、他人の感情を完全拒絶している俺がいる。

 だあれも俺達を放っておいてくれねえ。
 自分のことじゃねえのに心配して、嫉妬して、ろくに他人(ひと)他人のことも知らねえくせに好意を寄せて、特別だとかほざきやがって。俺の、俺達兄弟の、何を知ってやがるんだよ。
 俺は便器の蓋を閉めるとそこに座り、気分が落ち着くまで、ぼんやりとそこで過ごす。親父のこととか悩まなきゃいけねえんだが、正直いまは自分の感情処理で手いっぱいだ。

「気持ちわる……」

 他人が向けてくる感情が、すごく、好意がすごく気持ち悪い。

「なにが下川くんには支えが必要、だよ」

 お前は今まで俺を支えるどころか、赤の他人だったろうよ。
 急に十年以上、一緒にいるようなクサイ台詞を吐きやがって。きもちわる。
 性格悪くそんなことを思う俺は、これまで以上に他人の感情に敏感になっているようだ。特に他人の寄せてくる好意は身の毛がよだってしまう。高村の向けてくる好意がきもちわるい。ほんとうに気持ちがわるい。

「なにが特別だよ」

 俺が一番に特別だって思っているっつーの。俺がいちばんに。

(この後も予定があるのにな)

 立ち上がる気力が湧かねえや。
 ふとショルダーバッグに入れている携帯が、忙しなく震えていることに気づく。

 相手を確認すると『勝呂芳也』と画面に表示されていた。
 俺の携帯には警察関係者の連絡先が入っている。俺の連絡先を知っているのは益田と柴木と勝呂。向こうは仕事用の端末に俺の連絡先が入っていて、捜査関連のことで連絡を取り合うかたちにしているんだが、いまは出る気力が湧かない。
 だけど携帯はいつまでもバイブを鳴らす。いつまでも切れてくれない。もしかして緊急か? もしそうじゃなかったら、怒鳴り散らすぞ。

 俺は苛立ちを覚えながら電話に出る。

「立て込んでいるんだ。手短に用件を言え」
『あ、兄さま。いま忙しいですか?』

 この声は那智? 勝呂じゃない、だと?

『忙しそうなら電話切りますね。大した用件じゃないんで』
「待て待て。那智切るな。大丈夫だから」
『兄さまならそう言ってくれると思いました』
「おいこら那智」
『弟はずるいんです』

 思わず笑ってしまう。那智らしいな。

「生意気になりやがって。お前、なんで勝呂の携帯に」
『さっき病室に来たから、携帯をお借りしたんです。兄さま何時頃に帰って来るかなと思って……おれの携帯、行方不明になっちゃってますし』

 そうか、そうだよな、那智はいま携帯を持っていない。
 俺と連絡手段がないから、誰かに借りるしかねえよな。盲点だった。
 那智は俺が何時頃に帰って来るかどうかが気になっているらしい。そわそわした声に気づいた俺は、さみしいのか、と笑い交じりに聞く。那智は恥ずかしそうに唸り声を上げた後、素直にうんっと返事した。

『今日、歩行練習をしたんですけど。リハビリ室で他の人のリハビリを見ていたら、子どもがお母さんに褒められているところ見ちゃって。妙に兄さまが恋しくなっちゃいました』

 兄がこの場にいたら、誰よりも褒めてくれるのに。那智はそう思ったらしい。

『兄さまが外でがんばっているのは分かっているはずなんです。なのに声が聞きたくなっちゃって。歩行練習がんばったから、いっしょに夜ご飯食べたいな。褒めてもらいたいな。甘えたいなって』

 那智の純粋な気持ちがただただうれしい。
 お前はいつまでも、そのままでいてくれよ。自立も何もしないでくれよ。

「悪かったな。さみしい思いさせて。最近、朝から晩まで留守番にしちまっていた自覚はあったんだ」
『兄さまは何も悪くないですよ。ただ、ちょっと……わがままが出ちゃいました』
「那智。昼飯は食ったか?」
『いいえ。もう少しでお昼が運ばれて来ると思います』
「なら兄さまと昼飯を食おう。歩行練習をがんばったお前に、ご褒美をやらねえとな」
『ほんとですか』
「ああ。今から帰るよ」

 これからの予定は明日でもいいだろう。 
 今日も明日もそう大差はない。
 いま優先すべきなのは、甘えたいと俺を求めてくる那智の気持ちだ。俺も他人に好意を寄せられたせいで、心底弟の愛情がほしい。すげぇ甘えたい。他人の感情に疲れちまった。あれはいらない。俺には必要ない。


「何か買ってきてほしいものはあるか? 遠慮するな」

 すると那智はうれしそうに声を弾ませながら、メロンパンが食べたい、と甘えてきた。

『兄さま、半分こしましょ』

 半分こしたい、か。
 一個丸々食ってもいいのに、お前は本当に変わらないな。実家にいた頃から全然変わっちゃねえ。半分こして食べるのが大好きな弟に自然と笑みがこぼれてしまう。那智のおかげで元気が出てきたよ。
 
「那智」
『はい』
「お前は俺の傍にいろよ。昔も今も、これからも」

 他人の感情を気持ち悪いと思って吐いちまった俺には、もうお前しかいない。
 ほんと他人の好意は気持ちが悪い。

『じゃあ早く帰ってきてくださいね。おれ、さみしいです。いまのおれは自分から兄さまの傍には行けないんですから』

 いつか、お前も同じ気持ちになってほしいよ。那智――ちげえ、俺が教えなきゃな。他人の好意は気持ち悪いって。教えなきゃ。兄さまが教えなきゃな。

 俺はご機嫌に電話を切り、昼飯は何を食べようか、と思案を巡らせる。
 不本意だが吐いちまったから、軽めなものにするかな。うどんにすっかな。そうだ、コンビニに寄る前に那智の携帯を取りに行くか。ストーカー野郎の動きが見えなくなった以上、アパートに放置する理由も無くなったしな。

「ん?」

 メッセージアプリにバッジが表示されている?
 俺は「1」と表示されているメッセージアプリを起動させて、送り主を確認した。

 その名前にしばらく固まってしまう。

『あんたの本当の連絡先は、これで合っているわよね?』

 そしてメッセージの内容にも。

『下川、あんたと話がしたい。どこで連絡先を手に入れたか知りたいでしょう? あたしも知りたい、那智くんのことを――だから話しましょう。二人っきりで』

 それは俺の連絡先を知る由もない、福島朱美からのメッセージだった。 


【5】


 平日の喫茶店。
 時刻は昼下がり、所謂おやつ時と呼ばれる時間に、俺は三杯目のブラック珈琲を啜っていた。

 平日ということで人はまばら。
 店内には名も知れないレトロな曲が流れて、客人を落ち着かせるための雰囲気づくりが施されている。その曲を聴いても、ちっとも腹の虫がおさまらない俺は、ブラック珈琲を飲んで気を紛らわせていた。


「あんた早くない? 約束の時間まで、まだ20分もあるんだけど」


 そんな俺の下にナナシ女のこと、福島朱美がやって来る。

 不機嫌に相手を一瞥するも、相手は悪びれた様子もなく向かい側の椅子に座って、店員に紅茶の注文をしていた。
 紅茶が運ばれるまでお互いに終始無言を貫いていたが、福島がカップを持ってそれを啜ったことで当たり障りのない会話を切り出された。

 軽く舌打ちを鳴らせば、「ずいぶんなご機嫌ね」と皮肉ってきた。
 
「そりゃどーも。ご機嫌にもなりたくなる。どいつもこいつも、俺の連絡先を知った風な口を利きやがる。お前に関しては人の許可なく連絡を寄こす始末」

「あんたに『連絡してもいい?』なんて聞いても、ダメの一言で足蹴にされるだけでしょう? こう見えて、無駄なことをしない主義なのよ」

「高村の件でストーカーみてぇに追い回してきた奴はどこのどいつだ」
「あれは無駄じゃないと思ったから行動を起こしただけ。非はあると認めたし、ちゃんと謝ったでしょう?」
「俺は許すなんざ一言も言ってねえが?」
「あたしの中では終わっているから良いの。小さい男ね」
「……てめぇ。いい性格してんな?」
「それはどーも。いい性格してるのはあんたも一緒でしょ?」

「クソ女め」
「性悪男」

 嫌味には嫌味を、皮肉には皮肉を、悪態に悪態を、存分に投げ合い、俺達は手元の飲み物で喉を潤す。
 くそ、まじでこの女の相手は疲れる。
 出だしの会話だけで三時間くれぇ話した気分だ。帰りてぇ。

 ま、嘆いても簡単に帰るわけにもいかねえ。福島には聞きたいことが山ほどある。たとえば。

「那智くんは元気なの?」

 たとえば、那智に特別な感情とやらを寄せている理由、とか。

「それを知ってどうする」
「とりあえず、お見舞いに行きたいかしら」
「はっ。俺が会わせると思ったか? 弟に妙な感情を抱いていると分かっていながら、会わせるばかがどこにいる」

 那智は草花に興味を持ち始め、『Flower Life』に通い始めた。
 草花を眺めることが好きになり、植物を育てる楽しみを覚え、いつも兄の俺に草花の知識を語っていた。そんな那智はバジルやミントを立派に育て終え、仲良くしてくれる店員の勧めでカモミールが欲しくなった。


――カモミールが欲しい。


 思えば、そこから那智の災難は始まった気がする。

 カモミールが欲しい。それをストーカー野郎に掴まれて、家に送りつけられた。
 カモミールが欲しい。そのために兄と花屋へ向かった結果、カモミールを選んだ直後に出刃包丁で刺された。
 カモミールが欲しい。そう思ったせいで今も那智はストーカー野郎に、カモミールを贈り続けられている。ああ気色が悪い。

 那智がカモミールの存在を知らなければ、そして欲しいと思わなければ、災難が降りかかることもなかったんじゃねえのかな。カモミールの災いと言っても過言じゃねえな。ここまでくると。

「那智は俺が必死に守り抜いた、たった一人の家族だ。それを赤の他人であるお前に特別視されるなんざ不快でならねえ。どんな感情を抱いているかは知らねえが、お前に那智を会わせる気はねえ」

 語気を強める声にドスを利かせるも、怖じる様子も見せず、福島は「赤の他人ねぇ」と意味深長に肩を竦めてきた。

「あんたが簡単に会わせてくれないのは予想がついていたけど、想像以上に骨が折れそうね。店に遊びに来ていた那智くんはあんたのことをいつもべた褒めしていたから、さぞ優しくて紳士なお兄さんだと思っていたのに。現実はこれだなんて」

「てめぇの妄想に付き合ってやる義理はねえ。那智に執着する理由はなんだ?」

「そして弟のことになると、他人に対して異常なまでに敵意を見せる。下川、あんたも大概で那智くんに執着しているわね。その感情は本当に家族を想う気持ちから生まれているものなのかしら?」

 福島に執着の理由を聞いたら、執着する俺に疑問を投げかけてきた。

 本当に家族を思う気持ちから生まれているものなのか?
 当たり前じゃねえか。俺のこの気持ちは兄心からくる想い他ならない。那智は血の繋がりを持つ身内の中で、唯一俺を愛して、笑いかけて、慕ってくれた奴なのだから――俺は兄として誰よりも弟を想っている。

 だから、ああ、だから守りたい求められたい愛されたい傍に置きたい誰の目にも触れさせたくない、弟にとっての絶対的な存在でいたい。兄さまがいねえと何もできない泣き虫毛虫の弟でいてほしいそうであってほしいそうあるべきだと教えないといけねえ。おっと本音がだだ漏れた。

 俺は手前の気持ちを落ち着けるために、カップに口をつける。
 黙って俺の語りを聞いていた福島は、軽く眉を寄せて疑問を投げてきた。

「下川。あんたのそれは恋愛感情?」
「不思議なことを聞いてくる女だな。恋愛感情なんざ好きだの恋だの、それは他人同士が抱く感情だろう?」

 俺は那智に恋なんざしてねえ。
 そんなものを抱いても、すぐに他人に奪われる、裏切られる、自然消滅してしまうことを俺は知っている。
 恋愛感情を抱いたせいで、母さんは常に恋人をとっかえひっかえしていた。親父は別の家族を持ち、やがて離婚の道を歩んだ。他人に感情を向けるからそんなことになる。どんなに他人を愛しても、家族になっても、結局最後は安い悲劇を見る。俺は不安定な感情も関係もいらねえ。

「この感情は当然兄心だ。それ以上も以下もねえよ」

 俺はシニカルに笑い、那智を特別視している福島に自分の気持ちを曝け出した。
 他人から見た俺はさぞ異常な兄貴に見えるんだろう。自覚はある。寧ろ、わざと本性を出した。弟を特別視していると聞いたからには、俺もそれ相応の態度と気持ちで(のぞ)む必要がある。

 一方、福島は手始めに切り出した話題がまずかった、と苦い顔をした。

「根っからのブラコンかと思いきや、とんでもない男ね。あんた」
「俺の質問に答えてねえぞ。福島」
「ああ。あたしが那智くんを特別だと想っている理由? そうね、半分は赤の他人じゃないから……かしら」
「赤の他人じゃない?」
「答える前にあんたにこれを見てほしい」

 福島がショルダーバッグから透明なファイルを取り出すと、それを俺の前に置いてきた。
 ファイルには数枚の書類と銀色の鍵が押し込められている。手に取って目に通すと、それは賃貸借契約書だと分かった。それもただの賃貸借契約書じゃねえ。見覚えのある住所と氏名、そして筆跡に俺は片眉をつり上げる。

「これは俺ん()のアパートの賃貸借契約書だな」

「鍵と一緒に返しておくわ。あたしが持っていても処分するしかないし。言っておくけど、これは盗んだわけでも何でもないから。強いて言えば、“福島道雄”が愛用していた書斎の机の引き出しに眠っていたものをあたしが見つけたのよ。誰にも見られたくなかったのか、書類の束の下に敷かれていたわ。金庫にでも入れておけばいいものを」

「ほう。福島道雄の書斎、ね」

 俺は語り部をまじまじと観察すると、書類を流し目にして、くだらねぇと鼻で笑ってしまった。

 仁田道雄。
 下川道雄。
 福島道雄。

 一体いくつの苗字を持っているんだ。あのくそ親父め。
 そしてこの書類を見つけたと豪語する福島と親父、そして俺の関係性もじつにくだらねぇ。なるほどね。ああ、なるほど、半分は赤の他人じゃない、という理由に納得せざるを終えない。

「福島道雄の娘か。お前」
「ええ。吐き気のすることに、血の繋がった親子よ」

 さすがに福島の名前を聞いてもピンとは来なかったな。来るわけもねえ。親父が愛した家族の苗字なんざ、これっぽっちも覚える気にならねえんだから。
 仮に福島だと知っていても、目の前の女が親父の娘なんざ、ぜってぇ分からねえよ。俺は親父が愛した家族を見たことがねえんだから。


「つまり下川とは異母兄弟と言ったところかしら。ハジメマシテ、お兄ちゃん」

「やめろ、気色悪い」


 棒読みでお兄ちゃん呼ばわりしてくる福島に、思わず拒絶反応を示してしまう。

 おおよそ福島と俺は同年代。気色悪く『お兄ちゃん』呼ばわりしてくるということは俺の方が月的に早く生まれたんだろうが……死んでもお前にお兄ちゃんなんて呼ばれたくねえ。異母兄弟だろうが、半分血が繋がっていようが、俺にとって他人ほかならないんだよ。俺を『兄』と呼んでいいのは那智だけだ。


 福島曰く、俺の連絡先を知っていたのは、親父の携帯経由からだそうな。

 確かに俺と親父は金まわりのことで連絡を取り合うため、お互いの携帯に連絡先を登録している。
 娘の福島が、親父の携帯から俺の連絡先を知ったと言われても、べつに驚きはない。親父の娘からアパートの賃貸借契約書や部屋の鍵を手渡された時点で、親父の管理能力の甘さが露呈しているしな。

「那智くんを特別視しているのは、あたしが一方的にあの子を弟だと思っているから。半分、血が繋がっているんだもの。権利はあるはずでしょ? ……あんた、びっくりするほど不機嫌になるわね」

「ここが喫茶店じゃなきゃ、俺は迷わずお前を殴り飛ばしている自信がある」
「あんたが理由を聞いてきたんでしょ。それだけで殴られちゃ堪ったもんじゃないわよ」
「うるせぇばーか。死ね」
「はあ。下川、あんたって意外とガキね。小学生と同レベルなんだけど……」

 苛々する俺を余所に、福島はべらべらと那智を特別視する理由を語る。

 那智と出逢ったのは去年の六月初め。
 すでに自分に異母兄弟がいることを知っていた福島は、那智が『Flower Life』に通い始めたことを知り、自分の異母兄弟とはどういう奴らなのか知るために『Flower Life』でバイトを始めた。

 その時の感情は好意的ではなく、寧ろ悪意的な感情があったそうな。

 なにせ異母兄弟の存在がきっかけで両親の仲も、親子仲も、家庭も崩壊。そして家族のどろどろとした秘密を知ってしまったのだから。


「あんた達の存在を知ったのは高3、受験シーズンだったかしら」


 父親が自分達とは別に家庭を作っていた。
 それをじつは母親は知っていて、水面下でべつの男と不倫をしていた。離婚を目論んでいた。夫婦や家族仲が良好に見えたのは偽りだった等など、昼ドラのような展開が福島を襲った。

 そのせいでずいぶんと荒れた受験シーズンだった、と福島は語る。
 煮え切れない感情は抱いた福島は、とうとう名も顔も知らない異母兄弟にぶつけたい衝動に駆られた。そう思ってしまうくらい家庭内は最悪な状況だったらしい。

 つまるところ、異母兄弟の家庭を壊してやろう、と思ったそうな。

「最初に下川の存在を知ったわ。同年代の子どもがいると知ったあたしは、あの男の書斎に入り浸ってあんたの受験先を調べた。あんたと同じ大学に行くことで、何かしらチャンスが巡ってくると思ったのよ。だけど、あんた自身のことを調べると、かなり評判の悪い不良とつるんでいたことを知って、あたしは不用意に近づかない方が良いと判断したわ。下手すると病院送りされそうだったし」

「だから那智に近づいた、と?」

「あの子なら何か遭ったとしても、女のあたしでも勝てると思ったの。見るからに那智くんはやせぎすで弱そうな中学生だったし……行動を起こすなら那智くんを利用しようと思って近づいたわけだけど」


 『Flower Life』のバイトに受かって、いざ異母兄弟に近づくも、那智は人見知りが激しくて、会話という会話が叶わなかった。
 挨拶すら儘ならないのだから、利用もくそもあったもんじゃない。

 福島は那智と接近するため、根気強く話し掛けることにした。
 最初は挨拶から。挨拶を返されるようになったら、草花の話題を振って、那智と距離を縮めるために努めた。

 少しでも気を許してもらうために、知識のない草花を勉強した。
 それこそ季節花の育て方からガーデニングから、草花に関することは何でも勉強したとのこと。

 興味のない草花を勉強するのは苦痛で仕方がなかったらしいが、努力の甲斐あって、那智は興味を持って福島の話に耳を傾けるようになった。相づちやたどたどしい返事をくれるようになった。

 福島は距離が縮まったことに、不本意ながら喜びを見出したそうだ。相手は自分の家庭を壊した原因の異母兄弟なのに。

「とはいえ、那智くんが一番に懐いたのは店長だった。店長はズケズケと話し掛けるあたしと違って、いつも那智くんのペースに合わせて話していたから居心地が良かったんでしょうね。本当は一番に懐かせるつもりだったのに」

 那智が『Flower Life』に通い始めて半年。
 店長や福島と会話することが多くなった那智の口から、家族の話が出るようになった。
 それはもっぱら「兄」の話で、それ以外がまるで出てこない。
 不思議に思った福島が両親のことを聞くと、那智は困ったように眉を下げて、小さく首を横に振るだけ。服の下に隠された腕の傷痕を目にして、ようやっと“そういう環境”にいたのだと察したという。

「利用する気も、八つ当たりする気も失せちゃったわ。とっくに壊れていた家庭を、あたしが改めて壊すところなんて無いもの。強いていえば、二人暮らしをしているあんた達の仲を壊すことくらいだけど、無理だと察したわ」

「へえ。無理な理由を聞いても?」
「那智くんがあんたのことを、本当に大切に思っているからよ。あんた知らないでしょ。那智くんが中学生の自分でも、花屋(うち)で働けるかどうか相談してきたことを」

「は? なんだそれ」

 初耳なんだけど。
 確かに那智は不登校になっていることに負い目を感じていたし、自分も働いた方がいいか、時々悩んでいる節はあったが……働けるかどうか、花屋に相談していたのは知らなかった。

「店長が理由を聞いたら、『兄さまばかり働かせているから』とか、『兄さまに好きな物を買ってあげたい』とか、嫉妬するくらいあんたのことばっかり。自分のお小遣いは欲しくないの? って聞いたら、『兄さまがいるからいらない』だって。泣かせるわね。店長からは高校生の年になったらおいで、と言われていたわ」

「…………」

「あんたに言われるならまだしも、あたしなんかがちょっかい出したところで那智くんの気持ちは変えられない。それに気づいて、素直に無理だと思ったの。あんな良い子、普通に探してもいないわよ」

 利用する気が無くなっても、福島の興味は那智に向いたままだった。

 那智は福島の草花の知識を熱心に聞いた。
 雑談に料理や動物、テレビの話を振れば、それも楽しそうに聞くようになった。
 那智から会話を振ることは滅多にないが、それでも福島が声を掛ければ、素直な反応を見せるようになった。激しい人見知りを見せることが無くなった。大好きな兄のことをたくさん語るようになった。距離が縮まれば縮まるほど、異母兄弟に対して別の感情が生まれたのだと福島は語る。

「那智くんはあたしの正体を知らない。仲良くしてくれる花屋のお姉さん、として見ているだけ。一方のあたしは利用目的で近づいていたはずなのに……いつの間にか“あたしの弟”だったら良かったのに、と思うようになった。ある意味、片思いなのかもね。半分は他人なのに」

「他人だ。それは覆らねえよ。くそが」
「ホントあんたってガキね。そんなに那智くんに近づかれるのは嫌?」

「嫌悪どころの話じゃねえ。嫉妬のあまり狂いそうになる。俺は親父から愛情とやらを受けなくても平気だ。ババアや恋人から暴力を受けても耐えればいいだけ。そこまで恐怖はねえ。けどな、弟だけは話はべつだ」

 お前は知らねえだろ。
 俺がどれだけ那智に依存しているのか。救われたか。支えられたか。

 異母兄弟? 半分血が繋がっている? 一方的に弟と見ている?
 うるせぇよ。お前は今まで両親とやらに愛情を注がれていたんだろうが。家庭が壊れようが何だろうが、その事実は変わらないはず。
 なのに今さら那智に愛情を求める。ンな都合の良い話があるか。反吐(へど)が出る。ああ胸糞わるい。ああ吐き気がする。ああ目の前の女を殴り飛ばしてやりたい。

 辛らつに胸の内を吐き捨てると、福島は「あんたは那智くんが大事なのよね?」と、念を押してくる。

 お前は今まで俺の悪態の何を聞いていたんだ。耳腐ってんじゃねーの?
 呆れる俺を見つめ、福島は自分も那智が大切だと良い、交渉を持ちかけてきた。


「ここからが本題。下川、あんたと手を組みたい。そのために連絡をしたの」

「手を組む? そりゃまた突拍子もなくご大層な話だな?」


 小ばかにする俺の前に、福島が一冊の手帳を置いた。

 福島道雄の書斎から出てきたと話すその中身は、走り書きでどこかの連絡先の電話番号やら住所やら、俺ん()のアパートの住所やら、俺や那智の一日の行動が事細かに綴られている。ご丁寧に俺の名前の隣には『弱点:弟』と記されているもんだから笑っちまう。
 なによりも気になったのが下川芙美子、つまり俺達の母親の名前がボールペンで三十四重に塗りつぶしされている点だ。感情的になったのがこれで見て取れる。