ふたりぼっち兄弟―Restart―



◆セラピー
セラピーは梅林先生と色ぬりのつづきをした。
おとといはサカナの色ぬりをしたけど、今日は木のはっぱの色ぬりをした。
これに何の意味があるんだろう?
そう思ったけど、色ぬりは楽しかった。

梅林先生はすごくやさしいお姉さん先生だ。
おれが何を話しても「がんばってるね」「お兄さんが大好きなんだね」って言ってくれる。
変なたいどを取っても否定しない。
ノートで会話していたけど、楽しかったよ。
学校の先生もこれくらい優しかったらいいのに。

セラピーのお部屋で夜ごはんを食べた。
自分の病室で食べようと思ったんだけど……。
兄さまはまだ帰ってきてないから、ひとりじゃあぶないって言われたよ。
ストーカーさんはまだおれを狙っているのかな。

……兄さまもあぶないんじゃないかな。
そう思うとちょっとだけこわくなった。

ごはんを食べおわったくらいに、ます田けい部がセラピーのお部屋にきた。
兄さまが帰っているよって教えてくれて、おれはすごくうれしかった。

あ、ます田けい部に「どうして兄さまとアパートに行ったの?」って聞いたんだけど。
ます田けい部、「あのばかやろう」って、つぶやいて遠い目を作っちゃった。
やっぱりアパートのこと、ナイショだったんだと思う。
すぐろ刑事、怒られちゃうかな。

セラピーが終わって、ます田けい部、梅林先生といっしょに病室に帰る時、ケーサツの人がけい部さんに声をかけていた。
小声で聞き取りづらかったけど、「写真」とか言ってた。

ちゃんと聞きたかったんだけど……。
梅林先生が話を聞かせないように車いすを押して、話を振ってきた。
そのせいで、けっきょく、なんのことか分からなかった。

たぶんおれのことだと思うんだけど……気にしないことにしよう。

◆夜ごはん
白ごはん、アジフライ、はるさめサラダ、バナナ。
ハンバーグとかスパゲッティが食べたい。
おやつのバナナ、嫌いじゃないけど、チョコレートが食べたい。


◆夜
病室に帰ると、兄さまがソファーでねていた。
つかれたお顔をしていた。
おれの知らないところでがんばっているんだと思う。
すぐに起きちゃったけど、そのお顔もつかれていた。
ゆっくりねてて良かったのになぁ。

起きた後はお姫様抱っこをされた。
うう、仕返ししたくてもできないことをされた。
いつか、ゼッタイに大きくなって力持ちになりますからね!

いっぱい兄さまにふれた。
キスとか、かみつきとか、いっぱいされたし、いっぱい兄さまにふれた。
兄弟でこれをしちゃいけないことは知っている。
だけど兄さま相手ならいいんだ。
兄さまがしあわせなら、おれもしあわせなんだって言いたい。

だから、すごく、しあわせだったよ。

そうそう。
かみつかれた時、だんだんとカラダあつくなった。

耳がイチバンやばかった。
声が出ちゃったもん。
お母さんみたいにうるさい声になってないかな? ちょっと心配。

おれはお母さんがエッチしているのを見せられたことあったし、ちしきも、ちょっとだけある。
カラダがあつくなったのって、もしかして感じてたのかな?

いつか、兄さまとエッチする日って来るのかな。
いまは想像ができないや。

だけど、もしも兄さまがしたいって言ったら、おれはいいよって言うつもり。
さすがに男同士のエッチのちしき……全然ないけど……どうにかなるよね、たぶん。


◆夜のおやつ
ケーキ屋のプリン。
兄さまがおみやげに買ってきてくれた!
久しぶりのおかしはすごくおいしかったよ!
ふたりで食べた時間はすごくしあわせ。兄さまありがとう。

日記ってこんなかんじでいいのかな。
書いてたら長くなっちゃった。
病院って退屈だし、日記はひまつぶしにはもってこいかも。ちゃんと続かせようっと。

ただ、兄さま、これを読んでおもしろいのかな。
おれのことばっかりになっちゃったけど……。

いいや、おもしろくても、そうじゃなくても。
兄さまと日記でお話できるネタくらいにはなると思う。


【4】


 その日、俺は久しぶりに朝から大学へ足を運んでいた。

 理由は簡単、休学届を出すため。
 那智が入院してひと月あまり経つが俺はその間、一度も大学に足を運んでいない。授業を受けられるほど生活も落ち着いていないし、ストーカー野郎やマスコミ、変な輩が襲ってきた先日の件もある。

 色んな意味で有名人になったこともあり、世間様のほとぼりが冷めるまで休学する決意をした。引っ越しだって考えなきゃいけねえしな。

 バイトも辞めようと考えていたが、事情を知っているチーフに退職の連絡を入れたら、つよく引き止められた。
 俺の勤め先は運送の梱包作業。接客とは無縁で、いつも人手不足に悩まされている職場だ。とくに重量ある荷を梱包、運ぶことが多いから男手にいつも飢えている。

 チーフから「下川くんは勤務態度がいい。遅刻もしないし、どんな仕事も進んで引き受けてくれる。いないと困るよ。半年後でも一年後でも待っているから」等など、聞こえの良い言葉を並べられた。

 たぶん、チーフの本音は『無茶な仕事を振っても断らないから辞めてほしくない』だろう。

 断るだけ面倒になるから引き受けていただけなんだがな。
 とりあえず、バイトは辞めずに籍だけ置いておくことで落ち着いた。
 辞めるにしろ、続けるにしろ、どちらにしろ、しばらくは貯金を切り崩しながら生活だ。金まわりについて見つめ直さないといけねえ。

 職員に休学の相談したら、苦学生を支援してくれる組合をいくつか紹介してくれた。
 どの組合も申請すれば、必ず通るだろうと励ましてくれたんだが、じつに微妙な気分になる。憐みを込めて励まされたせいかもしれねぇ。同情するなら平穏をくれ。ついでに金と単位をくれ。それが本音だったりする。

 ゼミの教授にも話を持ちかけ、休学届の理由に納得してもらうと、俺は早足で研究室を後にする。


(なんとか昼前に片付いたな。休学届け)


 この後にすることは物件を借りるための名義をどうすればいいか、NPO法人に相談する予定だ。

 益田の手渡してきた資料を頼りに、いくつかNPO法人を回るつもり。
 あいつの世話になるようで癪だが、物件探しは早急にやりてぇ。そのためには名義問題がある。両親や親類に頼れねぇ以上、こういう相談は専門家に聞かねえと。まるで知識がねえしな。
 本当は一刻も早くストーカー野郎のことを片したいが、生活のこともある程度片さないと苦労するのは後々の俺達だからな。

 現実は厳しいばっかりだぜ。


(那智の退院にもメドがついた。今日から歩行練習を始めるって担当医も言っていたし、今日のことは那智が日記で綴ってくれるはずだ)

 那智は毎日しっかりと日記を書いている。
 俺はあいつが眠る頃合いを見計らって、日記を開いているんだが、結構内容にクセが出ていて面白い。

 兄のことはもちろんこと、病院食に対して毒づいているところとか、心理療法(セラピー)の正直な感想だとか。勝呂のヘマ話にはまじで驚いたけど……まさか那智がアパートに行ったことを知っていたなんて。思わず勝呂に問い詰めちまったのは蛇足にしておこう。

 とにもかくにも、弟の行動を知りたい俺にとって日記は面白い。
 事細かに分かりやすく書いているし、俺とあれしたい、これしたいが綴られていて微笑ましい気持ちになる。
 びっくりするくれぇ漢字が書けていなくて笑っちまったけど。

(ここ数日は朝から晩まで留守番させているな。申し訳ねえ)

 生活まわりの整理をしているだけで、日が暮れちまう。時間が足りねえや。

(退院したら那智をいろんなところに連れてってやりてぇし、二人で楽しい思い出をたくさん作ってやりたい。そのためにも、ちゃんと部屋は探しておかないとな)

 先日の件があるから、俺ひとりで外に出るのはあんまり好ましくないと益田に釘を刺されている。

 とはいえ、生活を優先する気持ちに理解も示している。
 だから覆面警察を俺のまわりに配属させたらしいと言っていた。俺は気にせず、日常を送っていいって話だが……早いところ、こんな生活とおさらばしてぇな。監視されている気分だぜ。

(俺を襲った連中の動機は分かっていない。みんな黙秘をしている)

 加害者の顔や名前をファイルで見せてもらったが、まったく知らない奴らばかりだった。
 他人にまったく興味がない俺でも、名前を聞けば、三人のうち一人くらい名前を思い出せると思ったんだが、まじで知らない奴らで困った。

 警察の方でも俺と関わりがある可能性は低いらしく、それどころか連中同士でも関わり合いは薄そうだ、とのこと。

 強いて言えば、三人が三人とも【借金持ち】だったことくらいらしいが……。

(借金持ちが俺を襲う理由が分からん。金のある男に見えたのか?)

 考えれば考えるほど頭がこんがらがる。
 なによりも、なんで黙秘しているんだ。
 俺に恨みがあるにしろ、何にしろ、動機くれぇ話してもいいのに。

(ストーカー野郎も、目立った動きは見せていない。那智の携帯を盗み見た日以降、何度かメッセージを送ってみたが、一度も既読が付いていない)

 念のため、アパートに帰ると、携帯は放置されたままだった。
 まずいと思ったのか、俺が送った近所の病院にカモミールが贈られることも無くなっている。
 鳴りを潜めてしまった、と考えた方がいいのかもしれねえ。

 ひとまず、これは後で考えるとして、まずはNPO法人だNPO法人。
 正門まで近道するために第一校舎を通るか。


「治樹? そこにいるのは治樹じゃないか!」

 俺の用事は休学届を出す。それについて職員と相談する。あとは大学を出てNPO法人に向かう。

 それだけだったのに、なんでだだっ広い大学の敷地内で優一と顔を合わせるんだよ。出会う確率なんてコンマ単位なんじゃねえの? それとも何か、近道しようとした俺が悪いのか? 俺が悪いのか?

 心底ゲンナリする俺を余所に、優一は俺の姿を見るや大きく手を振って嬉しそうに駆け寄って来た。

 一度は無視したが、「元気そうじゃん!」「さみしかったぞ!」「親友の顔は忘れていないか!」とばかみてぇに大声で一方的な会話をぶん投げてきた。

 勘弁しろって。
 いまの俺はあんまり目立ちたくねえんだよ。週刊誌の記者がどこにいるかも分からねえのに。

 俺は駆け寄って来た優一の頭をぶん殴って黙らせることにした。
 殴られた優一は頭部を撫でながら、「手加減しろって」と文句を言いつつも、ニカっと笑顔を作った。

「よ、久しぶり。講義を受けに来たのか?」
「休学届を出しにきた」

 短く返事をすると、優一は苦笑いを浮かべて、「そっか」と相づちを打った。
 それは同情ではなく、仕方ないよな、と意味合いを込めた相づちだとすぐに分かった。
 腹立つが優一は高校の時からこういう奴だ。おおよそ虐待のことを知っていても、俺に同情を向けたことがない。いつだって気まずい話は当たり前のように相づちを打つ。すんなりと受け入れる。それができる人間は少ない。

「色々遭ったもんな。弟くん、元気か?」
「……まあな」

 歯切れの悪い返事をしてしまう。
 そういえば、那智の止血をしたのは優一なんだよな。
 こいつの的確な止血が那智の命を救っている。謂わば、命の恩人ってやつだ。
 こういう場合は謝礼金とか渡すべきなのか? 変に恩を売っていても気持ちが悪い。弱みを握られている気分になる。

 俺は財布を取り出すと、中身を確認しながら優一に話を振る。

「さすがに三万じゃ足りねえよな」
「なにが?」
「謝礼金」
「はい?」
「五万もあれか。十万以上だと分割払いになりそうだが」
「治樹。俺、お前とは高校からの付き合いだけど……お前のやりたいことが分からない。いつもは察せるけど、今回は全然分からない」

 謝礼金とは何の話だ。
 真剣に悩んでいる優一の鈍さに呆れながら、「人命救助の報酬」とわかりやすく伝えてやる。
 そしたらどうだ。優一はたいそう間抜けな声を出した後に、大大大爆笑してきやがった。なんだよおい。

「久しぶりに会ったと思ったら治樹、お前ばかになったの?」
「ンだよ。喧嘩売ってんのか」

「本当のことだろ? 俺に後ろめたい気持ちがあるなら、そこの自販機で珈琲でも買って、一緒におしゃべりでもしてくれ。浩二と待ち合わせしているんだけど、あいつ全然来なくてさ。すげぇ暇なんだ」

 優一は顎で校舎に設置されている自販機をしゃくり、人命救助の報酬を珈琲と会話で良いと言った。
 あまりにも安い要求に俺は疑心暗鬼になってしまう。最初は安い物を要求して、だんだんと高い物を要求する……詐欺の手口みてぇなことをするんじゃねえだろうな? 俺はさっさと金を渡して弱みをチャラにしたいんだが。

 とはいえ、『人命救助』の件で弱みを握られている以上は断るわけにもいかない。
 俺は優一の隣に並んで、自販機へと向かった。
  

 
「そっか。那智くん、順調に回復しているんだな。後遺症もなくて済んだなら良かった」

 第一校舎内にあるベンチに腰掛けた俺は、安い缶珈琲を開けている優一と弾まない会話を広げていた。
 NPO法人に行きたいからおしゃべりは浩二が来るまで、と助けてもらった側の俺の方が条件をつけているのにも関わらず、優一は快く承諾して俺の近状を聞いてくる。
 他人の近状を聞いても楽しくねえだろうに、優一は親身になって那智の回復を喜んでいた。ホッと安堵している。変な奴。お前と那智は他人だろうに。

「治樹に何度も連絡を入れようと思ったんだけどさ。大変だろうから、メッセージを入れるのは控えたんだ。お前のことだから、読んでも返事してくれないだろうけど」

「ニュースにはなっていたんじゃね? 結構お茶の間を騒がせていたし」
「あんなのうそばっかだ。他人の不幸をネタにして、面白がるばっかりなんだから」

 だからあんまりニュースは観ていない、と優一は不快そうに吐息をついた。
 意外な一面を見た気分だった。優一なら面白半分でニュースを観ていそうなんだが。いつも俺に引っ付いて回っては、ばかをしたり、からかったり、騒いだりしてくる奴だし。

「取材ってうざいんだぜ? 俺のところにまで来たんだから。治樹や弟くんについて話してほしいって」
「お前のところにきたのか?」
「来たきた。高校の時、よくつるんでいたのが聞き込みでばれたんじゃねーの? 誰だよ、俺と治樹のことを話した奴。そりゃ超仲が良かったけど?」
「心底うぜぇなお前」
「なんだよ。高校じゃいつも俺達、一緒だったろ?」

 おかげで毎日のように取材の申し込みがきて、堪らなかった、と優一。
 取材に対しては何も言わなかったし、知らないの一点張りで通したそうな。

「それなのに高校の同級生の輪島(わじま)ったら、お前と弟くんのことを話したんだぜ?」
「……あー誰だ? それ」
「お前はすぐ人のことを忘れるよな。高三の時、俺達と同じクラスじゃん。テニス部のキャプテンしていたんだけど」
「……思い出せねえ」

「治樹らしいよ。とにかく、あいつがお前と弟くんのことを話して、複雑な家庭環境だったみたいです、とか言ってたのをテレビで観たんだ。たまたまテレビを点けたら、インタビューで輪島の声が流れていて驚いたよ。んでもって、うそつけって声出しちまった」

 一番関わりのある自分ですら、弟の存在を知らなかったのだから、お前が知るわけないだろ、と優一は思ったらしい。

 そりゃそうだ。
 高校時代で弟の存在を知っていたのは、当時つるんでいた不良達くれぇなんだから。
 優一は腹が立つと繰り返し、ニュースもインタビューもうそばかりだと鼻を鳴らす。


「だからニュースはあんまり観てないよ。お前の口から近状を聞きたかったし、それに……俺は好きじゃないんだ。何も知らない他人が、必要以上に他人のことを語って心配するの。心配するだけして、結局お前らは何もしないじゃんって思っちまう」

 あんまり他人の感情に思うことがねえ俺だが、この時だけは妙に思うことがあった。
 優一は毎日のようにばかばっかり言っている男だ。ほんとうにうぜぇくらいに引っ付いてばかりで、引き離すのに苦労する。ついでに他人に干渉しがち。すぐ俺に何したのか、どこに行くのかと声を掛けてくる。迷惑な奴だ。

 ただその一方で、たぶん他人のことで苦労したことがあるんだろう。
 じゃねえと、他人の心配に対してそこまで辛らつに言えねえ。たぶん俺が知っている中で、それが言えるのって俺以外だと那智くれぇじゃねえかな。似た経験をしているからこそ思う。

「治樹、どんくらい休学するんだ?」

 これ以上、インタビューを思い出したくないのか、唐突に話題を替えてきた。
 下手くそかよ。

「とりあえず最短でも一年。どうにもこうにも、生活が落ち着かねえと大学には通えねえ」
「引っ越すの?」
「ああ」
「そっか。じゃあ、引っ越しの手伝いが必要なら言ってくれよ」
「なんで?」
「ばかお前、引っ越し業者に頼むと金掛かるぞ。お前と弟くんだけで引っ越しするとなると大変だろ。治樹、退院したばかりの弟くんに荷物を運ばせるのか?」

 優一のくせに、的を射た意見を言いやがる。
 確かに引っ越し業者に頼むと金は掛かるよな。貯金を切り崩して生活予定だから、引っ越しで金が飛んでいくのは痛手。バイトは最低でも半年は休む予定だし、俺ひとりで引っ越しするとなると三日は掛かりそうだし、退院したばかりの那智に荷物を運ばせるわけにもいかねえし。

 眉間に皺を寄せていると、「レンタカーを借りてやるよ」と言って、優一は缶を傾けながらひと笑い。

「治樹は免許を持ってねえんだろ? 引っ越しが決まったら、レンタカーで荷物を運んでやるよ」
「気持ち悪いほど好都合な条件だな。見返りはなんだ?」
「そりゃもちろん治樹、お前かな」

 片眉をつり上げて無言で拳を構える俺に、笑いを噛み締めながら優一は冗談だと片目を瞑った。

「大学のレポートを手伝ってほしい。まじでレポート苦手なんだよ俺。お前がいないと単位落としちまう」

 休学してもレポートは手伝ってくれ、そう言って片手を出してきた。

 俺は呆れ交じりにため息をつき、「考えておく」と素っ気なく返事した。
 人命救助の報酬は缶珈琲をご所望したくせに、引っ越しの報酬はレポートの手伝いなんて、ほんとにお前は高校から変わってねえな。ばかというか、もっと賢い交渉の仕方があるっつーか、なんっつーか。

 まあ、下手に無償の優しさを押し付けられるよりマシか。他人がタダで優しさを押しつけてきた日には、俺にとって不利益になる裏がありそうだと身構えちまう。

 無償の優しさをくれるのは、弟だけでじゅうぶんだ。


「ま、わりと冗談半分、本気半分だったんだけどな。ここはレポートで我慢しておくよ」


 優一が意味深長に笑いをこぼした。
 「治樹はニブチンだからな」とひとを小ばかにする声は、「下川じゃないか」と驚く声に掻き消された。
 犯人は優一と待ち合わせしていた早川。優一と一緒にベンチに座っている俺の存在に心底驚いているようだった。

 俺は早川の姿を確認すると、さっさと缶の中身を飲み干して腰を上げた。

「早川が来たぞ。俺は行く」
「那智くんによろしくな。近い内にお見舞いに行くから」
「いらん。お前が見舞いに来たら、那智が怯える」
「安心しろ、弟くんが好きそうな菓子を持っていくから。手ぶらで行かない。約束する」
「人の話を聞け」

 青筋を立てて優一を睨むも、この馬鹿野郎はちっとも話を聞いちゃねえ。
 ちゃんと美味い菓子を持っていく。だから入院先の病院を後で教えてくれよ、と言って俺の手から空き缶を奪い、自販機のごみ箱へ走ってしまった。
 ぜってぇ教えねえ。あのばかが来たら、那智が熱を出しかねない。断言できる。

「久しぶりに大学に来て早々、佐藤に絡まれてたいへんだな」

 早川が苦笑交じりに同情してきた。
 そう思っているなら止めてくれ。俺じゃ手に負えん。あのばか。
 唸り声をひとつ漏らしていると、「羨ましいよ」と、的外れな言葉をちょうだいする。嫌味か? それとも本気で言ってるのか? 早川に視線を投げると苦々しい笑みを深めた。

「お前がいない間、佐藤は下川のことばかり気にしていたよ。耳にタコができるくらいお前のことばかり。今から言うことは聞き流してくれ――俺、下川に嫉妬している。心底お前が羨ましい」

 はあ、嫉妬? 心底羨ましい? はあ?

 間の抜けた声を出す俺を余所に、「聞き流せって」と言って、早川はさっさと話を打ち切ってしまう。
 他人に興味皆無の俺でも、さすがに今のは空気が読める。つまりなんだ。早川は優一に何かしら感情を抱いているってことだ。そして俺は嫉妬対象、と……頭が痛くなってきたんだが。
 とはいえ、まあ、嫉妬という感情に理解示せるから、俺は素っ気なく言葉を返した。

「今から言うことは聞き流せ」
「え」

「俺は血を分けた弟に劣情とやらを抱いている。相手は中2、六つ年下の少年だ」

 目を丸くしてこっちを凝視してくる男に、「聞き流せ」と言って、俺は話を打ち切った。
 面倒事になるくれぇなら、俺の興味は別のところにあると宣言した方が気も楽だ。下手に嫉妬されたり、誤解されても、俺が貧乏くじを引くだけだしな。

 それにうそを言ったつもりもない。
 俺はじつの弟に劣情を抱いている。触れ合ったあの夜はばかみてぇに興奮した。

 いつか那智と本格的に触れ合う日が来るのなら、その時は欲望に従って弟を抱こうと思っている。弟に抱かれることは、心の底からごめんこうむりたい。
 負けず嫌いの兄心が支配されることを微妙に拒んでいるんだ。
 那智に支配されるより、俺は弟のすべてを支配したい。だから日記をつけさせている。手前の行動や日常のことは棚に上げて、那智の行動は把握して、那智の日常を掌握しようとしている。

 那智に言えば、きっと俺の我儘を受け入れてくれるはずだ。
 男同士で性行為なんざ、まるで知識はねえけど、いまの愛情表現に足りなくなったら、俺は那智を抱きたい。他人が那智を抱く前に。