‘ 逃げるな ’———と言われたところで、岬に脱兎の選択肢はなかった。
「岬、醤油が切れる。次の遣いで買ってくるのを忘れぬように」
「は、はい……」
なぜなら、精霊は居座るどころかエプロンまで拵えて、すっかり家主の風貌だったからだ。二つ目に、もうしっかり胃袋を掴まれかけていたからだ。
神妙に和装の眉目秀麗を見上げながら、岬は手を合わせた。
「いただきます」
「召し上がれ」
手狭な1DKに突如現れた同居人。あやかし。十中八九、異性。
抵抗はなきにしもあらず、しかし違和感は覚えなかった。姿は変わっても、漂う香りや清廉な佇まいは、何時なんどきもリリィを沸き立たせた。
それに、妖花といえど人としての常識は携えていて。証拠に、シャワー中の脱衣所には一切足を踏み入れない。女二人住まいでも窮屈だった箱のなか、彼の振る舞いに“配慮”の二文字が初めて沁みた。
……そうだった。母親からの愛情とは別の、他人からの心遣いを受け取ったことはいままでに無かった気がする。
「ん、おいしい……!」
目を丸にして頬を押さえる。彼の大皿を彩る生野菜も一週間で随分と馴染んでしまっていたし、何より夕飯が日々の癒しになっていた。
温かいご飯、一汁三菜。母親を失くしてから、カップ麺と冷凍食品の往来が日常になっていた岬にとっては、紛れもなく絶景。ブリの照り焼きを頬張りながら、思わず目を細める。添えられた長ネギの香ばしさが五感を駆け抜ける。素材を生かした味付けも、頗る好みだった。
「本当に美味しい」
「今日は味見をしたからな」
「え……今まではしてなかったの……?」
「たまにはな。している」