それは憶えのない出来事。今日までずっと、忘れていた。
岬は自分の頬に手を滑らせる。
どうして思い出せなかったのだろう。母が注いでくれた愛情すべてを刻むことが、どうして出来ないのだろう。幼い頃に戻ってでも刻みたい。
……でも、もう知っている———過去を恋しく思う自分は、とても脆いこと。
『約束はね、このお花を大事に育てること。いーい? 大事に、大事にね』
『うんっ。だいじょうぶだよ。だってみさきもこのお花大好き!かわいい!』
『でしょう? あ、それより大変。着物汚れちゃったわ』
『あらあら、おせんたくが大変ですねぇ』
『えぇ? それは幼稚園で覚えたのですねぇ?』
微笑む母と、一緒に土を払う少女。まだあの子は、何も知らない。十数年後、目の前の居場所が突然消えてしまうことを———。
変哲のない日常。いつも通りの帰り道。「今日はね、体育でキーパーをやったんだよ」と、常套句に答える準備を整えて、真っ直ぐアパートに帰ったあの日。
玄関を抜けた狭い廊下で、母は倒れていた。唇は色を青くして、頭上に放られた腕は脈を失っていた。
その後、自分がどう動いたか。憶えているのはいずれも断片———救急車のなか、母の笑顔を浮かべた。自分を責め立てる気力すらなく、血の気を失った。