「さぁ、着いたぞ。これが後宮だ」
「うわぁ」

 庶民の家から離された一角、先ほどまで生活していた宮とは規模が違う大きさの後宮を前に、銘悠は簡単の声を漏らす。
 光がなかった瞳が、急に、まるで宝石のように輝き出す。顔を上げて、それでも全体的は捉えきれなくて、数歩後ずさった。

 初めて見るものを前にはしゃぐ銘悠に、清蘭は目を細めた。後ろに着く苑鎧も、娘を愛でる父親の如く微笑んでいる。

「なんて大きい……こんな建物を、人が作れるなんて」
「そうか?お前が生まれた宮廷の方が大きいと思うが……?」

 清蘭は単なる疑問から言った言葉だったのだろう。だが、それを聞いた銘悠は生き生きとした表情を無くして、俯いた。

 清蘭と苑鎧が同時に目を見開く。
(これを聞くのは流石にまずかったか)
と気づいた時にはもう遅い。
 銘悠の心は既に沈んでいた。

 彼女に昔の記憶がどれだけあるか、それがどのようなものか。確かめてから聞いても良かったのではないか。
 清蘭は自分の過ちに後悔する。

 銘悠を深く傷つけてしまった。もう二度と話してくれなかったらどうしよう。
 けれども、そこまでの心配はいらなかった。

 銘悠は再び顔を上げる。やはり、彼女の顔から輝きは消えていた。だが、憎しみや怒りは見えない。ただただ、目を伏せて唇を噛んでいた。
 やがて、銘悠は語る。

「幼い記憶は、ほとんど残っていません。……それに、さほど外には出してもらえなかったので」
「閉じ込められていたのか?」
「そこまでではないですけど……あまり出歩くことを許されなかったものですから」

 私が、呪われた子だから。
 銘悠は息を吐くように呟いた。

(ああ、彼女はきっと、宮にいた頃も辛い経験を味わっていたに違いない)

 清蘭は銘悠の境遇を考え、心を痛める。

 また同時に、清蘭は悲しみに暮れた。

(記憶がないということは、もしかしたら「あの事」も覚えていないかもしれない)

 自分の中にはあるのに、彼女の中で薄れかかっているであろう記憶。通じないのが、言えないのがもどかしい。
 そんな葛藤が、彼の中で巻き起こっていた。

(いや、今は悩むべきではないか)

 そう、まだなんだ。清蘭はそう結論づける。
 そして、グイッと銘悠の手首を掴んだ。

「わっ」
「なら、これから沢山外に出て知るといい」

(どんな美しいものでも、どんな綺麗なものでも、なんでも見せてやる)

 半端強引に彼女を引っ張りながら、後宮へ入っていった。

 残された苑鎧と他の男たちは、ポカンと間抜けな表情でしばらく固まった。が、不意に苑鎧が吹き出す。

「全く、皇帝様ときたら。もう少し気の利いたことができないものですかね」

 そういう彼の口元は、しかし笑みが浮かべられていた。

「挙げ句の果てに二人だけで先に行っちゃって。置いて行かれた僕たちのことも少しは考えてもらいたい」

 やれやれ、と肩をすくめた後、彼は後宮を眺めてから、暖かい陽気に包まれたような、穏やかな気持ちが広がった。

「これから頼みますよ、銘悠様」