木の板でできた重みのある扉を開けると、立派な造りの廊下と、見上げるほど高い天井に包まれた広間が男たちを迎えた。

「随分と凝った造りだな」

 男は皮肉っぽく思ったことを口にする。

 人が入ってきたというのに、宮の中から人が出てくる気配はない。男は苛立ちを覚えながらも、わざと足音を立てた。

 しかし、やはり人がやってくる気配は寸分も感じられなかった。

(常識どころか、礼儀もままなってないとは……)

 我慢の限界に達した男は自ら叫んだ。

「私の名は清蘭(せいらん)!誰かおらぬか!」

 男ー清蘭ーが張り上げた声は、壁に跳ね返って共鳴を繰り返しながら広間へと伸びていき、建物全体を回るように響く。

「はいはい、ただいま参ります!」

 ようやく聞くことのできた人の声。嬉々とした返答がどこからともなく返ってきたかと思えば、広間の奥から一人の女が出てきた。

 着物の裾を引きずっているが故に、走ってくるにも一苦労をしたようだ。
 その女は、清蘭の前に来ると目を見開いた。それから、慌てて恭しく頭を下げた。

「こっ、これはこれは皇帝様!申し訳ございません。少々取り込み中だったもので……」
「いや構わん。それよりも、面を上げよ」
「失礼します」
 
 清蘭から許しをもらって顔を上げた女性は、二十歳を少し過ぎたあたりの年頃だろうか。
 まだ若々しく、まとめられた髪も艶があって美しい。

「まさか皇帝様がこんなところにいらしていただけるなんて。お前たち、挨拶しなさいっ!」

 女性が叫んだ途端、広間の奥からゾロゾロと女が現れた。

 ゆうに三十はいるだろうか。どの女も十代ほどの若さで、流石は侍女を育てる場所というべきか、姿麗しい者ばかりだった。
 
 そう、だったのだが。
 清蘭は違和感を覚えた。もう一度、彼女たちをじっくりと眺める。

 彼女たちはとても美しい。街に出て歩けば、身分など関係なく男を寄せ集めるであろう。

 滑らかな絹のような肌に、うなじの上できっちりと結えられた黒髪、軽く上品な身のこなし。

 けれども一つだけ、麗しさとはかけ離れたものを、そこにいる全員が持っていた。

 それは、生気を失った瞳。
 大きくて整った形にも関わらず、浮かぶ眼球は闇をも吸い込んでしまいそうな色をしていた。
 全てを諦め、感情というもの一切を断ち切ったような濁りに、清蘭は眉をひそめた。

 彼女たちは廊下の左右に一列に並んで、手を体の前に合わせ、深々と頭を下げる。

「ようこそお越しくださいました。皇帝様」
 
 息のぴったりあった台詞。だが、その声色にも感情というものは見えない。

 声こそもう一度聞きたいとせがむように耳に残るが、何の思いも載せられていない言葉を言わせる気はなかった。

「こちら、修行をしています少女たちでございます。今はまだこのような未熟さですが、皇帝様の元へ送り際には完璧に仕上げますので……」
「いや、どの娘も美しく、しっかりと躾けられている。よほど女官がいい腕をしているのだろう」
「これはこれは。ありがたきお言葉」

 女はにっこりと口角を上げた。真っ赤な口紅を塗った唇が三日月型になる。
 
 そんな女の様子を見て、清蘭はフッと鼻で笑った。口ではああ言ったが、実際にはこれっぽっちも思っていない偽りである。

「ところで、お前の名は何という?」
「私めですか?春那(しゅんな)と申します」
「なるほど、春那か。それでは、お前に聞きたいことがある」
「はい。何でございましょうか?」
「ここに、銘悠(めいゆう)という名の娘はいないか?」
「えっと、それは……」

 春那は答えない。だが、彼女の顔が一瞬引きつったのを、清蘭は見逃さなかった。
 彼は目を細めて春那に問い詰める。

「いるんだな?」
「えっと、はい、おりますが……」
「どこにいる?案内しろ」
「……」

 春那は表情を曇らせ、無言を貫いた。
 そこに、清蘭の鋭い視線が刺さる。

「皇帝の命だ」
「……かしこまりました」

 流石に皇帝には逆らえないと悟ったのか、春那は深々と頭を下げて清蘭の要求を飲んだ。

「では、着いてきてください」

 春那は清蘭にくるりと背を向けると、広間の奥へ歩き出した。清蘭もそれに続く。

 彼らは少女たちの間を通って進んでいった。
 女官や皇帝が自分たちの前を通過しても顔色一つ、身動き一つしない少女たちを横目で流した。

 よく見れば、前髪が長すぎて瞳が見えない少女もいた。そんな者は、大抵服で隠そうとしても隠しきれない痣があった。
 ここの暮らしがどれほど過酷かと思うと、彼の胸が痛んだ。

「ここで少々お待ちくださいませ」

 広間の中央に来た春那は、清蘭にそう告げて細い廊下へ消えていった。
 
「清蘭様」

 苑鎧が清蘭を呼んだ。

「ああ」

 彼は全てを読み取ったように頷いて、瞳を細める。

「恐らく、奴隷のように働かされているな、彼女たち」
「ええ、虐待もされているようですし……やはり裏は深いですね」

 肩をすくめる苑鎧に、清蘭は救いようのない笑みを浮かべた。

 虐待、強制、嘲笑……。
(ここは、そんな闇が渦巻いている箱だ)
 悲しくも、清蘭は思ってしまった。

「お待たせいたしました、皇帝様」

 暗い廊下から春那が現れた時、後ろにはもう一人の女を連れていた。禁色を避けた鮮やかな色合いの衣を纏い、髪やら胸やらには玉のついた飾りを付けている。
 
 明らかに春那とは違う身なりに、清蘭は少しばかり身構える。

「貴方が、新たなる皇帝様でございましょうか?」

 女が口を開いた。小川のせせらぎを聞いているような、何とも透き通る美しい声であった。

「いかにも」
「これはこれは。よくぞここまでお越しくださいました」

 女はふわりと綿毛が舞うような身のこなしで頭を下げた。声質、動き、言葉遣い、全てが完璧だった。この世の動作全ては、この女が標準だと言わんばかりに。

「皇帝様にお越し頂き、我々一同、とても嬉しく思います」
 
 女は顔を見せると、にっこりと清蘭に笑いかける。

 思わず目が奪われそうだった。彼女の声は清蘭の胸の奥、僅かな隙間から侵入し、じわじわと染み込んでいくーまるで毒のようなー不思議な力があった。
 彼女に呑まれまいと、清蘭は目を瞑って己の意思に語りかける。

 そして再び目を開けると、愛想良く口角を吊り上げた。

「そこまで歓迎されているとは。私も嬉しく思う」
「ありがたきお言葉」
「お前の名を聞いても良いか?」
「まぁ、私なぞ申し上げるほどの者ではないのですが、どうしてもというなら」

 女はさらに笑顔を強めた。

「私の名は妖流(ようりゅう)にございます」
「妖流、か。うむ、お前の姿にとてもぴったりだ」
「何とまぁお上手ですこと」

 妖流が口元に袖を当てて上品に笑う。
 清蘭も合わせたように笑いの声を漏らす。そうしてから、フッと表情を引き締めた。

「実はここにいる、とある娘に会いたいんだが……」
「あら、誰のことでしょうか?」
「銘悠という名の子だ」

 清蘭がそう告げたとき、一瞬だけ、妖流の気が揺らいだ。

 彼女を纏っている雰囲気の一部が剥がれ落ち、その隙間から彼女の本性が垣間見えた、そんな気がした。が、それも束の間。彼女は元のように妖艶な笑みを浮かべる。

「まあ、あの子でしたの?彼女に何か御用で?」
「私の後宮に迎え入れたいと思ってな」
「侍女……いや、彼女なら下女でしょうか?いずれも、その役目なら、彼女にはまだ不十分かと。他の者ならばご用意できますが……」
「いや、世話係として受け入れるのではない」

 その言葉に、妖流は顔をしかめた。先ほどよりもはっきりと、その周りに漂う空気を不服の色へと変化させる。

「だとしたら、一体どのようにするのでしょう?」
「後宮に住む妃にでもなってもらおうとな」
「あら、あんな子でよろしくて?」

 納得がいかないのか不満があるのか、妖流は余裕の笑みで皮肉を口にした。だが、清蘭は彼女の言葉に一切表情を変えない。

「あの娘こそ、私が欲しいものだ」
「失礼ですが、皇帝様は知っていらっしゃるのかしら?あの子が呪われた子であることを」
「ああ、もちろん知っている。私が耳にしないほうがおかしい」
「そうでしたわね。皇帝様の血縁関係ですもの」

 ふふふ、と妖流は笑う。それには、何処となく皇帝である清蘭への侮辱も含まれていた。

「彼女は宮廷を追放された身ですが、そんな者を後宮に入れるのですか?」
「ああそうだ。身分など関係ない。私が求めるのがあの娘ならば、彼女を手に入れるだけだ」
「……」

 妖流はしばらくじっと清蘭を見つめた。無表情で、鋭い瞳は何かを見極めているようだった。

 やがて、彼女は再び笑顔を浮かべる。

「なるほど。でしたらお呼びいたしますね」
「よろしく頼む」

 妖流はくるりと清蘭に背を向け、歩き始めた。彼が求める子がいるところへと。

 道の途中、彼女はふと足を止める。そして、誰にいうわけでもない言葉を、息を潜めて零した。

「出来底のない侍女など、幾らでもくれてやる」