「パク・ソアさまをお連れいたしました」

 御簾があげられ、眩い陽の光と共に名を呼ぶ声がソアに届く。

「ソア!」

 見上げれば、停められた輿の目の前の階段からかけ降りてくるその人は、ソアがずっと待ち望んでいた人。

「…ソジュンさま…っ」

 輿から転げ落ちそうになるソアは、駆け寄ったソジュンに抱き留められる。それはきつく抱きしめられ、息もつけぬほどに。でもそれすらも喜びとなってソアを包み込む。

「ソア…、会いたかった…」

(本当に、迎えにきてくれた…)

 しかし、ソアは大事なことを思い出し、慌ててソジュンの胸を押して離れる。

「も、申し訳ございません、無礼をお許しください…王様」

 両手を高い位置で重ね、膝を折り礼を取ろうとするも、それはソジュンの手で阻まれた。ふわり、と浮いた体はいとも容易くソジュンの両腕に抱えられてしまう。

「わっ…え、えっ…王様!?」

「まずはそなたの治療が先だな」

 連れられた先は、宮殿のソジュンの寝所だった。そこには既に内医院の医師が待機していて、ソアを寝所に寝かせるや否や診察が始まる。

御医(オイ)よ、どうだ。子は無事か」

 布越しに、医師の指がソアの脈を診る。御医と呼ばれた医師は至極穏やかな顔で微笑み頷いた。

「はい、王様。脈に乱れはなく、お子も無事です。パク・ソアさまも、今は落ち着かれているようですが、気が少し弱っておりますのでしばらくは安静になさるのがよいかと。体を温め、滋養のあるものを食べさせてあげるとよいでしょう。後ほど妊婦に良い薬を煎じてまいります」

 それを聞いて、ソアは大きく息を吐いた。一番の不安が取り除けて、ようやく心の底から安心できた。

「そうか、ご苦労であった、下がってよい」

「はい。失礼いたします」

 御医が立ち去り、広い部屋には静寂が訪れる。体を起こしたソアは、その目から涙が零れていくのを止められない。

「ソア、すまなかった」

 寝台の蚊帳を手で避けてソアのそばに腰掛けると、震える華奢な手をそっと包み込んだ。

 ソアは、泣きながら首を横に振る。涙が頬を伝い顎先からぽたぽたと布団を濡らした。

「助けてくださりありがとうございます…王様」

「遅くなって、申し訳なかった。重臣たちの首を縦に振らせるのに手こずってしまった」

 そんなことは、どうでも良かった。今、こうしてソアはソジュンに会えた。
 あんまり涙がこぼれるものだから、ソジュンが袂から絹のハンカチを出して濡れた頬を拭ってくれる。

「謝らないでください…、王様はこうして私とお腹の子を救ってくれました」

 そう、お腹の子も無事なのだから、何も言うことなどない。

「私とそなたの子が、いるのだな」

「はい。王様に会えない不安な日々も、この子と頂いた玉指輪のおかげで耐えることができました」

 必ず迎えにくる、と誓ったこの玉指輪が不安に押しつぶされそうになる心をどうにかつなぎ留めてくれた。

「ーーーー参ったな」

「え…?」

 ソアは、一瞬拒まれたのかと思った。ソジュンは子を望んでいなかったのでは、と。
 しかし、それは杞憂に終わる。

「私は、これまで己の身が滅ぶのも厭わない覚悟で政を行ってきたというのに…、ソアと子どもが愛おしすぎて、これでは死ぬに死ねない」

「そんな、やっとお会いできたというのに、死なれては困ります」

 冗談めかして言ったソアを、ソジュンの深い茶色の瞳が覗き込む。

「やっとソアの笑顔が見れた」

 言われて、ソアも久しぶりに笑ったという自覚を持った。あの一夜以来、ソジュンが来なくなったことで酒場の手伝いも以前のようにツラいだけの仕事に戻ってしまったし、何より月のものも来なくて不安ばかりがソアを占領していたから。

「ずっと、お会いしとうございました」

「私も、会いたかった」

 掌がソアの頬に触れ、首筋へと滑る。ソジュンが触れたところが、熱い。

「こうしてソアに触れて、口づけたくて仕方なかったんだ」

 黒髪を手で梳くように、頭に回されたと思えば、口づけられた。

 柔らかな感触に、あの日の夜が思い出されてソアは体の芯が疼く。身をよじりながら縋りき、甘美な口づけに必死に応えた。

「ーーーん…、お、王様、」

「名を呼んでくれ、ソア。そなたの鈴のような声音で私の名を」

「ソジュンさま…」

 熱く見つめ合い、また近づく距離。

 目を閉じてそれを待つソアだったが、一向に唇に感触はなく目を開けると、ソジュンは片手で額に手をやり俯いていた。

「ソジュンさま…?どこかお加減でも…!?」

「ーーーいや、そうではない」

「では…」

 なんだろうか、とソアは首をかしげる。何か、粗相をしてしまったか不安になった。

「違うのだ…、これ以上は…我慢がきかなくなりそうで…」

 我慢の意味を遅れて理解したソアは、一層頬を染めた。

「も、申し訳ありません…」

(そ、そうよね…お腹にお子がいるのだからお相手は…)

「謝ることではない。…まぁ、正直な所を言えば、ソアを独り占めできないのは残念だ」

「まぁ、ソジュンさま…、ふふふ」

 その言葉の通り、心底残念そうに言うソジュンが可愛くて、思わず笑ってしまう。二人しかいない部屋にソアの声が響いた。

「ソアの、笑い声が、昔から好きだった」

「昔だなんて、ずいぶん大げさです」

「そんなことはない。思い続けてかれこれ7年以上だ」

「ーーーーえ?」

 7年という数字は、ソアには苦い思い出しかない。父が失脚し全てを失ったのがちょうど7年前。

「…湖畔の別荘でのことを、そなたは覚えていないだろうか」

(うそ…)

「え…、だって…名前が…」

 ソアの記憶にある少年は、シウという名前だ。

「王族は、成人すると名を改めるのだ」

「そんな…、シウはソジュンさまだったのですか…?え、でも、シウは私と同じくらいの年頃だったはず…」

 あの当時ソアよりも少し背丈が低いくらいで、てっきり同じか年下だと思っていた。ソジュンはソアの2つ上だ。

女子(おなご)の方が成長が早いからな。ソアはあの時から伸びていない様に思うぞ」

「ソジュンさまが大きくなりすぎなんです」

 ソアは頬を膨らませるも、すぐにそれは緩んでしまう。

(ソジュンさまがシウだったなんて…嬉しい)

「ずっと、気になっていたんです。シウはあれからどうしているかと」

 湖畔で過ごしたシウとの時間は、確かにソアにとって特別な時間だった。同じ年頃の子と遊ぶ機会がそもそも少なかったこともあるが、真っすぐに自分を見るシウがソアには眩しく憧れていたのだ。

「あの時から、私の妻はソア以外考えられなかった」

 確かに別れ際に『結婚する』と叫んでいたけれど、まさかそれほどまでに思ってくれていたなんて、とソアは驚く。

「では…、酒場の近くで会ったのも、偶然ではないのですか…?」

 ソアの問いに、ソジュンはその端正な顔に笑みを浮かべて頷く。

 その事実を知って、溢れた涙が頬を濡らした。

「ソア、今度伽耶琴(カヤグム)を弾いて聴かせてくれ」

 ソジュンに、ーーーシウに、伽耶琴をせがまれて、ソアは嗚咽が押さえられなかった。

 まるであの頃に戻ったような錯覚に陥る。ソアの耳にはあの、白樺の奏でる葉の音が聞こえるようだった。

 返事の代わりに何度も頷いてソジュンに縋りついた。そんなソアを、ソジュンは優しく抱きとめる。


「よいかソア、私のそばを離れることは許さない。これは王命だ」


「ーーーーはい、王さま。この身が果てるその時まで、おそばを離れずお仕え申し上げます」



 ソアは、恋焦がれた愛する人の胸に、頬をすり寄せた。