「ーーーやっぱりこない…」
厠で汚れのない下着を見てソアは、顔を青くさせた。月のものがかれこれ三月きていないのだった。
一月目に来なかった時は、遅れているのかと思った。それから1週間2週間と毎日のように下着を確認してはため息をつく日が続き、最近疲れているせいだ、そのうちくる、と自分に言い聞かせ二月が過ぎ、そしてとうとう三月が経った。
ソアは信じられない思いだった。
(たった一度…しかも初めてで…?そんなこと、ある?)
神様のいたずらとは、こういうことを言うのかもしれない、とソアは思ったが、男女の営みの先に起こりうる自然の摂理であることは間違いなかった。
「どうしたら良いの…」
神様のいたずらだろうが自然の摂理だろうが、出来てしまったものは仕方がない。無かったことにはできないのだ。
だとすれば、これから先、どうすればいいというのか…。
迎えに来ると言ったソジュンは、あの日からプツリと姿を見せなくなった。迎えに来るどころか、あれほど足しげく通っていた酒場にさえ来なくなった。一度たりとも、だ。
あれから、もう三月が経つ。
「大丈夫。ソジュンさまは、必ず来てくれる」
自分に言い聞かせるように言って、ソアは襟もとから首にかけた紐を引っ張る。その先には、二連になった翡翠の玉指輪が通されていた。
(なんの模様かしらね…)
よくよく見ると、二連の指輪に跨いで何か彫りが施されているが、細かすぎてなんの模様なのかわからない。
それに今は、指輪の模様よりもお腹の子が最重要課題だ。
腹はまだ全然膨らんでいないが、ここ数日悪阻のような症状が出ていた。食べ物の匂いを嗅ぐと吐き気がする。あと、酒の匂いもダメだった。
だから、食事もあまり進まず、最近疲れが取れない日が続いていたし、あまり悪阻が酷くなれば周りに気づかれてしまうだろう。
どうすれば妊娠を隠し通せるだろうかと、ソアは頭を悩ませていた。
住み込みの下女が子を産むなど、言語道断。赤子などなんの役にも立たないどころか世話がかかり𧏚つぶしが増えるだけなのだから。
万が一知られれば、下ろせと言われるのは明白だし、きっと今以上の酷い扱いを受けるだろう。
考えただけでぞっとした。
(どうにかしないとだけど…)
産むとなればどうすれば良いのか…、世間を知らないソアには見当もつかなかった。
そして、それから数日後、ソアが最も恐れていた事態が起こる。
「あんた…、もしかして妊娠してるのかい?!」
店の外で吐くソアの背中にかかった女将の声に、体が凍り付いた。料理を運んでいる最中に吐き気を催して慌てて外に出たのだが、それを不審に思った女将が様子を見にきた事に気づかなかった。吐いているところを見られてしまい、血の気が引いていく。
「ち、違います…、ちょっと最近、調子が良くなくて、風邪をひいただけです」
「あぁっ!イさまだね!?前に朝帰りしたって姉さんから聞いたよ!その辺りからイさまもぱったり来なくなって…。やっぱりあんたのせいだったんじゃないか!この売女が!恥さらしもいいとこだねぇ!ーーーちょっとあんた!聞いておくれよ!」
「あ…女将さん…まっ…」
ソアの言い分など聞く気もない女将は、店内に入っていってしまった。
(どうしよう…知られちゃった…)
まさか、奥方がソアが朝帰ってきたことに気づいていたとはソアは思いもよらなかった。
そして、女将はその後ソアを連れて家に帰り、その場で妊娠の話を伝えた。
「ソアが妊娠してるっていうのかい?!本当かい!?」
奥方が、目を吊り上げてソアを睨みつける。
「あの…違うんです…その…」
「姉さん、間違いないよ。この子今日だけじゃなくて少し前から食べ物の匂いに敏感に反応してたから」
「相手は誰なんだ?」
それまで黙っていた主人がソアに聞くが、ソアが答えるよりも先に女将がソジュンの事を店に来る上客だと説明する。
「このっ!身の程知らずが!恥を知りなさい!」
あまりの奥方の怒号にソアは肩を縮こませる。罵声を浴びることは、どれだけされても慣れない。
「けど、男がそれっきり店に顔も出さなくなったところを見れば、捨てられたんだよこの子は」
ソアは何も言い返さなかった。例え、ソジュンの言葉を言ったところで今の現状を思えば誰も信じないとわかっているから。
「とにかく、こんな夜更けじゃ医者も呼べない。話は医者に妊娠を確かめてもらってからだ」
主人は、ソアの腕を掴むと力任せに部屋へと連れていき、中へと押しやった。
「逃げようなんて馬鹿な真似は考えるなよ」
扉が締められると、外でガタガタと音がする。部屋の扉が外からつかえ棒か何かで閉じられてしまったようだ。母屋の片隅にあるソアの部屋は、物置小屋で扉以外には小さな換気用の小窓しかなく、逃げようにも逃げられない。
「あぁ…うっ…うぅ…」
ソアを、絶望が襲う。
ソジュンに会いたいと、ソジュンのあの逞しい胸に抱きしめられたいと、強く思った。
けれど、それは叶わない。
ソアには、ソジュンが今どこでどうしているのかさえ知らないのだから。
(ソジュンさま…早く、迎えにきてください…早く…)
ソアの願いは虚しく、小さな窓から朝陽が注ぐ。
「ソア!起きろ!」
泣きつかれて眠ってしまったソアは、物々しい声に目を覚ます。
開け放たれた扉から主人たちが姿を現した。主人と奥方、ハユンが厳しい顔つきを向けている。
「先生、こちらです。お願いします」
後ろから現れたのは、手に大きな鞄を抱えた初老の男と中年の女性。
「どれ、ちょっと失礼するよ」
男は、ソアのそばまできて手を取ると脈を取り出した。その動作で、彼が医者だということに気づき、もう後がないことを知った。
「確かに、妊娠していますが、この週数なら薬を飲めば大丈夫でしょう。どれ、持ってきたあれを煎じてこの娘に飲ませてくれ」
そう言われ、隣に居た女が奥方とハユンと共に厨へと姿を消した。
「あ…、あの…く、薬とは」
「腹の子を下す薬だよ。なぁに、下痢くらいの腹痛だから、心配はいらん」
(やっぱりそうよね…)
それだけ言うと、医者は出ていき、残った主人がソアを見下ろしていた。その顔には、怒りや呆れ、侮蔑が浮かんでいる。
そして主人は部屋へ入りソアに近づいて、囁いた。
「お前は見目だけは良いから、ハユンが嫁いだら私の妾にしてやろうとこれまで優しくしていたというのに…。どこの馬の骨かもわからん男に処女を持っていかれるとはなぁ、とんだ誤算だったが、まぁ今回は多めに見てやろう。そんなに子が産みたいのなら、私の子を産ませてやる」
それだけ言って主人は部屋から出ていった。
「…そ、そんな…っ」
主人の思いもよらない思惑に衝撃を受け、ソアはその場に泣き崩れた。子を下ろすだけでもショックだというのに、あんまりだ。小屋には、ソアの悲痛な鳴き声が響き渡る。
(ソジュンさま…)
浮かんでくるのはソジュンの姿。
あの日のソジュンの愛の言葉とこの胸にある翡翠の玉指輪だけを心の支えに、信じて待っていた。
いくら信じているとは言え、この三月の間顔も見れていない事がソアを不安にさせ、もうソジュンは迎えに来てくれないかもしれない、と思ったことも数知れず。
それでも、ソジュンのあの優しい眼差しは偽りではないと、ソアは今でも信じている。
(お子を、どうか助けてください…)
胸にある指輪を握りしめて、ソアは一人静かに涙を流した。
それから程なくして、主人と下男によって庭に連れ出されたソア。泣きながら懇願するも虚しく、煎じた薬が目の前に置かれる。
「さぁ、飲め」
椀に入ったそれを虚ろに見つめるだけで、ソアはどうにも手にできない。これを飲めば自ら腹の子を殺すことになるのだから、それだけはしたくなかった。
痺れを切らした主人の目配せを合図に、下男がソアを羽交い絞めにする。
「悪く思うなよ」
後ろで下男が呟く。その下男は、普段ソアを気にかけてくれる事もあったが、主の言うことには逆らえない。下男とて好きでやっているのではない、ということを同じ境遇のソアはよくわかっていた。
静かに涙を流すソアの鼻を主人がつまんで固定すると、椀を口にあてがい流し込んだ。
「飲み込め」
「ぶっ」
ソアは口いっぱいに入った薬を勢いよく吐き出す。それは、主人の顔や体に飛び散り服を汚した。
「っ!!このっ!端女が!」
ーーーーバシン
平手打ちがソアの白い頬に浴びせられた。口の中に鉄の味が広がり、残った薬と一緒に再度吐き出す。その目には強い光を宿していた。
(この子は、殺さない…、殺させない!)
「調子に乗るのも大概にしなさいよ!」
「薬のかわりを持て」
「こちらに」
怒りに昂った主人が、女から椀をひったくる。
「おい、鼻をつまめ。私が口を閉じる」
「わかりましたわ」
奥方に鼻をつままれ、口で息をするしかなくなったソアに主人が薬を注ぎ、すかさず口をつまんで塞がれてしまう。
(も、もう…息が…)
「ーーーー何をしている!今すぐその手を離せ!」
天を裂くような声と、大人数の走る足音に、その場にいた誰もが驚き固まった。
「ぐはっ…けほっ…」
すんでの所で解放されたソアは、どうにか薬を飲みこまずに済んで、その場に脚から崩れ落ちた。
「ど、どうしてお役人さまが、このような所に…?」
青い官服を纏い頭に烏帽子を被った男が一人と、その後ろに槍や剣を携えた数十人の武官が騒然と並んでいた。青い官服は従六品以上の階位を表す位の高い官吏だ。
「パク・ソアさま」
(え、私…?)
ソアと目が合うと、官吏はソアの疲弊しきった顔を見て慌てたように駆け寄ってくる。
「お怪我は?」
ソアは、けほけほと咳こみながらもどうにか首を振る。むせ過ぎて喉が苦しくて声が出なかった。官吏が手を上げると、後方から2人の女官が現れてソアに駆け寄り、持っていた布で濡れた顔を優しく拭ってくれた。
とりあえず助かった、と安堵のあまりまた涙がぽろぽろとあふれ出る。
「一体、これはどういうことか、ご説明願いたい。今飲ませようとしていたものは何ですか?」
「そ、それは…」
「答えよ!」
「…腹の子を下ろす薬です」
後ろに控えていた医者がおずおずと言う。
「ーーーーなんと畏れ多いことを…」
官吏の手が怒りにわなわなと震える。
「このお方は、これから国王さまの寵妃となられるお方。お腹のお子は紛れもなく王の子なるぞ!」
「なんっ…」
「お、王さまですって…っ!?」
次々に言葉にならない驚きの声があがり、ソアを含めた皆の顔が青ざめていく。
(ソジュンさまが…、国王さま…?)
何かの間違いじゃないか、とその場に居た誰もが思った。
「そ、ソアが…寵妃…?あ…あの…、お人違いでは…」
奥方にそう訊ねられた官吏は「私の言葉を信じられぬのか」と冷たい視線を向ける。
「パクさま、玉指輪はお持ちですか?」
言われて、ハッとしたソア。
震える手で首の紐を手繰り寄せた。翳りを知らない翡翠の玉指輪がぽろんと姿を現す。紐を首から外すとそれを官吏へと手渡した。それをまじまじと見た官吏は一人深く頷く。
「この指輪に刻まれた龍紋が何よりの証だ」
(あれは、龍だったの…?)
「そ、そんな…」
「な、なんということ…」
「知らなかったとは言え、王の子を殺そうとした罪は重い。これは明らかなる不敬罪!この者たちを捕らえよ!」
「ひぃっ」
「お、お許しをっ!」
「母上、父上!?一体何がどうなってるの?!」
泣きながらおろおろとするハユンを哀れに思いながらソアは、女官に支えられて屋敷の外へと連れ出される。そこには豪奢な輿が用意され、周りには何ごとだと町人たちが物見遊山に集まり人だかりができていた。
ソアはそれすらもどうでもよいほど、体も心も疲れ切っていた。
「もう大丈夫ですよ、ご安心ください」
輿に乗せられると、先ほどの官吏が来て玉指輪を返してくれた。
「あ、あのっ…、薬を少し飲み込んだかもしれなくて…お腹のお子が心配なのです…」
「それはさぞかしご心配かと存じます。宮殿に着いたら、直ちに内医院の医師に診てもらいましょう」
「ありがとうございます…」
御簾が下ろされほどなくして、輿が動き出す。
久しぶりに乗った輿は快適で、揺られているうちに何度もこっくりこっくりと船をこぎながらもどうにか到着まで意識を保った。