「ふわぁぁ」

 眠たい頭を何とかお越して、ソアはあくびを一つ。そしてクリアになっていく頭が、昨夜のソジュンを思い出して、頬を朱色に染めた。

「おでこに…く、口づけされちゃった…っ」

 あれは、なんだったのか、と昨夜は帰ってからもなかなか寝付けなかった。

(今まで、触れても頭を撫でるくらいだったのに…)

 ソジュンの真意は全くもってわからないが、ソアは天にも昇るほど嬉しくてたまらない。妹の様に思ってくれているのだとしても、ソジュンに会えて話せるのならそれで構わなかった。

「そうよ、ソジュンさまは、私のことなんて妹のようにしか思ってないんだから、変な期待はしちゃだめね」

 両班の娘ならともかく、下女のソアがあのような高貴な御仁に恋焦がれ、想われたいだのと望むことすら烏滸がましいというものだ。

(自惚れたらだめ)

 ソアは自分を戒めるかのように冷水に顔を浸して洗い、気を新たに一日の仕事を始めた。


 しかし、自惚れてはいけない、と自らを戒めたソアをよそに、あの日以来ソジュンは隙を見てはソアに思わせぶりなセリフをかけるようになった。

 可愛い、とか綺麗とか、時には『ソアが嫁に来てくれたら良いのにな』なんて求婚とも取れかねないセリフまで出てくる始末。

 慣れないソアは、いつも顔を真っ赤にしてソジュンから顔を逸らすしか出来ない。されど、そんなソアも可愛いと言わんばかりにソジュンは慈愛に満ちた瞳でソアを見つめてくる。

 ソジュンの言葉攻めに耐える日々が続いたある日、片付けを終えて店を出ると、なんとそこには灯篭を手にしたソジュンの姿が。

「そ、ソジュンさま!?こんな遅くにどうなさったのですか?」

「今日は仕事が終わらなくて間に合わず、こんな時間になってしまったのだが…ソアの顔が一目見たくなった。せっかくだから家まで送ろう」

「嬉しいです…ありがとうございます」

(わぁぁ…っ、ソジュンさまってば、急にどうしちゃったのぉ…)

 平静を装っていたソアだが、内心はもうドキドキだった。
 灯篭の火の明かりが二人の進む道を優しく照らし、火照った頬を春の匂いを含んだ柔らかい夜風が撫でていく。

(そんな風に言われたら、勘違いしちゃう…)

「ソアは…、私に会いたいと思ってくれることはあるだろうか…」

「…も、もちろんです…」

「そうか…、それは嬉しいな」

(ーーー家に着かなければ良いのに…)

 このまま、二人でどこか遠くに逃げてしまいたい。そしたらどんなに幸せだろうか、とソアは絵空事を思う。

 叶わぬ恋だとしても、胸のときめきはソアにとってツラいことだらけの日常を鮮やかに色付けてくれた。ソジュンの存在が、ソアを勇気づけてくれていることは言うまでもない。

 けれども願いは虚しく、ソアの家はもうすぐそこだ。

「あの…、家がもう見えましたので、ここまでで大丈夫です…」

「ソア…」

「は、はい…」

 呼ばれて、足を止める。
 向き合えば、思いつめたような顔のソジュンがいた。

 とても、静かな夜。人気もなく、月だけが二人を優しく見下ろしている。

「私は、どうしたらいい…」

「え?」

「このまま、ソアを連れ去ってしまいたいーーー」

 何を言われたのか、理解するよりも早くソジュンがソアの手を取り、駆けだした。

「そ、ソジュンさま、ど、どこへ…?!」

 返事は、なかった。

(どこへだって良いわ、ソジュンさまと一緒なら)

 来た道を戻り、店を過ぎて反対側へと早足で進んでいく。

 ソアは必死についていくだけで、それ以上言葉を発することは憚られた。

 ようやくたどり着いたのは、高級な佇まいの宿屋だ。両班や裕福な者しか泊まれないような宿屋の前でソジュンは歩を止める。

「こ、ここは…」

「私が使っている宿だ」

 手をつないだまま、躊躇なく扉を引いて入ると、受付台の向こうに座っていた店主が目を向ける。軽く会釈をしたソアだったが、店主はこちらをーーー正確にはソジュンを認めて目をひん剝いて駆け寄ってきた。

「イ様!お、おかえりなさいませ!」

「あぁ、世話になる」

 ソジュンは、手に持っていた灯篭を店主に押し付ける。

「あっ、そ、そちらのお嬢さまは…?!」

「連れだ、気にせずともよい」

「は、はい、承知いたしました。ごゆるりと」

 ソジュンは店主をあしらい、まるで我が家のようにソアを導いた。

(こ、これって…そういうことよね…)

 いくらそういうことに疎いソアでもわかる。

ーーーカチャリ

 部屋に入り、鍵を閉めたソジュンは、ソアを抱きしめた。腰と頭に手を回し、隙間を埋めるようにしっかりと。

 上等な絹の衣がソアの頬に滑らかに触れる。

 胸が苦しかった。ソジュンが、自分と同じ気持ちでいてくれて、こうして求められることが信じられない程にたまらなく嬉しいのに、それがまるで現実味を帯びていないということをソアは頭の隅で理解していたから。

(それでも、良い。例え、一夜限りの夢だとしても、構わないーーー)

「ソア…」

 ソジュンの顔が間近に迫り、どくどくと激しい鼓動がソアの耳をうるさくさせる。

 鼻を掠める香の匂いと共に、唇に置かれた柔らかな感触。

 それは、スローモーションのようにゆっくりとした動作だった。

 とろんと艶っぽい瞳に見つめられて、口づけされたのだと遅れて気づいた。次の瞬間には視界が反転。ソアは、軽々と抱き上げられて寝台へと運ばれる。

 そっと、丁寧に布団の上に座らされて、また唇が重なる。今度は、角度を変えた濃厚な口づけだった。

「ん…、っ」

 口づけとはなんて甘美なものだろうか、とソアは蕩けてしまいそうになる。ずっとこうしていたい、と思わせる心地よさがあった。

「そなたがたまらなく愛しい…」

 ソジュンの切なげな横顔を、窓の飾り格子から注ぐ月明りが照らす。

「で、ですがソジュンさま…、私のような下女では…ソジュンさまのお相手には…っ、」

 ふさわしくない、と開いた口は、ソジュンのそれに塞がれた。

「んっ…は…あっ」

(やだ…声が)

 自分のものとは思えない嬌声が部屋に響くも、それどころではなかった。

「そなたが欲しい、今すぐ私のものにしてしまいたい」

(どうしよう…、すごく嬉しい…)

 信じられない気持ちと、嬉しい気持ちとが同時にこみ上げてくる。惹かれていたソジュンに、欲しいと言われて嬉しくないはずがなかった。

「ソアの気持ちを聞かせてくれ」

「わ、私も…ずっと、ソジュンさまをお慕いしておりました…」

 素直な気持ちを伝えれば、ソジュンはその端正な顔に美しい笑みを浮かべた。

「ソア…すぐにはそなたを迎えには来れないが、必ず迎えに行く」

「私を…迎えに…?」

「あぁ、そうだ。だからそれまで信じて待っていてほしい」

 ソジュンは襟もとから革ひもを引っ張り、外す。そしてそれをソアの首にかけた。

「これは…」

玉指輪(オクカラッチ)だ」

 革ひもには、二連に結ばれた翡翠の玉指輪が通されていた。透き通るような緑色が美しく、手に乗せるとキンと涼やかな音が響いた。

 玉指輪(オクカラッチ)は、既婚女性だけが身に着けることを許された特別な指輪。女子(おなご)なら誰しも殿方から贈られることを夢見るものだ。

「こ、こんな、高価なもの…」

「そなたのためにと作らせたのだ、受け取ってくれ」

「私のために…」

「ソア。私の妻になってくれるか」

(ほ、ホントに…ソジュンさまと…)

 一夜限りだと思っていたソアは、あまりの嬉しさに声が出なかった。目に涙を溜めながら、首を縦に何度も振る。

 ソジュンは受け入れられたことに安堵したようで、笑みが一段と和らいだ。

「そなたはもう私のものだ。誰にも渡さぬ」

 また、きつく抱きしめられた。首を縦に振ったものの半ば信じられないソアは、ソジュンの胸にすがり嬉し涙を流す。そして、次には抱きしめられたまま布団に倒れ込み、背中に布団を感じた。

 深い口づけを受けながら、服が解かれていき、ソアが身に着けるものは、首紐と玉指輪のみとなってしまった。

「色の白いそなたに翡翠はよく似あうな」

「あまり見ないでください…こんな貧相な体…」

 まじまじと見下ろされて両腕で体を隠すように抱きしめるも、ソジュンの手がそれをよしとしない。

「何を言う、とても美しい体だ、ソア。もっとよく見せてくれ」

「ーーーあっ」

 腕が布団に縫い留められ、露わとなったソアの体に口づけが落とされる。

 微かな痛みを伴って、赤い花弁がいくつも刻まれた。

 密着する肌から伝わる体温に体の芯が溶かされていき、ソジュンのささくれ一つない滑らかな手がソアの体を滑り、潤す。

 男性経験のないソアにとっては、全てが初めてのことで、ソジュンによってもたらされる快感にもれそうになる嬌声を押さえるだけで精一杯だった。

 押し寄せる波に身を任せ、何が何だかわからぬままソアはソジュンを受け入れる。

「ソア、好きだ、愛しているーーー」

 繋がったまま、愛を囁くソジュン。ソアは、その言葉を、声を忘れないように心の奥深くに刻み込んだ。




 ふと、頬に心地よさを感じて瞼を持ち上げると、ソジュンの優しいまなざしが近くにあり胸が跳ねる。ソジュンの指がソアの頬を撫でていたようだ。

「寝てしまいました…」

「無理をさせたな。つらいだろう」

(うわぁぁ…恥ずかしいっ)

 さっきまでの情事を思い出し、たまらず、ソアは両手で顔を覆った。

 全てが怒涛の速さで過ぎていき、まるで夢を見ているようだったが、これは現実。下腹部に感じる鈍い痛みが何よりの証拠だった。

「そう言えば…、もう伽耶琴は弾かないのか?」

「え…、どうしてそれを…?前にお話しました?」

 伽耶琴が弾けることなどソジュンに話しただろうか、とソアは首をかしげる。

「あ、あぁ…、以前弾いていたと話してくれただろう」

「あ、はい…今はもう…楽器もありませんし、もう何年も触っておりませんので、もう忘れているかと」

「そうか、それは残念だな。いつかそなたの伽耶琴を聴きたいものだ」

 ソアも、同じことを思った。もしまた伽耶琴を触れるなら、その時はソジュンに聴かせたい、と。

(きっと、さぞ酷い音でしょうけど…)

 ソジュンなら、そんな粗末な音色でも微笑んで聴いてくれるに違いない、とソアは伽耶琴を奏でる自分とそれを優しく見守るソジュンの姿を思い描いた。

「ソア、さっきも言ったが、すぐにはそなたを迎えにはこれない」

 静かに言われ、ソアは手から顔を上げる。至極申し訳ない顔のソジュンに、笑顔で「はい」と返事をした。ソジュンが、これ以上悲しまないように。

「だが、必ず迎えにいく」

「いつまでも、お待ちしております」

 ソアは、ソジュンの腕の中で幸せをかみしめて、目を閉じた。