「あっ、なあ!」

 ぱたぱたと駆け出した背中を追いかけるように階段を下りて、建物の中へと消えた彼女の姿を探す。
 確かここはこの海水浴場数少ない海の家であった筈だが。

「すみません、今入って来た女の子探してて…」

 勢いよく駆け込んできた俺に向けられた好奇の目に、慌てて状況を説明する。二三組のカップルは生返事のあとすぐに興味を失ったように互いの会話へと戻っていったので、俺も人心地ついて店内をくるりと見渡した。
 注文された焼きそばの匂いが充満するくらいには小さな小屋だ。座敷とテーブルが少しずつ。奥には尾三部で使えるおもちゃや軽食、飲み物なんかも置いてある。
 そういや昔ここでラムネ買ってくれってねだったなぁ、なんて思い出に耽りながら小屋の奥へと進んで行けば、カウンターに立ったおばあさんが優しく皺を深めて笑顔を浮かべた。

「あらいらっしゃい。…と言っても、話を聞いてる限りじゃお兄ちゃんはお買い物に来たわけじゃ無さそうね」
「すみません、あの、ちょっと人を探してて。多分俺と同じくらいの年の女の子なんです。肩くらいの綺麗な黒髪で、白いワンピース着た子なんですけど。この小屋に入ってくとこまでは見えて…」

 知りませんかね、なんて歯切れの悪い俺の問いかけに。おばあさんは柔らかな笑みを崩すことなく頷いてみせる。

「ええ、ええ。知っていますとも。なんて言ったってその子はあたしの孫娘ですからね」

「えっ、お孫さん⁉」

「はい。…ほら紫苑。お兄ちゃん、やっぱり貴女のお客さんだったわよ。顔くらい見せてあげんなさい」

「…おばあちゃんの裏切り者」

「ふふ、なーんとでも」

 ぶすっとした声色でカウンターの隅からあらわれたのは、確かに俺がさっき見かけた女の子で。紫苑と呼ばれた彼女は罰が悪そうな眼差しをしたまま、俺を無表情で見据えている。

「なに」

「え、なにって…」

「目が合って追いかけて来るなんて用があるか変質者かの二択でしょ」

「まあ確かに…。でも用って言われても困ると言うか…」

 なんで追いかけてきたんだろう、なんて俺は今更ながらにふと疑問を抱く。彼女が何か物を落したわけでもないし、知り合いだったわけでもない。ただ、声を掛けなくちゃと本能が告げた。

「…君が、悲しそうに見えたから」

「はあ?あんた私のこと馬鹿にしてんの」

「いやしてない!そう思うのも当然だけど!決して馬鹿にはしてなくてね⁉」

 頭一つ分以上低い所から黒い瞳がじっとりと俺を睨み上げている。しかし顔色は相変わらずの無表情で、俺はふと湧いた違和感にはてと首を傾げ目を瞬かせる。
 そんな俺の変化に気づいたのか、彼女は一つ溜息を吐くと、「着いてきて」なんて言葉を最後に俺を横切って小屋を出た。慌てて後を追おうと踵を返した俺の背中に、「お兄ちゃん」とおばあさんの声が掛かる。

「お兄ちゃん。あの子、紫苑のこと、どうか見てやっててくれないか」

「え、っと。見てやるって…?」

 頼まれたそれの意味が分からなくて、俺は困ったように言い淀む。それでもおばあさんの顔は真剣で、たまらずその空気に呑まれるよう息を呑んだ。

「今日だけ、ほんの少しの間だけでもいい。あの子と一緒に過ごしてやって欲しいんだ」

「それは勿論、構いませんけど。むしろ声を掛けたのは俺の方からだし」

 でも、どうしてそんなに深刻そうな顔で。とは聞けなかった。ただほっとしたように笑ったおばあさんが何時までも脳裏に焼き付いて、艶やかな黒髪を追いかける最中、俺はどうやら随分と立て込んだ事情に首を突っ込み始めているのだと言うことを察した。

「…でも、引く気にはならねえんだよな」