じくじく、だか。みんみん、だかよく分からないけど。とにかく煩いくらいに鳴り響く蝉の声から耳を背けたくて。一分とズレなく到着した電車の車両に俺は一二も無く飛び乗った。
「何だって今日はこんなに暑いんだよ」
はあ、とTシャツの襟ぐりを指でつまんでぱたぱたと仰いだ。冷風が熱を持った肌を撫でていくのが心地よくて、俺は暫し極楽にうっとりと目を細める。
背後の窓ガラス越しに広がるのは雲一つない晴天。快晴。まさに夏本番と言う言葉がぴったりと当てはまるような天候だ。それに比例して気温もぐんと上がり、なんと昨晩より五度以上も高いと言うんだからやる気も滅入る。
「こんな日に夏季講習なんてついてなさすぎんだろ」
独りぼっちの車両に落っこちた独白。溜息と共に空気に溶けていったその愚痴が、俺の気分を何よりも憂鬱にさせている原因だった。
高校に入学して一発目の定期テスト。新しい生活に浮かれ切っていた俺はまんまと補修ぎりぎりの得点をたたき出し、それが親にバレた結果貴重な夏休みを塾の講習にあてられることになってしまったのだ。
こんなにも暑い夏の日だって、行き先が長ったらしい話を聞かされる塾なんかじゃ無ければ俺だってもう少しは明るい顔を出来るのに。
そんな自業自得の結果に文句を垂れながら流れゆく景色を眺めていれば、ここでふと俺の中に妙案が浮かぶ。ペンキをぶちまけたように何処までも続く青空を見上げて、同じだけ青くて広い海を見に行きたくなってしまったのだ。
「…一回くらい補修サボったってバレねえだろ」
各駅停車の車両から降りて、俺はまず初めに塾へと電話を掛けた。部活と被って補修に向かえない事、前日に連絡を入れられなかったことに謝罪を告げれば話は終わり。拍子抜けするほど呆気なく終わった塾長との会話に俺は笑いをかみ殺す。
部活と言っても俺は陸上部の幽霊部員。そもそも顧問すらつかないような弱小陸上部が夏休みの朝から練習なんかするはずも無いが、そこは言わなければバレない訳で。一人二人と俺のサボりに気づきそうな奴らもいるが、あいつらが態々そんなことをバラすとも思えないので気は楽だ。
「飲みモンと飯くらいは買ってくか」
今日は塾から教材を持ち帰ろうと思っていたので少し大き目のリュックサックで出てきている。ペットボトルとお弁当くらいなら難なく入るだろうと結論付け、俺は駅の構内に併設されたコンビニへと向かった。
「あ、袋いらねっす」
自然と手が伸びたのは駅弁風のお弁当、それから麦茶。飴やガムなんかも少し摘まんで会計を済ませ、笑顔の柔らかな年配の店員さんから商品を受け取る。
買った物をベンチに座ってリュックの中へ詰めていれば、何だか遠足の準備を進めているようで胸が弾む。一人っきりの小さな旅に、俺は分かり易く浮かれていた。
「海なんて行くの何年ぶりだろうな」
スマホで検索した行先。どうやら十分後に駅へ到着する急行に乗れば、たった一本で終点の海まで到着できるらしい。子供の頃に何度か親に連れられて行ったその場所は、少しだけ観光地から外れた穴場スポット。俺たち親子と同じく偶然辿り着いた子連れなんかが複数組いたくらいで、海水浴場にしては人の少ない絶好の遊び場だった。
「やべ、めっちゃワクワクしてきた!」
さっきまでは随分と心を荒ませた蝉の声も、行き先が海へと変わっただけで良い夏の演出になる。気分一つでこうも世界の見え方が変わるのかと、俺は我がことながら他人事のようにそう思った。
「つってもま、こんなに突拍子も無い行先変更は流石にそう何度もできねえけど」
少しだけ冷静さを取り戻した頭でそんなことを思えば、丁度いいタイミングで電車も到着する。これで車内がボックス席なら…、なんて淡い期待もしていたのだが。普段乗っている車両とたいして違いの無い内装に、俺は僅かながらも肩を落とす。
それでも±で気分はまだプラスを向いている。平日の朝、ラッシュよりは少し遅い時間なので車内はやっぱり人気なくがらんとしているし、車両には競馬新聞片手に寝こけたオジサンが一人いるだけ。実質貸し切り状態の空間に、俺は迷わず正面に大きく窓が広がる座席を選んだ。
海が見えて来るのは進行方向かって左。それだけを確認してリュックを正面に抱え直し、揺れる電車に体を預けてぼんやりと流れ始めた風景を眺めた。
密集する住宅街が、細い線のように左から右へと消えていく。どんな人がどんな生活を送っているんだろうか、なんて考えを膨らませるのが案外楽しいもので、例えばあの赤い屋根の一軒家なら夫婦喧嘩をして飛び出してきた奥さんを慌てて迎えに行く旦那さん、だとか。あっちの団地から走って出てくる兄弟は、多分このまま公園に遊びに行って泥んこまみれで家に帰るんだろうな、とか。
沢山の人が生きる街を見下ろしながら、その輪の中にあるだろう俺のちっぽけな家に向けて、ごめんよ母さんと謝罪の念を飛ばす。バレたらお冠どころの騒ぎじゃない。多分飯抜き。夏休み中は外出禁止で勉強をしていろ、なんてことも言いだしかねない。
今更になって自分がとんでもなく無謀な挑戦をしようとしているのでは、と言うことに気づいてしまいそうになったがここまで来てはもう後には引き返せない。急行の名は伊達じゃなく、ぐんぐんとスピードを上げた電車はあっと言う間に街を離れてほんの少しの緑を抜け、港町へと辿り着いてしまった。
「…見えてきた」
腰を浮かせて正面を見る。空いっぱいに広がる快晴と溶け合うように、少しだけ深い青色が一直線に伸びて水面を揺らしていた。水面を叩く陽の光が眩しくて俺は思わず目を瞑る。それでも口元の笑みは抑えられずにいた。
―終点、終点。
そんなアナウンスと共に開かれた扉から矢を射るように駆け出してホームを抜ける。がしゃんがしゃんと揺れるリュックも一切気にせず、ほんのりと香ってくる潮風に俺の期待値は天元突破だ。
目的の海水浴場はもう直ぐそこ。高台向かって一気に坂道を駆け上がれば、随分と懐かしい風景が視界いっぱいに広がった。
「ふはっ、なーんも変わってねえ」
海をぐるりと囲む消波ブロックも、階段を下りた先に広がる真っ白な砂浜も。透明度がよく透き通った青色の大きな海が、穏やかに凪いでそこにあった。
一先ず海の傍まで行こう。着替えなしに泳ぐわけにはいかないけれど、足先を付ける位なら問題ないだろうか。確かあの端の方に水道があった筈だから、帰りはそこで砂を流して…。
そう、不意に視線を巡らせた先で。
ぱっちりと視線の重なった黒い瞳が、慌てたように俺からふと目を逸らした。
「何だって今日はこんなに暑いんだよ」
はあ、とTシャツの襟ぐりを指でつまんでぱたぱたと仰いだ。冷風が熱を持った肌を撫でていくのが心地よくて、俺は暫し極楽にうっとりと目を細める。
背後の窓ガラス越しに広がるのは雲一つない晴天。快晴。まさに夏本番と言う言葉がぴったりと当てはまるような天候だ。それに比例して気温もぐんと上がり、なんと昨晩より五度以上も高いと言うんだからやる気も滅入る。
「こんな日に夏季講習なんてついてなさすぎんだろ」
独りぼっちの車両に落っこちた独白。溜息と共に空気に溶けていったその愚痴が、俺の気分を何よりも憂鬱にさせている原因だった。
高校に入学して一発目の定期テスト。新しい生活に浮かれ切っていた俺はまんまと補修ぎりぎりの得点をたたき出し、それが親にバレた結果貴重な夏休みを塾の講習にあてられることになってしまったのだ。
こんなにも暑い夏の日だって、行き先が長ったらしい話を聞かされる塾なんかじゃ無ければ俺だってもう少しは明るい顔を出来るのに。
そんな自業自得の結果に文句を垂れながら流れゆく景色を眺めていれば、ここでふと俺の中に妙案が浮かぶ。ペンキをぶちまけたように何処までも続く青空を見上げて、同じだけ青くて広い海を見に行きたくなってしまったのだ。
「…一回くらい補修サボったってバレねえだろ」
各駅停車の車両から降りて、俺はまず初めに塾へと電話を掛けた。部活と被って補修に向かえない事、前日に連絡を入れられなかったことに謝罪を告げれば話は終わり。拍子抜けするほど呆気なく終わった塾長との会話に俺は笑いをかみ殺す。
部活と言っても俺は陸上部の幽霊部員。そもそも顧問すらつかないような弱小陸上部が夏休みの朝から練習なんかするはずも無いが、そこは言わなければバレない訳で。一人二人と俺のサボりに気づきそうな奴らもいるが、あいつらが態々そんなことをバラすとも思えないので気は楽だ。
「飲みモンと飯くらいは買ってくか」
今日は塾から教材を持ち帰ろうと思っていたので少し大き目のリュックサックで出てきている。ペットボトルとお弁当くらいなら難なく入るだろうと結論付け、俺は駅の構内に併設されたコンビニへと向かった。
「あ、袋いらねっす」
自然と手が伸びたのは駅弁風のお弁当、それから麦茶。飴やガムなんかも少し摘まんで会計を済ませ、笑顔の柔らかな年配の店員さんから商品を受け取る。
買った物をベンチに座ってリュックの中へ詰めていれば、何だか遠足の準備を進めているようで胸が弾む。一人っきりの小さな旅に、俺は分かり易く浮かれていた。
「海なんて行くの何年ぶりだろうな」
スマホで検索した行先。どうやら十分後に駅へ到着する急行に乗れば、たった一本で終点の海まで到着できるらしい。子供の頃に何度か親に連れられて行ったその場所は、少しだけ観光地から外れた穴場スポット。俺たち親子と同じく偶然辿り着いた子連れなんかが複数組いたくらいで、海水浴場にしては人の少ない絶好の遊び場だった。
「やべ、めっちゃワクワクしてきた!」
さっきまでは随分と心を荒ませた蝉の声も、行き先が海へと変わっただけで良い夏の演出になる。気分一つでこうも世界の見え方が変わるのかと、俺は我がことながら他人事のようにそう思った。
「つってもま、こんなに突拍子も無い行先変更は流石にそう何度もできねえけど」
少しだけ冷静さを取り戻した頭でそんなことを思えば、丁度いいタイミングで電車も到着する。これで車内がボックス席なら…、なんて淡い期待もしていたのだが。普段乗っている車両とたいして違いの無い内装に、俺は僅かながらも肩を落とす。
それでも±で気分はまだプラスを向いている。平日の朝、ラッシュよりは少し遅い時間なので車内はやっぱり人気なくがらんとしているし、車両には競馬新聞片手に寝こけたオジサンが一人いるだけ。実質貸し切り状態の空間に、俺は迷わず正面に大きく窓が広がる座席を選んだ。
海が見えて来るのは進行方向かって左。それだけを確認してリュックを正面に抱え直し、揺れる電車に体を預けてぼんやりと流れ始めた風景を眺めた。
密集する住宅街が、細い線のように左から右へと消えていく。どんな人がどんな生活を送っているんだろうか、なんて考えを膨らませるのが案外楽しいもので、例えばあの赤い屋根の一軒家なら夫婦喧嘩をして飛び出してきた奥さんを慌てて迎えに行く旦那さん、だとか。あっちの団地から走って出てくる兄弟は、多分このまま公園に遊びに行って泥んこまみれで家に帰るんだろうな、とか。
沢山の人が生きる街を見下ろしながら、その輪の中にあるだろう俺のちっぽけな家に向けて、ごめんよ母さんと謝罪の念を飛ばす。バレたらお冠どころの騒ぎじゃない。多分飯抜き。夏休み中は外出禁止で勉強をしていろ、なんてことも言いだしかねない。
今更になって自分がとんでもなく無謀な挑戦をしようとしているのでは、と言うことに気づいてしまいそうになったがここまで来てはもう後には引き返せない。急行の名は伊達じゃなく、ぐんぐんとスピードを上げた電車はあっと言う間に街を離れてほんの少しの緑を抜け、港町へと辿り着いてしまった。
「…見えてきた」
腰を浮かせて正面を見る。空いっぱいに広がる快晴と溶け合うように、少しだけ深い青色が一直線に伸びて水面を揺らしていた。水面を叩く陽の光が眩しくて俺は思わず目を瞑る。それでも口元の笑みは抑えられずにいた。
―終点、終点。
そんなアナウンスと共に開かれた扉から矢を射るように駆け出してホームを抜ける。がしゃんがしゃんと揺れるリュックも一切気にせず、ほんのりと香ってくる潮風に俺の期待値は天元突破だ。
目的の海水浴場はもう直ぐそこ。高台向かって一気に坂道を駆け上がれば、随分と懐かしい風景が視界いっぱいに広がった。
「ふはっ、なーんも変わってねえ」
海をぐるりと囲む消波ブロックも、階段を下りた先に広がる真っ白な砂浜も。透明度がよく透き通った青色の大きな海が、穏やかに凪いでそこにあった。
一先ず海の傍まで行こう。着替えなしに泳ぐわけにはいかないけれど、足先を付ける位なら問題ないだろうか。確かあの端の方に水道があった筈だから、帰りはそこで砂を流して…。
そう、不意に視線を巡らせた先で。
ぱっちりと視線の重なった黒い瞳が、慌てたように俺からふと目を逸らした。