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 翌朝、政務を執り行う紫雲殿は大騒ぎだった。九品官一同を列しておこなわれる朝議の刻を迎えても陛下がお出ましにならなかったのだ。不眠がちの陛下は毎晩世継ぎ作りの行為を済ませれば政務宮側へ戻ってくるのが慣例となっていたから、身の回りのお世話をする侍従たちから報告が上がるまで誰も不在に気づかなかったのだ。
「なんとしたことだ。陛下はどこにおられる」
 宰相孫尚徳が怒鳴りつけても朝議に参内した官吏たちは首をひねるばかりだった。後宮からの伝奏官も全く要領を得ない。
「昨夜お運びのあった女御も存じ上げないと申しているそうで」
「国家の一大事に何を言っているのか」
「突然寝所を出て行ってしまわれたと泣いておるそうで」
 老大臣は腕組みをしてため息をついた。
「おまえたちは玉体を何と心得ておるのか。陛下の御身に万一のことがあれば、それすなわち国家存亡の危機であるぞ」
 とは怒鳴りつけているものの、宰相自身、今朝も不眠で紫雲殿に戻っているのだろうと思い込んでいたのだからなんとも格好がつかない。
「探せ、探すのだ。宮中におる者すべてに号令を出せ。総動員をかけるのだ」
「はっ、直ちに」
 石畳にひざまずいて待機していた官僚が一斉に駆け出す。政務宮側のあらゆる扉や引き戸が開け放たれ、什器庫の箱の蓋までもが開けられ、あらゆる衝立を倒してみたにもかかわらず、皇帝の姿は見つからなかった。
「馬鹿者が!」と、宰相が廊下を右往左往しながら怒鳴り散らす。「猫を探しておるのではないぞ」
 その頃、後宮でも、騒ぎが起こっていた。
 一夜を泣き明かした楊麗花の寝所へ女官長趙夫人が大勢の女官を連れてやってきた。侍女たちが引き戸を両側へ開け放つと、女官長は顎を上げながら挨拶も抜きに押し入り、麗花を冷たく見下ろした。
「陛下はどこですか」
 帯を締め直す余裕もなくやっとの事で上体を起こした麗花は、慌てて布団から飛び退き、床の上に平伏した。
「存じません。昨夜、急に飛び出してしまわれて」
「言い訳など無用。どこへ向かったのですか」
「わたくしは何も」と、震える声を絞り出しながら麗花はひたすら額を冷たい床に擦りつけた。「申し訳ございません」
「あなたはそれで済むと思っているのですか」
「ですが……」
「言い訳は無用だと何度言わせるのです。たとえ天下に嵐が吹き荒れようとも宮中に間違いなどあってはならないのです。陛下の御身に何かあってはそなた一人の問題では済まないのですよ」
 もはや涙声の麗花は返答をすることすらできなかった。
「追って沙汰があるまで謹慎してなさい」
 趙夫人が踵を返して廊下へ出ると、女官たちも一斉に動き出す。麗花の寝所には誰一人として残る者はいなかった。いつもなら、身の回りの世話をする侍女たちはもちろんのこと、ご機嫌を伺いに来る女官たちで賑わう景旬殿はまるで廃墟のように静まりかえっていた。今さらながらに後宮の恐ろしさを思い知らされた麗花は魂が抜けたように胸をはだけたまま床の上にへたり込んでいた。
 そして、その頃、皇帝劉暁龍は景旬殿の一角にある小部屋で安らかな寝息を立てていた。
 そこは居室ではなく、布団や衣類をしまっておく倉庫だった。布団の山に埋もれるように寝ていた暁龍は外の騒がしさに目を覚ました。朝にふさわしい摘みたての葉でいれた茶のような清澄な香りが鼻をくすぐる。目の前には暁龍の左腕を枕にしたカーサリーの寝顔があった。
 ――夢ではなかったか。
 暁龍はそっと安堵の息を漏らした。まるで二人で溶け合ってしまったかのようなあの悦楽は夢ではなかったのだ。
 暁龍は右腕を彼女の背中に回し、お互いの額を触れ合わせた。
「ん……」
 目を開けたカーサリーが青い瞳で見つめ返す。
「すまん。起こしてしまったか」
「もう朝ですか」
「そのようだな」
 暁龍は抱きかかえながらカーサリーの細い体を起こしてやった。引き戸の隙間から差し込む光が背中を照らし、一筋に連なる金色の産毛を浮かび上がらせた。男が目を細めてその背中に口づけると、女は恥ずかしそうに身をよじりながら、乱れたままかたわらに投げ出された衣服をかき寄せて身にまとった。
 暁龍は勢いよく立ち上がって引き戸を開け放った。まぶしい朝の光に目を細めながらも腕を上げ大きく口を開けてあくびをする。
「ああ、よく寝たな」
 気分は爽快であった。このような朝を迎えるのは何年ぶりであろうか。
「ああ、快眠、快眠。気分が良いぞ」
 その声を聞きつけて女官たちが大勢駆けつけてきた。
「まあ、陛下……」
 一同は全裸の玉体に頬を赤らめ目をそらしつつ、布団の積まれた小部屋の中をのぞき込んだ。当惑顔の西域の小娘がみなを見上げている。
「なるほど、あなたでしたか」
 いつの間にか姿を見せていた趙夫人に道を空けて女官たちは一斉にひざまずいた。夫人は皇帝に頭を下げながらもはっきりとした口調で申し上げた。
「朝寝坊とは、陛下らしくありませんこと」
 暁龍は頭をかきながら笑顔を浮かべて答えた。
「いやあ、すまん。久しぶりにぐっすりと眠ってしまった。なんとも心地よいものでな」
「さようでございますか」と、呆れ顔でうなずきながら夫人が足元の女官たちを見下ろす。「早く陛下にお召し物を」
「はい、ただいま」
 女官たちが布団の間にくるまっていた衣服を取り上げ、一瞬にして着付けを終えた。
「先に孫大臣にお知らせなさい。陛下はまもなく戻られると」
 夫人に指示されて女官たちが一斉に駆けていく。
「さあ、陛下も、お急ぎくださいな。紫雲殿は天地がひっくり返るほどの大騒ぎですよ」
「分かった分かった」と、暁龍は快活に笑った。「松籟よ、怒るな。天地鳴動すれども玉座に傷一つなし。今日も天下太平よ」
 そして、残りの女官たちを引き連れて皇帝は景旬殿を去っていくのだった。
「なにをのんきな……」と、趙夫人がため息をつく。
 だが、小部屋に残された西域の娘に視線を移すと、夫人は口元をゆがめながら笑みを浮かべた。
 ――思った通りね。
 そして、一人残って控えていた側近の女官に指示を出した。
「景旬殿にこの娘のための居室を用意しなさい」
「ですが、麗花様は……」
「あの女御は陛下のご機嫌を損ねたのですよ。どこか空いている部屋にでも置いておきなさい。どうせ後宮からも追い出されるのですから。いちいち口答えしないで従いなさいな」
「申し訳ございません」
 叱りつけられて平伏した女官に、夫人はさらに指示をつけ加えた。
「調度品も衣服もすべて昼までに用意なさい。午後にはこの娘をそちらへ移すのです。よろしいですね」
「かしこまりました」
 女官が手配に向かうと、今度は遠慮がちに離れて控えていた侍女の明玉に視線を向け、顎で呼び寄せた。
「はい、松籟様」と、滑るように前へ進み出てひざまずく。
「この娘を通秋殿に連れていき、風呂に入れて朝食を与えるのです」
「かしこまりました」
「それと、瑞紹先生を呼んで診てもらいなさい」
「はい、ただちに」と、明玉はすぐに顔を上げてカーサリーに目配せをして立たせた。
「素直でよろしい」
 趙夫人は明玉に笑みを向けると、一言つけ加えた。
「明玉、つまみ食いをするのではありませんよ」
「あっ……」
 顔を赤らめて絶句した明玉を鼻で笑うと、趙夫人は満足そうに踵を返して去っていった。
 帝都を揺るがした皇帝の朝寝坊は一件落着となったが、後宮の混乱はむしろそれが始まりだった。その日のうちに景旬殿の景色は一変し、新しい寵姫がもてはやされるようになった陰で、ひっそりと散り去った花は誰からも見向きもされなくなったのだった。