◇

 その夜、皇帝は楊麗花の寝所へとお出ましになった。後宮には、下働きの侍女や位階を持つ女官とは別に妃の候補となる美女が常に数十人集められているが、皇帝のお目にとまるのは数名で、さらにお手つきがあっても再度のお出ましを賜れる者はほとんどいなかった。幸運にかすりもしなかった者たちはすぐに実家に下げられ、次の候補者がまた国中から集められてくる。川の水よりも入れ替わりの激しい後宮で、麗花のように連夜のお越しを賜ることは大変な名誉であった。
 だが、そこに愛情や幸福、さらには快楽すら存在することはなかった。酒を飲むでもなく、一言の会話を交わすこともなくすぐに布団に押し倒され、猛り狂う肉食獣に腹を食い破られるような行為を済ませるだけである。帝位継承以外に求められる意味など何もないのだった。
 今宵もまた皇帝は麗花に爪痕を残すとすぐに上体を起こしてしまわれた。麗花も慌てて頭を上げた。すぐに玉体にお召し物を掛けて差し上げなければならない。
「あの、陛下……」
「なんだ」
「お願いがございます」
「だからなんだ」と、自ら帯を巻く。「早く申せ」
「もう少しだけおそばにいさせていただくわけにはいかないでしょうか。せめて朝まででも」
「なにゆえだ。まだ物足りぬか」
「いえ、そのような」と、麗花は胸元に薄掛けをたぐり寄せた。「ただ、陛下にも安らいで朝までお眠りいただきたいと存じまして」
 皇帝は鼻で笑うのみであった。
「無駄なことよ。心配などいらん。そのうちひとりでに目を閉じていつの間にか居眠りをしている。いつもそうだ。それで倒れることもないのだから問題はあるまい」
「ですが、陛下、わたくしは……」
 麗花は皇帝の着物にすがりついた。皇帝の意に従わず、女官が手を出し引き留めるなど、処罰されても仕方のない無礼である。だが、それは麗花の賭けであった。ここで引き留めることができれば誰もが認める寵姫となれる。あの趙夫人の鼻を明かすどころか、追い出すこともできるだろう。
「昨夜は望月。今宵は十六夜か」
 皇帝は御簾から差し込む清明な光に目をやって麗花のかたわらに腰を下ろした。
「まぶしいようでしたら、衝立を置きましょうか」
「構わん」と、皇帝は麗花にもたれかかると胸に顔を埋めた。「これもまた風雅な衝立だ」
 そして、そのまま膝の上に頭を移すと、手懐けられた猛犬のように目を閉じた。
 ――勝った。
 私は賭けに勝ったのだ。胸でも膝でもどこでも枕にすればいい。このままこの寝所で陛下が寝ついてくだされば天下の半分は私のものだ。夜明けには後宮の天地は反転していることだろう。麗花は雑に結ばれた陛下の帯をゆるめ、布団を掛けて差し上げた。
 だが、魔窟に油断は禁物だ。一瞬月が雲に隠れたか、寝所が暗くなったその時だった。麗花の膝の上で皇帝が大きく目を見開いた。月を求めて遠吠えする狼のように顔を上げて鼻を鳴らす。
「なんだこれは?」
 かすかに闇に慣れた目に映る陛下の表情には驚愕の色が浮かんでいた。眉間にしわを寄せながら闇の中で匂いを探っている。麗花はわけも分からず動揺した。
「わたくしの香がお気に召しませんか」
 趙夫人のせいで香木の調合がいつもと違うことをとがめられているのだろうか。
「違う。これはどこから来るのだ。何の香りだ」
 いったい何が香るというのか。麗花も必死に嗅いでみたが、何も感じられなかった。獲物を追う獣のように皇帝は部屋の中を見回している。
「誰がおる?」
「他に誰もおりませんが」
 本能をむき出しにした男はもはやいらだちを隠すこともなく麗花の肩をつかんだ。
「何を隠している」
「いえ、わたくしは何も」
 かろうじて答えることができたものの、麗花は震えを止めることができなかった。
「では、これは何だ。いったい何なのだ!」
 突き飛ばされた麗花は額を冷たい床にこすりつけた。
「陛下、わたくしにいたらぬことがあればお詫び申し上げます。お怒りをお鎮めください」
「怒ってなどおらん」
 そう言い残すと、皇帝は引き戸を自ら開け放ち、寝所を飛び出していった。
 ――ああ、お父様、お母様、どういたしましょう。
 いったい何が起きたというのか。麗花は陛下のぬくもりの残った布団をかき寄せて涙をぬぐった。自分は寵愛を受けていたのではなかったのか。皇帝を激怒させるなど、麗花一人の失態では済まない。一族みなその責任を問われるであろう。
 御簾から再び清明な光が差し込んでくる。麗花はその青い輝きを恨めしく見上げるのだった。