紅玉涙歌 ~西域の囚われ王女は寵姫となって後宮に咲く~

 さかのぼること遙かなる御世に大陸の草原を東へ進む武人たちの行列があった。一行の先頭は皇軍旗を掲げているが、隊列の荷馬車が運んでいるのは粗末な造りの竹籠で、中には縛られた西域の娘が一人座っている。この娘は辺境の地にあった小国サファランの王女カーサリーである。
 東洋の大帝国を頂点とする冊封体制の下、朝貢を欠かすことなく長く平穏な治世が続いていたサファランであるが、皇帝に反旗を翻したとされたことから西域都督である周楚成将軍によって討伐されたのであった。王族は処刑され国は滅んだが、恭順の意を示した諸侯は周将軍の配下として地位を保証されることで決着した。唯一、まだ十代半ばの王女カーサリーだけは戦利品として生きたまま帝都へ移送されることとなったものの、反逆者として民衆の面前で断首される運命であった。
 移送中も見せしめとするために首を紐で竹籠に固定され、道行く者から顔を背けることを許されぬその姿は市場へ連れていかれる哀れな家畜を連想させるのだった。西域の空の輝きを染め上げたような青い絹地の衣装は破け、乾燥した日差しにさらされた肌は赤黒くただれ、鼻筋の通った顔や金色の髪は砂ぼこりにまみれ、まさに死にかけた駱駝そのものであった。見慣れぬ西方の姫を見ようと集まった街道筋の野次馬はみすぼらしい容姿に嘲笑と罵声を浴びせ、武人たちも石を投げる不届き者をとがめようとすることすらなかった。
 長い旅路の果てに、行列はようやく帝都の入り口である城壁門の前までやってきていた。カーサリーはかすかに顔を上げ、落ちくぼんだ目を屋根へと向けた。扁額の漢字を見て、つぶやきがこぼれる。
 ――スザク……。
 帝都の正面玄関となる朱雀門は、丹塗りの柱に緑や青の梁を幾重にも重ね、禁色である黄金の瓦を乗せた壮麗な楼門である。だが、その門扉は固く閉じられ、甲冑に身を固め金色の三角旗がはためく槍を構えた衛士の一団に守られている。都の正門は皇族以外、一般人はもちろん諸侯ですら通行は許されず、ましてや異郷の女囚などもってのほかであった。
 行列はその前を通り過ぎ、やや離れたところに作られた通用門へと進んだ。この南大門は日の出から日没まで一般人に開放され、実質的な正門の役割を果たしている。広く開け放たれた門には荷物を満載にした荷車がひっきりなしに出入りしている。
「ほら、どいてくれ!」
 ここでは、武人たちの行列ですら商人たちにとっては邪魔な障害物に過ぎなかった。一行は帝都の街路を進んでいく。異国の言葉が飛び交う商家の前を通過し、子供たちが駆け回る路地を抜け、先ほど迂回した楼門まで戻ってくると、そこからは宮殿へ続く大路がまっすぐ伸びていた。途中、人々の好奇の目にさらされながらも、カーサリーの目にもまた驚嘆の色が浮かんでいた。
 ――なんというにぎわい。
 辺境の地サファランでは、都といっても名ばかりで、荒れ野のオアシス周囲にできた隊商宿の村落に過ぎず、人よりも駱駝や羊の方が多かった。カーサリーの父ハルザーンも王とはいえ、東西交易を担う隊商の仲介者といった役割を果たしていたにすぎなかった。草原を流れる川に生える葦を刈り取って束ね、乾燥させたものを組んだだけの簡素な住居に炊事の煙が立ち上る。そんな我が郷里をこのような大帝国がなぜ蹂躙する必要があったのか。
 王朝は移ろえども、これまで変わることのなかった数百年にわたる東西の共存共栄、それはこれからも続くのではなかったのか。己の身に降りかかった理不尽を噛みしめながらも、カーサリーは帝都の繁栄に目を奪われていた。大帝国に飲み込まれた我が郷里はどうなるのだろうか。せめて民衆の日々の暮らしに安寧があれば……。カーサリーは自分の身がどうなろうとも、ただそれだけを願うのだった。

   ◇

 そのころ宮殿では女官たちの間でちょっとした騒ぎが巻き起こっていた。後宮の奥深く、景旬殿の庭に面した外縁廊下で平常着に薄絹の青衣をまとった年若い女御が、平伏した侍女を叱りつけている。平常着とはいえ高貴な者の衣服である。芙蓉の刺繍が柳の葉影に花開くかのように薄絹に透けている。
「どういうことなの?」と、女御は切れ長の目を吊り上げた。「あれほど言ったでしょうに。香木がなければ陛下をお迎えすることもできないじゃないの」
 寝所に焚く香木は媚薬である。南方の密林や北方の湖沼地帯、東方の島国から西域の大山脈まで、帝国版図の各所から集められた香木は多種多様で、女御それぞれの好みに応じて調合される。衣類や寝具にまとわせるのはもちろんのこと、自らの身体の芳香とするべく薬草とともに服用する者までいる。皇帝陛下に自分を印象づけなければならない女御たちにとって、それは我が身そのものなのであった。
「申し訳ございません、麗花様。ですが、先ほど養和堂へ参りましたところ、すでに持ち出されておりまして」
「言い訳はいいの。どこにあるの?」
「それが……」
 口ごもる侍女にいらだちを見せた女御はつやのいい唇を固く結んで庭へと視線を流した。その先には塀の向こうに顔を出す通秋殿の屋根があった。
「趙夫人ね」
 顔を上げかけていた侍女は慌てて廊下に鼻を擦りつけ否定した。
「いいえ、それは……」
「どれだけ邪魔をすれば気が済むのかしら」
 景旬殿の女御は楊麗花といい、出自は都下随一とされる大商人の娘である。格下の身分ながら参内するやいなや皇帝に見初められ、寵愛を受ける女御の一人として出世の道を歩んでいた。もちろんそれは実家の財力にまかせて多方面にばらまかれた賄賂のおかげではあったが、男を魅了する香木の調合術については、後宮の誰もが一目置く存在であった。
 片や趙夫人といえば後宮を束ねる女官長である。騎馬民族を出自とする現朝廷では従来の宦官制度を廃し、政務運営に携わる男性官吏を分離し、後宮運営を女官にゆだねることと定めていた。後宮三千といわれる女官の頂点に立つのが趙夫人であり、建国の功臣である趙将軍を祖とする一族出身とあって、その権力は絶大であった。飛ぶ鳥を落とす勢いの女御といえども、趙夫人の逆鱗に触れればその瞬間に都城外へ放逐される。香木を持ち出すように命じた人物が趙夫人であれば、麗花も今は黙っているしかない。だが、そういった妨害は参内以来これまでにも繰り返されたことであり、いつまでも忍従しているつもりなどなかった。
「お世継ぎを宿せばあんなおばさんだって、この私にひれ伏すのですから」
 だが、麗花には焦りがあった。花の命は短い。十代の若さなど、あっという間に消え去る。寵愛など、子をなさねばただ春の夜の夢と散るだけ。用済みとなれば趙夫人とやりあうまでもなく実家へ下げられてしまう。今のこの幸運を失う前に、地位を確実なものにしておかなければならないのだ。
「それで、養和堂には、あと何が残っているの?」
 麗花の質問に侍女は声を震わせながら答えた。
「何もございません。すべて持ち出されておりました」
 養和堂は後宮の養生所である。医者も趙夫人には逆らえないということだ。
「理由は聞いたの?」
「はい、陛下の不眠を治療するための香を調合なさるそうです」
 五代目皇帝劉暁龍は序列下位の妃の子であり、本来、帝位とは無関係の立場で表に出ることはなく、後宮で学問や武術に励む生活を送っていた。
 しかし、先帝崩御の際に、正皇后の子である皇太子まで流行病で亡くなったことから十五歳で急遽即位することとなったのである。政治的混乱が懸念されたものの、即位するやいなや政治改革に着手し、権力争いに無縁だったしがらみのなさから、先帝の重臣たちを排除したかと思えば、身分にかかわらず有能な官吏を抜擢し、有無を言わせず自身の政治体制を確立させていった。若さに似合わぬその手腕は各地の軍閥を黙らせるには充分であった。
 その裏では後宮の実力者である趙夫人がにらみをきかせていたと言われている。趙夫人は暁龍の乳母であり、教育係でもあった。夫人にしてみれば我が子が帝位に就いたのと同じである。
 以来十年、盤石な政治体制を築く一方、皇帝は不眠に悩んでいた。継承争いとは無関係の頃は武術に汗を流し、早寝早起きの健康的な生活を送っていたが、即位以来山積する政治的難問に立ち向かう中で、しだいに寝つきが悪くなり、ほんの数時間程度の浅い睡眠しかとれない状態が続いていた。鍼灸や投薬治療のかいもなく、症状が改善されることはなかった。
 そして、未だ世継ぎは生まれておらず、正皇后も決まってはいなかった。麗花の寝所へ通うときも陛下は行為を済ませれば政務の行われる紫雲殿へと戻ってしまわれる。まるで家畜の種付けか蝿の交尾のようなものであった。それを寵愛と呼ぶのは滑稽かもしれない。だが、後宮に暮らす者にとって、それ以外にすがるべき価値など他にないのもまた事実であった。
 そして、それは麗花だけのことではない。
「あのおばさんも焦ってるんだわ」
 世継ぎとしての子が生まれていない今は暁龍の弟が皇嗣となっており、万一の事態が起きると後宮は趙夫人と対立する女官勢力に取って代わられることになる。
 後宮は魔窟だ。
 麗花は自らの居室に入ると侍女に命じて髪を結い直させた。麗花にとって一日三度の髪結いが緊張をほぐせる憩いのひとときであった。だが、今日は心穏やかになることはなかった。
 ――お父様、お母様。
 麗花は必ず世継ぎを産んでみせますわ。それに、あの目障りなおばさんもなんとかしなくては……。
 すまし顔の女御は趙夫人を出し抜く次の一手に考えを巡らせるのだった。

   ◇

 カーサリーを護送してきた隊列は宮殿裏手の通用門から入城し、通秋殿わきの憲誠殿前まで来ていた。憲誠殿は宮城の表裏、つまり政務側と後宮側を結ぶ連絡所であり、ここでカーサリーの身柄は皇帝直属の衛士隊に引き渡された。
 衛士長である梁雲嵐は六尺を超える偉丈夫で、御前試合を勝ち抜き、皇帝に三尖両刃刀を授けられた武術の達人である。雲嵐は頬のこけた西域の姫を細い目で見下ろすと、籠に顔を近づけて声をかけた。
「腹は減っていないか?」
 それは西域の言葉であった。雲嵐に食事を与える権限などない。ただ単に哀れな女囚をからかってみたつもりだった。だが、その一言に、長旅で渇き、表情を失っていた姫の頬がゆるんだように見えた。
「お心遣いありがとうございます。降る雨は同じでも異郷にありて心潤すものなし。何も望むものはございません」
 思いがけず流暢に返ってきた帝都の言葉に雲嵐は一歩退いた。
 と、そこへ遠くから声をかける者がいた。
「衛士長殿」
 振り向くと、それは趙夫人であった。表裏の接点である憲誠殿では、このように女官と衛士が交渉することは珍しくない。ただ、それはあくまでも実務のためであり、女官長直々に顔を見せることはまれであった。
「何事でございましょうか」
 返答に緊張を含めながら雲嵐は三尖両刃刀を背後に回し、外縁廊下に立つ趙夫人を見上げてひざまずいた。
「あの者はどうしたのですか?」
「西域よりの戦利品だそうです。反逆罪により弘化門広場にて民衆の前で断首されることになっております」
 ふんと鼻を鳴らして趙夫人が笑みを浮かべた。
「なるほど、見せしめですか」
「はい」
 夫人は竹籠の中の姫を見つめたまましばらく思案の様子だった。
「では、拙者はこれにて」
 雲嵐が職務に戻ろうと立ち上がると、夫人が呼び止めた。
「お待ちなさい」と、顎で竹籠を指す。「あの者を風呂へ入れなさい」
 衛士長は三尖両刃刀を持った腕をだらりと垂らして殿上の夫人を見上げた。
「何ゆえでございますか。反逆の罪人ですぞ。断首される者に慈悲など無駄でございましょう」
「それは浅はかというものです」と、夫人は扇子をわずかに広げて口元を隠した。「あのようなみすぼらしいいかにも罪人といった風体の者を斬首したところで、民は誰も見向きもしないでしょう。衛士長殿は道ばたに落ちたぼろ切れをいちいち拾いますか」
「いいえ……」
「でしょう。身なりのきちんとした者が罪に問われ罰を受けるからこそ、民衆は注目するのです。見せしめは残酷であるほど効果的です」
「はあ、なるほど」
「身なりを整え、化粧もさせるように手配いたしましょう」
 趙夫人は侍女を数名呼び寄せると、付き添いを命じた。後宮内へは男性衛士は入れない。皇帝が女御の寝所へ通う際にも特別に雲嵐ただ一人が付き添うのみである。カーサリーの身柄は竹籠から出され、侍女たちに引き渡された。裸足の女囚は縛られたまま土の上を歩かされ、建物の裏手へと連れていかれた。
「では、後ほど引き取りに参りますので、ご連絡を」
 背中を向けた趙夫人に声をかけると、雲嵐も憲誠殿を後にした。
 ――まったく。
 何を考えているのか分からん奴らだ。魔窟に巣くう魑魅魍魎とは、できれば関わりたくないものだ。
 梁雲嵐は三尖両刃刀を持つ右手に力を込めると、調子を確かめるように筋肉を一つ一つ震わせて気を引き締めた。その様子を見て、役目のなくなった部下たちがだらしなく笑っている。
「おまえら、全員道場に来い」
 もう手遅れである。夜更けに寝所へと下る皇帝の警護に梁衛士長が呼び出されるまで、稽古が終わることはないだろう。

   ◇

 侍女たちに囲まれながらカーサリーが連れてこられたのは通秋殿の裏手にある湯屋の入り口だった。たらいに水が張られ、女囚の前に置かれた。
「まずは足を洗いましょうか」
 縛られたままのカーサリーがたらいに足を踏み入れると、姉のような年頃の侍女が自らしゃがんで泥汚れを落としてくれた。
「私は明玉。よろしくね」
 女囚は落ちくぼんだ目を足下に向けながらつぶやいた。
「カーサリー」
「素敵な名前ね。あなた異国の人でしょ。言葉が分かるのね」
 黒髪の侍女がまぶしそうに金髪の女囚を見上げる。その瞳は黒く澄んでいた。
 そこへ通秋殿の内廊下を通ってきた趙夫人が姿を見せた。
「明玉、あなたがすることはないでしょうに。自分でやらせなさいな」
「ですが、縄をほどくわけにはいきませんので」
 趙夫人が閉じた扇子を振る。
「構いません。ほどいてやりなさい」
「よろしいのですか」
「逃げれば処刑の手間が省けます」
 控えていた他の侍女たちが取り囲んで縄をほどく。
「服を脱がせなさい」
 色だけは鮮やかなぼろ布を剥ぎ取るように脱がせると、現れたのは骨張った貧弱な肉体だった。ふくよかさがまるでなく女性らしさが欠けた肉体を、家畜の品定めをするように夫人が見つめる。
「お風呂は沸いてるの?」
「まもなくできるかと」
「体と髪を洗ってやりなさい」と、夫人は乾いた血がこびりついた女囚の下半身を扇で指した。「月の物は特に念入りにですよ」
 そして、夫人はかたわらに控えた侍女に指示を出した。
「養和堂から御典医の瑞紹先生を連れてらっしゃい」
「ご、御典医様でございますか?」と、目を丸くして侍女が顔を上げる。
 驚くのも無理はない。御典医は皇族専任の医者なのだ。
 だが、夫人の口調は厳しかった。
「早く行きなさいな」
「かしこまりました」
 侍女は逃げ出すように外縁廊下を駆けていく。
 入れ替わりに明玉が夫人の前にひざまずく。
「松籟様、お風呂の支度ができました」
「ではこのまま連れていきなさい」
 松籟とは宮中での趙夫人の通称である。代々女官長を務める女性が受け継ぐ名誉ある呼び名だった。
 連れられていく女囚の背中を見た趙夫人は思わず息を漏らした。その背中には、馬のたてがみというには大げさだが、金色の産毛がくっきりと一筋生えているのだった。やがて湯屋から鉄分の匂いが漂ってきた。
 ――さてと、いいものが手に入ったわね。
 裏庭の向こうには、塀の上に景旬殿の屋根が顔をのぞかせている。
 ――あの生意気な小娘にちょいとお灸を据えてあげましょうかしら。
 趙夫人は湯屋の窓から上がる湯気を見つめながら不敵な笑みを浮かべていた。

   ◇

 入浴を終えたカーサリーは平常着を下げ渡され、通秋殿の小部屋へ通された。平常着とはいえ、侍女たちが着る物とは明らかに質が違う。楊麗花と同様に芙蓉の刺繍が施された高位女官用の衣服だった。
 着付けが済むと、食事が与えられた。藁で編んだ敷物を床に置き、そこに腰を下ろすと、いくつかの食膳が並べられていく。食膳にはそれぞれいくつもの小鉢が置かれていて、それらはすべて違う料理であった。料理といえば羊肉を焼くか煮るぐらいしか知らなかったカーサリーには豪華すぎる宮廷料理だが、さらにそれには山と積まれた饅頭の皿や花を浮かべた茶まで添えられていた。処刑される身にしてはずいぶんと扱いが良すぎるのではないだろうか。毒でも混ぜてあるのかとカーサリーはさりげなく匂いを嗅いだ。
 侍女の明玉がクスクスと笑い出す。
「大丈夫ですよ。なんなら私が毒味してあげましょうか」
「あなたもおなかがすいていますか?」
「そういうわけじゃないけど」と、明玉は饅頭の山を見つめて喉を鳴らした。「私たちはふだんこんなに豪勢なお食事をいただけるわけじゃないのよ」
「処刑前のお慈悲ということでしょうか」
「さあ、私みたいな下っ端の召使いには分からないことだけど、でも、松籟様は何かお考えがあるようだから、食べられるときは食べておいた方がいいわよ」
「では、遠慮なくいただきます」
 食事に箸をつけ始めたカーサリーの様子を見て、明玉が微笑む。
「あなたはずいぶん痩せてるから、いっぱい食べて元気にならないと」
 実際、食事を口へ運ぶ手は骨が浮き出て小刻みに震え、指が箸のように細い。
「とてもきれいな髪をしているのね」
 食事の邪魔になるかと、明玉はカーサリーの背中に回り、金髪を束ね、細長く切った紙で宮廷風に結ってやった。細く柔らかい髪質で、銀の簪ではまとまらない。明玉は三股の竹簪を自らの頭から外して麗花の髪に挿してやった。
「私のでごめんね」
「いえ、ありがとうございます」
 異国の娘は味を確かめるように少しずつ口に運んでいる。その様子を見つめているうちに、明玉はいつのまにか食膳の上に身を乗り出していた。
「あら、やだ、私としたことが」
 口元を隠しながら笑いでごまかしているが、食欲は隠せなかった。
「よろしかったら、お菓子でもつまみませんか」
 カーサリーに勧められて、明玉はさっと饅頭に手を伸ばした。
「ねえ見て、あんこがこんなにぎっしり」
 二つに割った饅頭を両方とも一度に口に放り込む。
「んー、夢みたい」
 もごもごと頬を動かしながら目尻を下げる明玉にカーサリーもようやく笑みを浮かべた。
 と、その時だった。外縁廊下から大勢の足音が聞こえてきた。
「あっ!」と、明玉が胸を押さえる。「松籟様と……、んほっ、御典医様……かも」
 饅頭が喉に詰まってみるみるうちに顔が赤くなる。カーサリーは花の浮いたお茶を差し出し、背中をさすってやった。
「あ、ありが……んっ」
 明玉は一気にあおると何度も胸をたたきながら肩で大きく息をついて屏風の陰に逃げ込んだ。引き戸が開き、趙夫人と御典医の瑞紹老師が部屋に入ってくる。
「ふむ、食欲はあるようじゃな」
 自らの丸い頭をなでつけながら瑞紹は脇の床に腰を下ろした。趙夫人が目配せすると侍女たちが食膳を下げ始める。こっそりと屏風の陰から抜け出してきていた明玉もその一人に加わって何食わぬ顔で部屋を出て行った。あっというまの変化にカーサリーはただ身を固くしているばかりだった。
 人払いをした趙夫人は瑞紹に耳打ちした。
「早く診てくださいな」
「まあ、あわてるでない」と、瑞紹はカーサリーの背中に手を回した。「ほれ、おぬし、横になってみなさい」
 老医者が床の上に横たわる少女の着物に手を差し入れる。カーサリーは抵抗せず、目を閉じてされるがままに体を投げ出していた。
「まあ、心配はいらん。問題なかろう。肌も焼けて火ぶくれしておるが若いからすぐに治るであろう」
 趙夫人は診断を終えた医者の言葉に唇をゆがめながらうなずいた。
「それは何より。では、今宵早速陛下にお披露目するといたしましょう」
 皇帝のお手つきとなる娘に傷があってはならない。趙夫人は医者にそれを確かめさせたのだった。
「これ、すまなかったのう」と、瑞紹はカーサリーを抱き起こした。「よく食べることじゃ。そなた良い子を産めるであろうぞ」
 視線を合わせて声をかけると、老医者は頬を赤らめる少女の肩に手を置いてよっこらせと立ち上がり、部屋を出て行った。
「あなたこちらへ来なさい」
 老医者を見送りながら趙夫人が指でカーサリーを招く。外縁廊下へ出て、夫人の後についていくと、控えていた大勢の女官たちも一斉に移動を始める。通秋殿の表側へ回って連れていかれたのは、広大な庭園に面した広間だった。そこには十人以上が一度に座れる食卓が置かれ、その上には隙間なく先ほどよりもさらに豪勢な食事が並べられていた。趙夫人はカーサリーを椅子に座らせ、顔をのぞき込みながら肩に手を置いた。
「いいですか。栄養をつけるのです。食べられるだけ食べなさい」
 状況が飲み込めず視線をさまよわせる少女に女官長はささやきかけた。
「囚人として終わりたくなければ陛下に寵愛される女御となるのですよ」

   ◇

 その夜、皇帝は楊麗花の寝所へとお出ましになった。後宮には、下働きの侍女や位階を持つ女官とは別に妃の候補となる美女が常に数十人集められているが、皇帝のお目にとまるのは数名で、さらにお手つきがあっても再度のお出ましを賜れる者はほとんどいなかった。幸運にかすりもしなかった者たちはすぐに実家に下げられ、次の候補者がまた国中から集められてくる。川の水よりも入れ替わりの激しい後宮で、麗花のように連夜のお越しを賜ることは大変な名誉であった。
 だが、そこに愛情や幸福、さらには快楽すら存在することはなかった。酒を飲むでもなく、一言の会話を交わすこともなくすぐに布団に押し倒され、猛り狂う肉食獣に腹を食い破られるような行為を済ませるだけである。帝位継承以外に求められる意味など何もないのだった。
 今宵もまた皇帝は麗花に爪痕を残すとすぐに上体を起こしてしまわれた。麗花も慌てて頭を上げた。すぐに玉体にお召し物を掛けて差し上げなければならない。
「あの、陛下……」
「なんだ」
「お願いがございます」
「だからなんだ」と、自ら帯を巻く。「早く申せ」
「もう少しだけおそばにいさせていただくわけにはいかないでしょうか。せめて朝まででも」
「なにゆえだ。まだ物足りぬか」
「いえ、そのような」と、麗花は胸元に薄掛けをたぐり寄せた。「ただ、陛下にも安らいで朝までお眠りいただきたいと存じまして」
 皇帝は鼻で笑うのみであった。
「無駄なことよ。心配などいらん。そのうちひとりでに目を閉じていつの間にか居眠りをしている。いつもそうだ。それで倒れることもないのだから問題はあるまい」
「ですが、陛下、わたくしは……」
 麗花は皇帝の着物にすがりついた。皇帝の意に従わず、女官が手を出し引き留めるなど、処罰されても仕方のない無礼である。だが、それは麗花の賭けであった。ここで引き留めることができれば誰もが認める寵姫となれる。あの趙夫人の鼻を明かすどころか、追い出すこともできるだろう。
「昨夜は望月。今宵は十六夜か」
 皇帝は御簾から差し込む清明な光に目をやって麗花のかたわらに腰を下ろした。
「まぶしいようでしたら、衝立を置きましょうか」
「構わん」と、皇帝は麗花にもたれかかると胸に顔を埋めた。「これもまた風雅な衝立だ」
 そして、そのまま膝の上に頭を移すと、手懐けられた猛犬のように目を閉じた。
 ――勝った。
 私は賭けに勝ったのだ。胸でも膝でもどこでも枕にすればいい。このままこの寝所で陛下が寝ついてくだされば天下の半分は私のものだ。夜明けには後宮の天地は反転していることだろう。麗花は雑に結ばれた陛下の帯をゆるめ、布団を掛けて差し上げた。
 だが、魔窟に油断は禁物だ。一瞬月が雲に隠れたか、寝所が暗くなったその時だった。麗花の膝の上で皇帝が大きく目を見開いた。月を求めて遠吠えする狼のように顔を上げて鼻を鳴らす。
「なんだこれは?」
 かすかに闇に慣れた目に映る陛下の表情には驚愕の色が浮かんでいた。眉間にしわを寄せながら闇の中で匂いを探っている。麗花はわけも分からず動揺した。
「わたくしの香がお気に召しませんか」
 趙夫人のせいで香木の調合がいつもと違うことをとがめられているのだろうか。
「違う。これはどこから来るのだ。何の香りだ」
 いったい何が香るというのか。麗花も必死に嗅いでみたが、何も感じられなかった。獲物を追う獣のように皇帝は部屋の中を見回している。
「誰がおる?」
「他に誰もおりませんが」
 本能をむき出しにした男はもはやいらだちを隠すこともなく麗花の肩をつかんだ。
「何を隠している」
「いえ、わたくしは何も」
 かろうじて答えることができたものの、麗花は震えを止めることができなかった。
「では、これは何だ。いったい何なのだ!」
 突き飛ばされた麗花は額を冷たい床にこすりつけた。
「陛下、わたくしにいたらぬことがあればお詫び申し上げます。お怒りをお鎮めください」
「怒ってなどおらん」
 そう言い残すと、皇帝は引き戸を自ら開け放ち、寝所を飛び出していった。
 ――ああ、お父様、お母様、どういたしましょう。
 いったい何が起きたというのか。麗花は陛下のぬくもりの残った布団をかき寄せて涙をぬぐった。自分は寵愛を受けていたのではなかったのか。皇帝を激怒させるなど、麗花一人の失態では済まない。一族みなその責任を問われるであろう。
 御簾から再び清明な光が差し込んでくる。麗花はその青い輝きを恨めしく見上げるのだった。

   ◇

 いきなり外縁廊下に現れた主君を追って、すわ一大事と衛士長梁雲嵐が景旬殿の庭を駆けてくる。
「陛下、いかがなされました」
「どこだ?」
 亡霊を見たかのように皇帝の表情はゆがんでいる。
「陛下、お気を確かに」
「これはいったい何なのだ」
 ゆるんだ帯を引きずりながら大帝国の頂点に立つ男がうろたえている。常に威厳に満ち、周囲を睥睨する陛下の姿からは想像もできない狼狽ぶりに雲嵐も呆然と立ち尽くすしかなかった。
 未知の香りに誘われ、自らが亡霊と化したかのように皇帝は衛士長を置き去りにし、漂うように廊下を歩いていく。
「何だ、何なのだ」
 蓬莱山の梅の香、桃源郷の果実からしたたる蜜、天女の焼く菓子にもまして心を震わせるかぐわしさ。狩猟民族の記憶、草原を駆け抜け大帝国を築き上げた祖先の血を騒がせ、そして男の本能を抑えきれないほどに生命力をかき立てる魔性の香り。
 ――俺を呼んでいる。
 地位も立場も忘れ、もはや一人の男として劉暁龍はさまよい歩いていた。廊下の角で迷える男の足が止まった。
 ――いる。
 この角を曲がった向こう側に気配を感じる。見たい。知りたい。おまえはいったい誰なんだ。
 だが、体が震えて足が前に出ない。ふっと、吐息がこぼれる。息すらまともにできていなかったことに気づいて、我を取り戻す。
 馬鹿な……臆病者が。皇帝のくせにおびえるとは。なんと情けないことよ。暁龍は己を笑った。
 ふと足元を見ると、庭園の土の上に梁雲嵐が岩のように控えていた。主君の狼狽ぶりに衛士長までも視線をそらして困惑している。
 そうだ、何を恐れている。この天下に俺の思うままにならぬものなどないではないか。玉座の前では誰もがひれ伏し、寝所ではどんな絶世の美女でもみな喜んで帯を解くのだ。あの女……、麗花……とかいうあの女だってそうだ。都の男どもがみなうらやむような美女が俺にすがりつくのだ。この世に手に入らぬ物などあるはずがない。
 だが、そうやっていくら己を奮い立たせてみても暁龍は足を踏み出すことができなかった。
 いまだ俺の知らない何かがある。角を曲がったその先に、自分の知らない何かが待っている。
 見ようとすればするほど不安が高まっていく。劉暁龍は、自分のその気持ちがどこから沸き起こってくるのか、その理由すら分からず困惑していた。
 どれくらいの時が過ぎたのだろうか。ふと、気がつくと、闇に慣れた目にはまぶしいほどの月明かりが廊下をくっきりと浮かび上がらせていた。暁龍は導かれるように角の向こう側へと足を踏み出した。堂々と近寄れば良いものを、どうしても忍び足になってしまう。
 青い月明かりに照らされた外縁廊下に、その女はいた。華奢な体を支えるように手すりに右手をついて空を見上げている。西域風の横顔に皇帝は目を奪われていた。鼻をくすぐる香りにめまいを覚える。色素の薄い金色の髪一本一本が月明かりに染まったように光り輝き、まるで匂い立つ様が目に見えるようだった。
 飛びついて抱きしめたくなる衝動に駆られるのに、また足が止まってしまう。異国の者のようだが、言葉は通じるのであろうか。かすれる声を絞り出しながら暁龍は声をかけた。
「そこで何をしている」
 振り向いた女の顔には警戒の色が浮かんでいた。
「月を……」と、女が視線を空へ流す。「月を見ておりました」
 暁龍は流暢な返事に安堵したが、それはそれで、たずねたいことがあふれ出して何を言えばいいのか分からない。ようやく出てきたのは自ら赤面してしまうような問いかけだった。
「そなた……、天女なのか」
 女も困惑気味に頬をこわばらせながら再び暁龍へ視線を向けた。
「いいえ、西域の者です」
 男が一歩踏み出そうとすると、女はおびえて後ずさろうとする。
「どなたですか」
 暁龍は手のひらを相手に向けながら立ち止まった。
「怪しい者ではない。俺はここの主だ」
「そうでしたか。どなたか存じませんが、豪勢なおもてなしありがとうございます」
 ――宮廷の主を知らぬとは。
 暁龍は自分のことを皇帝と知らない相手にますます興味を抱いていた。
「そばへ……」と、そっと声をかける。「そばへ寄ってもよいか」
 皇帝である自分が相手に許可を求ようとしていることに、暁龍自身が動揺していた。命じ、求め、服従させる。逃げる者は捕らえさせる。他人への配慮など、皇帝にそんなものは無用だ。
 女は答えずに、また月を見上げた。暁龍は外縁廊下の手すりを伝いながらゆっくりと、蜻蛉を捕まえようとする少年のように女の方を真っ直ぐに見つめたまま、一歩一歩近づいていった。
「なぜ月を見ていた」
「郷里でも眠れぬ時はこうしていました」と、女はようやく暁龍に笑みを見せた。「異国でも月の美しさは変わりません」
 女の隣に立って彼も月を見上げた。
 ――月とは美しいものなのか。
 これまでの人生でそのように思ったことはなかった。不思議なものだ。何度も目にしたありふれた景色なのに、心安らかな気持ちになる。
 女はまだ月を見上げている。暁龍はそんな彼女の横顔を、視界の隅にとらえて盗み見ていた。悟られぬように息を深く吸い込む。とろけそうな香りに男の本能がざわめく。だが、暁龍は手を出すことができなかった。恐れていた――失うことを。
 この手につかもうとすれば煙のごとく消え失せるのではないか。触れた途端に砂となって指の間からこぼれ落ちてしまうのではないか。実は本当に月から舞い降りてきた天女なのではないか。無理矢理手に入れようとしたら月に帰ってしまうのではないか。
 ――不思議な女だ。
 だが分かる。この女だ。出会えたのだ。ようやく出会えたのだ。放してはいけない。絶対に放してはいけない。どれほどの富を費やして世界中を探しても二度と手に入れることはかなわないだろう。
 暁龍は再び月を見上げてその光に目を細めた。西域の女を見たことも抱いたこともある。だが、そんなことは何の自信にもつながらなかった。暁龍はこの女を征服したいのではないことに気づいていた。もしそれならば、すぐにでも衛士に命じて捕らえさせ、縛り上げればいい。南洋の熟れた果実の皮をむくように女の服を剥ぎ取って欲望を満たせばいいのだ。
 だが、違う。
 ――俺はそんなことをしたいんじゃない。
 では、何なのか。暁龍はそれが分からなくて動揺しているのだった。
 分からない。俺はいったい何をしたいんだ。肩に手を回し抱き寄せたい。そのようなことなど、これまでに何度もしてきたことだ。女はみな喜ぶ。常にそうだったではないか。
 と、その瞬間、暁龍は体の震えを止めることができなくなった。
 違う。みな、本当に喜んでいたのか。俺と寄り添い、触れ合うことに、女たちはみな喜んでいたのか。違う。俺じゃない。俺自身ではない、皇帝という位に寄り添う名誉に喜んでいたのだ。暁龍は自分を抱きしめるように胸の前で堅く腕を組んだ。
 俺は誰にも愛されたことなどなかったのだ。
 ――そして、俺は心から誰かを愛したことがないのだ。
 女というものを、自らの権力を誇示する獲物としか見ていなかったのではないか。俺はなんて寂しい男なんだ。
 不意に、幼少期の記憶がよみがえる。帝位継承権とは無関係に後宮の片隅で暮らしていた頃のことだ。あの頃の暁龍は誰からも期待されず、ひっそりと生きていた。
 一方で、皇太子である長兄には訪問者が絶えることはなく、次から次へと貢ぎ物が届けられていた。長兄が庭を歩いてつまずいただけで庭師が責任を問われ処刑されたこともある。宝玉のごとく大切に扱われた長兄に比べて、武芸で体を鍛えられた自分の方が生き残ったのは今でこそ言える皮肉だった。序列下位の弟である暁龍は長兄のそばに気安く近寄ることすら許されていなかった。
 そんなある時、たまたま宮中行事で一緒になった時、長兄が側近たちに気づかれないようにささやいた言葉を思い出す。
「俺は何でも持っているが、おまえがうらやましいよ」
 その言葉の意味を当時の俺は理解できなかった。幼少だったからでも、愚鈍だったからでもない。長兄と同じ立場になってみなければ理解できない感情だったのだ。
 今の俺の手の中には常に蜻蛉が握られているようなものだ。だが、同時に、目の前を自由に飛んでいく蜻蛉がたくさんいる。俺は手に入れたようで、何も手に入れていないのだ。手の中の蜻蛉を握りつぶしたところで、蜻蛉を支配することなどできない。捕らえようと息を潜めてそっと近寄る時の高揚感も、逃げられた時の悔しさも、空の彼方へ去っていく蜻蛉に、まるで好敵手をたたえるような感情を覚えるすがすがしさも、今の俺は求めることができないのだ。俺は手に入れてきたのではない。あらゆるものを失ってきたのだ。
 ――俺は孤独なのか。
 この異国の女と同じ境遇なのか。
「どうかなさったのですか」
 一体どれほど月を見上げていたのだろうか。ふと見れば、女が暁龍を見つめていた。最初の警戒感は消えて丸みを帯びた頬の輪郭が柔らかく輝いている。思いがけず、女の手が伸びてきた。暁龍ははじけるように一歩退いた。
「涙が……」と、女は手を止めてささやいた。「なにゆえに泣いていらっしゃるのですか」
 ――泣くだと?
 この俺が?
 自分自身で目の縁に指をあてると、確かにそこは湿っていた。
「月が……」と、彼は女の目を見つめて答えた。「月が美しかったからだ」
「ええ、本当に」と、女は暁龍の手に自分の手を重ねてきた。
 その途端、彼の目から涙がこぼれ落ちてきた。雪解けの水を集め、奔流となって大地を押し流す大河のごとく、彼の目から涙があふれ出してくる。
「そなたが教えてくれたのだ」
 女の骨張った指が涙を拭ってくれる。
「月が美しいと、そなたが教えてくれたからだ」
 今度は暁龍が自分の手で女の手を包み込んだ。
「そなたの名は」
「カーサリー」
「名の由来は」
 うつむいた彼女の頬にほんのりと赤みが差した。
「美しい月」
 皇帝はその西域の姫をそっと抱き寄せ、深く息を吸い込んだ。
 庭園の陰に控えた衛士長梁雲嵐が、月明かりの下で抱き合う二人の姿を見上げていた。雲がかかってあたりが闇に沈む。再び雲の切れ間から青い光が降りてきた時、二人の姿は消えていた。
 天下を意のままにする男は、その夜初めて、天上の悦楽を知ったのだった。

   ◇

 翌朝、政務を執り行う紫雲殿は大騒ぎだった。九品官一同を列しておこなわれる朝議の刻を迎えても陛下がお出ましにならなかったのだ。不眠がちの陛下は毎晩世継ぎ作りの行為を済ませれば政務宮側へ戻ってくるのが慣例となっていたから、身の回りのお世話をする侍従たちから報告が上がるまで誰も不在に気づかなかったのだ。
「なんとしたことだ。陛下はどこにおられる」
 宰相孫尚徳が怒鳴りつけても朝議に参内した官吏たちは首をひねるばかりだった。後宮からの伝奏官も全く要領を得ない。
「昨夜お運びのあった女御も存じ上げないと申しているそうで」
「国家の一大事に何を言っているのか」
「突然寝所を出て行ってしまわれたと泣いておるそうで」
 老大臣は腕組みをしてため息をついた。
「おまえたちは玉体を何と心得ておるのか。陛下の御身に万一のことがあれば、それすなわち国家存亡の危機であるぞ」
 とは怒鳴りつけているものの、宰相自身、今朝も不眠で紫雲殿に戻っているのだろうと思い込んでいたのだからなんとも格好がつかない。
「探せ、探すのだ。宮中におる者すべてに号令を出せ。総動員をかけるのだ」
「はっ、直ちに」
 石畳にひざまずいて待機していた官僚が一斉に駆け出す。政務宮側のあらゆる扉や引き戸が開け放たれ、什器庫の箱の蓋までもが開けられ、あらゆる衝立を倒してみたにもかかわらず、皇帝の姿は見つからなかった。
「馬鹿者が!」と、宰相が廊下を右往左往しながら怒鳴り散らす。「猫を探しておるのではないぞ」
 その頃、後宮でも、騒ぎが起こっていた。
 一夜を泣き明かした楊麗花の寝所へ女官長趙夫人が大勢の女官を連れてやってきた。侍女たちが引き戸を両側へ開け放つと、女官長は顎を上げながら挨拶も抜きに押し入り、麗花を冷たく見下ろした。
「陛下はどこですか」
 帯を締め直す余裕もなくやっとの事で上体を起こした麗花は、慌てて布団から飛び退き、床の上に平伏した。
「存じません。昨夜、急に飛び出してしまわれて」
「言い訳など無用。どこへ向かったのですか」
「わたくしは何も」と、震える声を絞り出しながら麗花はひたすら額を冷たい床に擦りつけた。「申し訳ございません」
「あなたはそれで済むと思っているのですか」
「ですが……」
「言い訳は無用だと何度言わせるのです。たとえ天下に嵐が吹き荒れようとも宮中に間違いなどあってはならないのです。陛下の御身に何かあってはそなた一人の問題では済まないのですよ」
 もはや涙声の麗花は返答をすることすらできなかった。
「追って沙汰があるまで謹慎してなさい」
 趙夫人が踵を返して廊下へ出ると、女官たちも一斉に動き出す。麗花の寝所には誰一人として残る者はいなかった。いつもなら、身の回りの世話をする侍女たちはもちろんのこと、ご機嫌を伺いに来る女官たちで賑わう景旬殿はまるで廃墟のように静まりかえっていた。今さらながらに後宮の恐ろしさを思い知らされた麗花は魂が抜けたように胸をはだけたまま床の上にへたり込んでいた。
 そして、その頃、皇帝劉暁龍は景旬殿の一角にある小部屋で安らかな寝息を立てていた。
 そこは居室ではなく、布団や衣類をしまっておく倉庫だった。布団の山に埋もれるように寝ていた暁龍は外の騒がしさに目を覚ました。朝にふさわしい摘みたての葉でいれた茶のような清澄な香りが鼻をくすぐる。目の前には暁龍の左腕を枕にしたカーサリーの寝顔があった。
 ――夢ではなかったか。
 暁龍はそっと安堵の息を漏らした。まるで二人で溶け合ってしまったかのようなあの悦楽は夢ではなかったのだ。
 暁龍は右腕を彼女の背中に回し、お互いの額を触れ合わせた。
「ん……」
 目を開けたカーサリーが青い瞳で見つめ返す。
「すまん。起こしてしまったか」
「もう朝ですか」
「そのようだな」
 暁龍は抱きかかえながらカーサリーの細い体を起こしてやった。引き戸の隙間から差し込む光が背中を照らし、一筋に連なる金色の産毛を浮かび上がらせた。男が目を細めてその背中に口づけると、女は恥ずかしそうに身をよじりながら、乱れたままかたわらに投げ出された衣服をかき寄せて身にまとった。
 暁龍は勢いよく立ち上がって引き戸を開け放った。まぶしい朝の光に目を細めながらも腕を上げ大きく口を開けてあくびをする。
「ああ、よく寝たな」
 気分は爽快であった。このような朝を迎えるのは何年ぶりであろうか。
「ああ、快眠、快眠。気分が良いぞ」
 その声を聞きつけて女官たちが大勢駆けつけてきた。
「まあ、陛下……」
 一同は全裸の玉体に頬を赤らめ目をそらしつつ、布団の積まれた小部屋の中をのぞき込んだ。当惑顔の西域の小娘がみなを見上げている。
「なるほど、あなたでしたか」
 いつの間にか姿を見せていた趙夫人に道を空けて女官たちは一斉にひざまずいた。夫人は皇帝に頭を下げながらもはっきりとした口調で申し上げた。
「朝寝坊とは、陛下らしくありませんこと」
 暁龍は頭をかきながら笑顔を浮かべて答えた。
「いやあ、すまん。久しぶりにぐっすりと眠ってしまった。なんとも心地よいものでな」
「さようでございますか」と、呆れ顔でうなずきながら夫人が足元の女官たちを見下ろす。「早く陛下にお召し物を」
「はい、ただいま」
 女官たちが布団の間にくるまっていた衣服を取り上げ、一瞬にして着付けを終えた。
「先に孫大臣にお知らせなさい。陛下はまもなく戻られると」
 夫人に指示されて女官たちが一斉に駆けていく。
「さあ、陛下も、お急ぎくださいな。紫雲殿は天地がひっくり返るほどの大騒ぎですよ」
「分かった分かった」と、暁龍は快活に笑った。「松籟よ、怒るな。天地鳴動すれども玉座に傷一つなし。今日も天下太平よ」
 そして、残りの女官たちを引き連れて皇帝は景旬殿を去っていくのだった。
「なにをのんきな……」と、趙夫人がため息をつく。
 だが、小部屋に残された西域の娘に視線を移すと、夫人は口元をゆがめながら笑みを浮かべた。
 ――思った通りね。
 そして、一人残って控えていた側近の女官に指示を出した。
「景旬殿にこの娘のための居室を用意しなさい」
「ですが、麗花様は……」
「あの女御は陛下のご機嫌を損ねたのですよ。どこか空いている部屋にでも置いておきなさい。どうせ後宮からも追い出されるのですから。いちいち口答えしないで従いなさいな」
「申し訳ございません」
 叱りつけられて平伏した女官に、夫人はさらに指示をつけ加えた。
「調度品も衣服もすべて昼までに用意なさい。午後にはこの娘をそちらへ移すのです。よろしいですね」
「かしこまりました」
 女官が手配に向かうと、今度は遠慮がちに離れて控えていた侍女の明玉に視線を向け、顎で呼び寄せた。
「はい、松籟様」と、滑るように前へ進み出てひざまずく。
「この娘を通秋殿に連れていき、風呂に入れて朝食を与えるのです」
「かしこまりました」
「それと、瑞紹先生を呼んで診てもらいなさい」
「はい、ただちに」と、明玉はすぐに顔を上げてカーサリーに目配せをして立たせた。
「素直でよろしい」
 趙夫人は明玉に笑みを向けると、一言つけ加えた。
「明玉、つまみ食いをするのではありませんよ」
「あっ……」
 顔を赤らめて絶句した明玉を鼻で笑うと、趙夫人は満足そうに踵を返して去っていった。
 帝都を揺るがした皇帝の朝寝坊は一件落着となったが、後宮の混乱はむしろそれが始まりだった。その日のうちに景旬殿の景色は一変し、新しい寵姫がもてはやされるようになった陰で、ひっそりと散り去った花は誰からも見向きもされなくなったのだった。