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カーサリーが景旬殿に移ったその夜、皇帝のお成りが告げられた。寝所で髪を解き、支度が進められる中で、カーサリーは麗花からもらった簪を袖に隠し持った。後宮には元から短刀などの武器は存在せず、台所の包丁ですら管理は厳重だ。皇帝の通う寝所へは簪などの武器の代わりになるものは持ち込みを禁じられている。女御は髪を下ろした状態で陛下を待つ。禁を破ればもちろん死罪である。
皇帝がいよいよお出ましになると、女官や侍女たちは女御の寝所から退去し、宿直役の数名が急用に備えて別の間に控える。警護は梁雲嵐衛士長ただ一人である。雲嵐は殿上の廊下へ上がることなく、庭園を歩いて監視しながらお供する。皇帝が西域の姫の寝所へ入ったことを確認すると、彼は石畳の上にひざまずいて岩のごとく見張りについた。
「会いたかったぞ」
布団の上で出迎えたカーサリーは無言で頭を下げた。皇帝は早速布団の上に腰を下ろすと、カーサリーを抱き寄せた。首筋に口づけ、押し倒しながら帯に手をかける。相変わらず本能をくすぐる香りが全身から匂い立ち、男の体を包み込むように広がっていく。
暁龍は一人の男として安らぎを覚えていた。体は興奮しているものの、暴力的な征服欲を刺激されるわけではなかった。溶け合うような調和、悠久の悦楽、まさに天にも昇るような幸福感を一人の男として求めているのだった。
俺の宝物だ。俺だけの宝物を手に入れたのだ。
だが、何かが違う。
どうした?
暁龍にのしかかられたカーサリーの目から涙がこぼれ落ちていた。
「なぜ泣く?」
暁龍は布団に手をついて上体を起こした。女は目をそらすばかりで何も言わない。
「心細いのか」
「いいえ」と、涙を振り払うように頬を揺らす。
「無理をしなくても良い」と、暁龍はカーサリーの目からあふれ出る涙をぬぐってやった。「見知らぬ土地へ連れてこられたのだ。無理もない」
だが、涙に揺れる青い瞳が暁龍をにらみ返した。
「わたくしどもは隊商の民。幾千万里行けども我を失うことなどありません」
「ならばどうして」
「それはこちらがおたずねしたいこと」
そして、枕の下に手を入れた女は隠しておいた金の簪をつかむと暁龍の胸に突きつけた。
「辺境の小国など、なにゆえに手中にしたかったのですか」
怒りに満ちた目で見据えられた暁龍は腕立ての姿勢のまま女を見つめ返していた。
「刺したければ刺すがいい」
「刺せぬと思っているのですか」
「心の臓を一突きで狙うのは意外と難しいものだ。骨に当たればしくじるし、貴金属はもろい」
女の目に狼狽の色が浮かぶ。
と、その時だった。
外の廊下に庭から黒い影が上がってきた。梁雲嵐が三尖両刃刀を構え、引き戸に切っ先を差し込んでいた。
「陛下、不穏なご様子。ご無事でっ?」
女はきつく目を閉じ、もはやこれまでと覚悟を決めたか簪を自らの喉に突きつけた。
「痴れ者め!」
皇帝は愛する女の手をしっかりと握りしめると外に向かって一喝した。
「寝所の痴話喧嘩に口を挟む堅物が。犬も食わぬわ。下がっておれ」
「申し訳ございません。仰せの通りに」
再び静かになった寝所で二人は見つめ合っていた。そこにはすでに憎しみはなく、あきらめだけが残っていた。暁龍は仰向けになるとカーサリーに腕を回して抱き寄せた。
「刺さぬのか」
震える女の手をつかんで男は簪を自らの胸に当ててやった。返ってきたのは醒めた女の言葉だった。
「わたくしが今ここで恨みを晴らしても、サファランに残してきた人々を次の皇帝が皆殺しにするだけでしょう」
「今そなたがせねば、俺がそなたを処刑し、サファランを攻めるかもしれんぞ」
「人でなし」
「なら刺せばよい。それがそなたの正義なら」
「汚らわしい血が流れても正義は取り戻せません」
「目ならどうだ」と、暁龍は女の手を顔に持ってきて鋭い先端を当てようとした。
女の手から簪が落ちる。二人の間に転がった簪をそのままにして、男と女が見つめ合っていた。
「なぜやらなかった」
「見えませんでした」と、女がつぶやく。「邪な心の色が」
「心の色?」
「わたくしには見えるのです。邪な心を持つ者の瞳が赤く染まるのが」
それはカーサリーの家系に、まれに現れる能力だった。東西交易を取り持つサファランでは、契約の場にこの能力を持つ者を同席させ、相手の信頼度を測ってきた。王自身にはその能力がなくても、その場に紛れた能力者が首を振ればその場で契約は破棄された。小国の存続に関わる異能は表に出されることはなく、ひっそりと受け継がれてきた。祖母から受け継いだその能力を見込まれ、カーサリーも帝国使節団との交渉の場に呼ばれていたのだった。
「陛下の目はとても澄んでおります」
そう答えて唇をかんだ西域の姫を皇帝はしっかりと抱きしめた。雲が流れたのか、引き戸の隙間から青い光が差し込んでくる。金色の柔らかな髪を撫でながら、皇帝は事情をたずねた。
朝貢を求める使節に対し、これまで同様に礼を尽くした王。そこに邪な赤い瞳を持つ者はいなかった。しかし、帰国の途についた使節団は殺害されていた。それを理由に報復攻撃が始まり、国は滅びた。
「なるほど、そうであったか」と、カーサリーを抱きながら皇帝はため息をついた。「その件について報告を受けて承認決裁をしたのは間違いなく俺だ」
男の太い腕の中で女の痩せた肩が跳ねた。
「使節団に邪な色がなかったということは、通常通りの交渉がおこなわれたのだろう。だとすれば、帰国の途上で何かの間違いが起きた。あの征伐は西域都督周将軍からの要請だった。そこに裏があったのかもしれんな」
周氏は趙氏とならぶ建国の功臣を祖とする一族であり、その出身地から代々『東趙西周』と称されてきた。
サファラン攻略については宰相以下、大臣列席の審議においても問題視されたことはなかった。
「裏のことは表からは動けんか」
そうつぶやくと、男は体を起こして寝所の奥の暗闇に向かって声をかけた。
「紅蘭」
「ここに」と、かすかな声とともに黒装束に身を包んだ細身で小柄な人物が現れた。
突然の出来事に胸元をかき合わせる余裕もなくカーサリーも体を起こした。
「驚かせたか」と、暁龍が微笑む。「これは呉紅蘭。俺の手足となって探索をしている女間者だ」
西域の姫は布団の上に座ったまま黒装束の女を見つめた。
「いつからいたのですか?」
「最初から天井裏に控えておりましたが、雲嵐殿が表から声をかけた時には、衝立の陰におりました」
だから簪を突きつけても落ち着き払っていたというのか。だとしたら……憎い男。
察したかのように紅蘭がカーサリーの目を見つめて申し出た。
「いくらわたくしでも密着したお二人の間に入ることはできません。犬に食われますし」
その目にもまた邪な色など浮かんではいなかった。
「そういうことだ」と、暁龍が鼻に浮いた汗を自らの指で拭う。「俺とて、そなたの殺気に怖じ気づいて身動きがとれなかっただけだ。あそこまで俺を追い詰めたのはそなたが初めてだ」
そして、紅蘭に向かって指示を与えた。
「西域へ趣き、周将軍の周辺を調べよ。追って正式な巡察使を遣わす」
「では、さっそく」
紅蘭の影が再び寝所の奥の闇に紛れたかと思うと、次の瞬間にはもうその気配はなかった。皇帝はカーサリーの肩を抱き寄せた。
「なあ、そなた」
「はい」
「とてもすまぬことをした。こうしたことも大勢の役人や兵の上に立つ者の責任だ。人は間違いを犯す。俺はそれを正さねばならぬ。約束しよう。必ずこの件の裏にある謀略を突き止めてそなたの苦しみを晴らそうではないか」
その言葉に、西域の姫は寂しそうにうなずいただけだった。
梁雲嵐が三尖両刃刀を差し込んだときにできた引き戸の隙間からやや欠けた月が見える。
「そなたの名は美しい月という意味だったな」
カーサリーは涙をこぼしながら月に微笑みを向けた。月は草原の民にとっては慈愛の光とされる。ゆえにサファランでは女の子の名前として最も好まれていた。
皇帝が思いがけないことを告げた。
「そなたは今日から『メイユエ』と名乗るが良い」
「わたくしから名を奪おうというのですか」
「そうではない。美しい月、すなわち『美月』は東方の言葉では『メイユエ』と読むのだ。名前が変わるわけではない。そなたはここへは罪人として連れてこられたのであろう。そなたに非はないとしても、一度下った裁決を覆すことは新たな証拠が出てくるまでは許されぬのが法の掟だ。だが、紅蘭の報告はまだ先のことだ。それまで肩身の狭い思いをしながら暮らさねばならぬのはつらいであろう。罪人カーサリーは今日からメイユエとして生まれ変わるのだ」
カーサリーは返事をしない。皇帝は月を見上げ、真っ直ぐに人差し指を伸ばした。
「あの月が見えるか?」
「はい」
「ならばあの月に誓おうではないか」
そして皇帝は西域の姫の青い瞳をまっすぐに見つめた。
「そなたの名に誓う。メイユエ、俺は必ずそなたの心を開いて見せようぞ」
そして、暁龍はメイユエとともに布団に横になった。
「今宵もこれくらいは許せ」
メイユエの頭の下に腕を入れて抱き合う。
「こうしていると、まるでそなたと溶け合ってしまうような……」
皇帝はすでに寝息を立てていた。メイユエは布団を引き寄せて掛けて差し上げると、自分も眠りに落ちるまで男の寝顔を見つめていた。