◇
鳥浦に着いたころには、すっかりあたりは夕闇に沈んでいた。
「海に寄っていこうか」
漣がそう言い出した。ナギサさんのことがあって以来、切ない顔で海を見ていることが多かったから、彼のほうからそう言い出したのは意外だった。
「……大丈夫?」
思わず訊ねると、漣は驚いたように目を丸くして、それからにこりと笑った。
「大丈夫。海にはつらい思い出もあるけど、でもやっぱり、俺はここの海が好きだ」
そっか、と私はうなずいた。
いつもの砂浜に下りて、波打ち際に並んで腰を下ろした。目の前には、夜の色をまとい始めた海。静かに打ち寄せる波が、スニーカーの爪先をかすめるように撫でていく。
しばらくして、漣がぽつぽつと語り始めた。
「……ナギサさんはさ、今の俺らと同い年だったんだよな。この年で、自分を犠牲にして俺を助けて、……この年で亡くなった」
うん、と私はうなずく。
「そしてユウさんは、この年で、人生でたったひとりって決めてた大切な人を失った。でも、その悲しみを乗り越えて、あんなふうに笑顔で強く生きて、みんなを笑顔にしてる。すごいよな。ふたりのことを考えると、俺ってなんてガキなんだろうって恥ずかしくなる……」
私はまたうなずいた。
「私もそう思う」
それから、ほとんど無意識に呟く。
「優しい人に、なりたいな……」
漣がゆっくりとこちらを見た。
「ユウさんみたいに、ナギサさんみたいに、おじいちゃんおばあちゃんみたいに、漣みたいに——」
ユウさんのように、分け隔てのない広い愛情で、周囲に優しさを与えられる人になりたい。
ナギサさんのように、自分を犠牲にしてでも人を助けられるような、深い深い優しさをもつ人になりたい。
漣のように、誰かのために、正しいこと、言うべきことを、自分が矢面に立つことになってでも言える、厳しい優しさを持つ人になりたい。
そんな気持ちで、言葉を紡いだ。
「——私も、優しい、優しい人になりたい」
その瞬間、隣で漣がふっと笑った。
「それは無理だろ」
は?と私は彼を睨み返す。せっかくいいこと言ってたのに、話の腰を折るな。
「すげえ顔」
彼はおかしそうに声を上げて笑った。
「お前のひねくれは筋金入りだからな、そうそう簡単には治らないだろ」
私はむっとしたものの、確かにそうかもしれない、と思った、何年もかけて培ってきたこの卑屈な心は、なかなか手強そうだ。
そんなことを考えて少し落ち込んでいると、漣が「でも」と続けた。
「まあ、いいんじゃね? 真波は真波で」
突然柔らかい言葉を向けられて、油断していた私は硬直してしまう。
そんな私をじっと見つめながら、漣は少し照れたように小さく言った。
「……それに、お前は、優しくないこともない……と、思わなくもないよ……」
「……どっち?」
思わず首を傾げる。彼は無視して続けた。
「……あと、俺、前に真波のこと嫌いって言ったけどさ、今は、まあ、その、そんなに嫌いでもない……こともないこともないよ」
「……だから、どっち?」
漣は「知らね」と呟いて立ち上がった。そのまま波打ち際を歩き始める。
「えっ、ちょっと、待ってよ!」
呼び止めても、彼は少しもスピードを緩めずにずんずん歩いていく。
「漣ー」
必死に追いかけているとき、ふいに、足下に打ち寄せる波が、ぱっと弾けるように、ほんの一瞬、黄緑色に光った。
私は「えっ」と驚いて立ち止まり、目を向ける。でも、今は光は見えない。
気づいた漣が「どうした?」と振り向く。
「……今、波が光った……気がした」
彼は首を傾げて海に目を向けた。
「夜光虫かな」
そう言って、足下に落ちていた小石を拾い、軽く放る。すると、石が音を立てて海面に触れたと同時に、波紋が広がるようにぶわっと水が輝いた。
「わっ、やっぱり光った!」
私は思わず声を上げた。
沖のほうから波が来ると、また揺れながら光が広がる。
「夜光虫って聞いたことはあったけど、初めて見た! こんな感じで光るんだね」
「うん。物理的な刺激で光るらしい」
靴を脱いで海に入った漣が、ざぶざぶと波を踏むように歩くと、それに合わせて蛍光色の光が瞬いた。
「わあ……綺麗……」
私も真似をして裸足になり、波間に足を踏み入れてみる。
黄緑の蛍光ペンのインクを散らしたみたいな、鮮やかな光だ。打ち寄せる波が輝く。この世のものとは思えない、幻想的で神秘的な光景だ。
「海が青白く光ってる写真は見たことあるけど、黄緑色なんだね」
「青白く光るのはウミホタルで、黄緑に光るのが夜光虫って聞いたことがある」
漣が楽しそうに光る水を蹴りながら言った。
「赤潮って学校で習っただろ。夜光虫は赤潮の原因になるプランクトンの一種なんだって」
私は記憶をたぐり寄せて、中学時代の教科書の記述をなんとか思い出す。
確か、プランクトンの異常繁殖で海や川が赤く変色する現象が、赤潮。プランクトンがエラに詰まったり、海水の酸素濃度を低下させてしまったりして魚が死んでしまうので、漁業に悪影響を及ぼす。
「……こんなに綺麗なのに、人や他の生き物を困らせることもあるんだね」
そう口に出してから、この言葉選びはふさわしくないな、と思い直して、言い方を変えた。
「誰かを困らせるものでも、こんなに綺麗に光って、見た人を感動させることもあるんだね」
漣が微笑んで、「そうだな」と答えた。
鳥浦に着いたころには、すっかりあたりは夕闇に沈んでいた。
「海に寄っていこうか」
漣がそう言い出した。ナギサさんのことがあって以来、切ない顔で海を見ていることが多かったから、彼のほうからそう言い出したのは意外だった。
「……大丈夫?」
思わず訊ねると、漣は驚いたように目を丸くして、それからにこりと笑った。
「大丈夫。海にはつらい思い出もあるけど、でもやっぱり、俺はここの海が好きだ」
そっか、と私はうなずいた。
いつもの砂浜に下りて、波打ち際に並んで腰を下ろした。目の前には、夜の色をまとい始めた海。静かに打ち寄せる波が、スニーカーの爪先をかすめるように撫でていく。
しばらくして、漣がぽつぽつと語り始めた。
「……ナギサさんはさ、今の俺らと同い年だったんだよな。この年で、自分を犠牲にして俺を助けて、……この年で亡くなった」
うん、と私はうなずく。
「そしてユウさんは、この年で、人生でたったひとりって決めてた大切な人を失った。でも、その悲しみを乗り越えて、あんなふうに笑顔で強く生きて、みんなを笑顔にしてる。すごいよな。ふたりのことを考えると、俺ってなんてガキなんだろうって恥ずかしくなる……」
私はまたうなずいた。
「私もそう思う」
それから、ほとんど無意識に呟く。
「優しい人に、なりたいな……」
漣がゆっくりとこちらを見た。
「ユウさんみたいに、ナギサさんみたいに、おじいちゃんおばあちゃんみたいに、漣みたいに——」
ユウさんのように、分け隔てのない広い愛情で、周囲に優しさを与えられる人になりたい。
ナギサさんのように、自分を犠牲にしてでも人を助けられるような、深い深い優しさをもつ人になりたい。
漣のように、誰かのために、正しいこと、言うべきことを、自分が矢面に立つことになってでも言える、厳しい優しさを持つ人になりたい。
そんな気持ちで、言葉を紡いだ。
「——私も、優しい、優しい人になりたい」
その瞬間、隣で漣がふっと笑った。
「それは無理だろ」
は?と私は彼を睨み返す。せっかくいいこと言ってたのに、話の腰を折るな。
「すげえ顔」
彼はおかしそうに声を上げて笑った。
「お前のひねくれは筋金入りだからな、そうそう簡単には治らないだろ」
私はむっとしたものの、確かにそうかもしれない、と思った、何年もかけて培ってきたこの卑屈な心は、なかなか手強そうだ。
そんなことを考えて少し落ち込んでいると、漣が「でも」と続けた。
「まあ、いいんじゃね? 真波は真波で」
突然柔らかい言葉を向けられて、油断していた私は硬直してしまう。
そんな私をじっと見つめながら、漣は少し照れたように小さく言った。
「……それに、お前は、優しくないこともない……と、思わなくもないよ……」
「……どっち?」
思わず首を傾げる。彼は無視して続けた。
「……あと、俺、前に真波のこと嫌いって言ったけどさ、今は、まあ、その、そんなに嫌いでもない……こともないこともないよ」
「……だから、どっち?」
漣は「知らね」と呟いて立ち上がった。そのまま波打ち際を歩き始める。
「えっ、ちょっと、待ってよ!」
呼び止めても、彼は少しもスピードを緩めずにずんずん歩いていく。
「漣ー」
必死に追いかけているとき、ふいに、足下に打ち寄せる波が、ぱっと弾けるように、ほんの一瞬、黄緑色に光った。
私は「えっ」と驚いて立ち止まり、目を向ける。でも、今は光は見えない。
気づいた漣が「どうした?」と振り向く。
「……今、波が光った……気がした」
彼は首を傾げて海に目を向けた。
「夜光虫かな」
そう言って、足下に落ちていた小石を拾い、軽く放る。すると、石が音を立てて海面に触れたと同時に、波紋が広がるようにぶわっと水が輝いた。
「わっ、やっぱり光った!」
私は思わず声を上げた。
沖のほうから波が来ると、また揺れながら光が広がる。
「夜光虫って聞いたことはあったけど、初めて見た! こんな感じで光るんだね」
「うん。物理的な刺激で光るらしい」
靴を脱いで海に入った漣が、ざぶざぶと波を踏むように歩くと、それに合わせて蛍光色の光が瞬いた。
「わあ……綺麗……」
私も真似をして裸足になり、波間に足を踏み入れてみる。
黄緑の蛍光ペンのインクを散らしたみたいな、鮮やかな光だ。打ち寄せる波が輝く。この世のものとは思えない、幻想的で神秘的な光景だ。
「海が青白く光ってる写真は見たことあるけど、黄緑色なんだね」
「青白く光るのはウミホタルで、黄緑に光るのが夜光虫って聞いたことがある」
漣が楽しそうに光る水を蹴りながら言った。
「赤潮って学校で習っただろ。夜光虫は赤潮の原因になるプランクトンの一種なんだって」
私は記憶をたぐり寄せて、中学時代の教科書の記述をなんとか思い出す。
確か、プランクトンの異常繁殖で海や川が赤く変色する現象が、赤潮。プランクトンがエラに詰まったり、海水の酸素濃度を低下させてしまったりして魚が死んでしまうので、漁業に悪影響を及ぼす。
「……こんなに綺麗なのに、人や他の生き物を困らせることもあるんだね」
そう口に出してから、この言葉選びはふさわしくないな、と思い直して、言い方を変えた。
「誰かを困らせるものでも、こんなに綺麗に光って、見た人を感動させることもあるんだね」
漣が微笑んで、「そうだな」と答えた。