翌日には雑貨や衣類などの身の回りの品が宅配便で届き、荷ほどきをして机やタンスに片付け終えてしまうと、すぐにやることがなくなった。
 休みが明けたらとうとう学校に行かないといけないと思うと憂鬱だったけれど、慣れない家で一日時間をつぶさないといけないのもつらかった。私はなにかと理由をつけて外に出ては、どこまで行っても海と山と家々しかない光景にうんざりしていた。
 実家にいるときは、部屋にこもって本や漫画を読んだり、スマホで適当に動画を見たりして過ごしていればひとりの世界に浸ることができたけれど、祖父母の家ではそうしていても常にそこここで人の気配がして落ち着かなかったし、すぐに誰かしら声をかけてくるので全く気が抜けなかった。
 今日も私は朝食を終えたあと、すぐに家を出て堤防からぼんやりと海を眺めていた。代わり映えのしないだだっ広い海面を見つめながら、寄せては返す波の音を聞いていると、なんだか眠くなってくる。
 時間の感覚を完全に失ったまま、堤防に頬杖をついて無心で海と空の青を視界に映していたとき、ふいに右のほうから、からからと車輪の回る音が聞こえてきた。その音ではっと我に返る。
 邪魔になるかと思って姿勢を正してから目を向けると、そこには自転車を押して歩いてくる漣がいた。制服を着ているところを見ると学校帰りらしい。彼はゴールデンウィークだというのに毎日のように登校して部活に参加しているのだ。
「なにしてんの?」
 いつものように不躾に問いかけてくる。私はそっけなく「別に」と答えて海に視線を戻した。
 そのまま立ち去るかと思ったのに、彼は自転車を停め数歩離れたところに立って海を眺め始めた。
 それなら私が場所を移そう、と動き出したとき、「あのさ」と声をかけられた。
「お前さあ、なんでこっちの高校受けたの? そんで、なんで四月は学校来なかったの?」
 そういう質問を誰かからぶつけられるだろうということは、予想していた。入学した高校に顔を出さないまま一ヶ月が過ぎてからやっと通い始めるなんて、普通ではないから。
 でも、だからといって、無神経に理由を訊かれると癪に障る。それを表明するために、私は表情を険しくして答えた。
「そういうふうに人のプライベートにずかずか土足で踏み込んでくる感じ、どうかと思う」
 これ以上話しかけてほしくなかったから、わざときつい言葉を選んだ。
 きっと気を悪くして、今度こそ立ち去ってくれるだろう。そう思ったのに、漣は、ふん、と鼻を鳴らしただけで、答えを促すようにじっとこちらを見ている。
「……私にもいろいろ事情があるの。でも、話す気はないから、もう訊かないで」
 こういうデリカシーに欠けた人間にははっきり言わないと伝わらないだろうと考えて、きっぱりと答えた。漣は軽く首を傾げて、
「あっそ。分かった」
 とだけ言った。彼はそれきり黙り込み、また海のほうへと目を向ける。
 正直なところ、隣にいてほしくないし早くどこかに行ってほしい。でも、そんなことを言ったらまた腹立たしい返事が返ってきそうなので、私も黙って海を見る。

 私は中学時代、ほとんどまともに学校に通っていなかった。中一のときは無遅刻無欠席だったけれど、二年の途中からは全く登校せず、卒業式さえ出席していない。いわゆる〝不登校〟というやつだ。
 それまでは典型的な優等生で通っていた。でも、ある日突然糸が切れたように、『もういいや』と思ってしまったのだ。それは、ありきたりだけれど、仲がいいと思っていた友達との関係が一瞬にして崩れるような出来事が起こったからだった。特に女子同士ではよくあることだと分かっていたけれど、それでも、急に周りの誰のことも信じられなくなった。
 でも、別にそのショックが大きくて耐えきれなかったというわけではない。どちらかといえば、脱力したというほうが正しかった。だから、そのことがあってからもしばらくは普通に学校に行っていた。
 でも、風邪を引いて二日間欠席して、三日目に登校しようとしたとき、もうだめだと気がついた。なんのために楽しくもない場所に無理をしてまで毎日通わなくてはいけないのか、全く分からなくなってしまったのだ。一度そう思ってしまったら、もうどんなに頑張っても、学校に足を向けることができなくなった。
 そのままずるずると休み続けて、気がついたら三年生、受験の年になっていた。
 夏休みに担任が家庭訪問に来て、『これまでの成績は悪くないから、今からでも補習や家庭学習を頑張れば、中堅の進学校には合格できる見込みがある』という話をされた。それでも、今さら学校なんて通えるだろうかと不安でぼんやりしていたら、お父さんから『いつまでもこうしているわけにもいかないだろう、ちゃんと将来を考えろ』と言われた。そして、市内の通信制高校か、鳥浦の祖父母の家から通える高校かというふたつの選択肢を示されたのだ。
 このとき私は、『不登校になった娘を妻の実家に追いやって、跡継ぎの大切な息子の教育に全力を注ごうというわけね』と父の思いを悟った。大切な息子というのは、私の弟の真樹のことだ。
 弟は、私とは正反対の誰からも愛される素直な性格で、学校の先生から信頼され、友達も多く成績も優秀で、将来有望とみんなから太鼓判を押されている。出来の悪い姉に手間をかけるよりも弟を大切にしたほうがずっと有益だろうと、私自身もよく理解していた。
 弟をひいきしているのはお父さんだけでなく、父方の祖父母もそれを隠さないし、お母さんだって私より真樹を大切にしていたのを知っていた。
 つまり私は、家族の誰からも必要とされていないのだ。
 鳥浦と聞いても、お母さんの実家がある港町、というくらいの認識しかなかったし、名前も聞いたことのない高校だったけれど、それでも、居心地の悪い家にいるよりはと考えて、私はその高校に願書を出した。

 それが、私がこの町に来た経緯だった。我ながらつまらない話だ。こんな話をしたって鼻で笑われるだけだろうから、漣にはもちろん打ち明けるつもりはない。そして、四月の間学校を休んだ理由も、知られたらもっと馬鹿にされそうだから、絶対に言わない。
 そんなことを考えながら、さざ波立つ海を見るともなく見ていると、漣がふいに口を開いた。
「鳥浦の海って、ほんと綺麗だよな。俺、ここに住みだしてから毎日見てるんだけど、全然飽きないんだよなあ」
 ひとりごとのような言葉だった。
 どうして急にそんなことを言い出したんだろう、と怪訝に思い、そっと隣を見上げると、その横顔はどこか切実にも見えるほどまっすぐに、ただひたすら海へと向けられていた。海が好きなんだろうか、と思う。
「……ねえ、そういえば、どうして下宿してるの?」
 なんとなく気になって訊ねてから、しまった、と少し後悔する。これ以上会話したくないと思っていたのに、わざわざ自分から話題を振ってしまった。
 漣は少し眉を上げて、なにかを考えるように斜め上に視線を投げてから、ぽつりと答える。
「まあ……海の近くに住みたかった、みたいな?」
 ずいぶん適当な理由だ。そんなことで、わざわざ親元を離れてまで鳥浦に住んでいるのだろうか。
「なにそれ……どうしてもあの高校に通いたかったとかじゃないの?」
 でも、なんの変哲もない普通科の中堅校に、それほどの必然性はなさそうだ。似たような学校はどこの土地にでもある。
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
 漣はなんとなく言葉を濁すように曖昧に答えたあと、
「でもほら、海が近いと、夏休みとかいくらでも海で遊べるからいいよな」
 ふいに笑みを浮かべてあっけらかんと言った。
 毎日家に引きこもっていた私には、中高生が海でどんな遊びをするのかはよく分からないけれど、海水浴とか、ビーチバレーとか、バーベキューとか、そういうことだろうか。
 すべてから逃げ出すようにこの町に越してきた私とは違って、ずっと光の当たる明るい場所で生きてきたような、いかにも活発で友達の多そうな漣らしい考えだ。予想はしていたけれど、やっぱり彼は、私がいちばん苦手とする人種なんだな、と改めて思う。
 こんなやつとこれから一緒に生活して上手くやっていける気がしない、と口許を歪めたとき、漣がさっと背筋を伸ばして自転車のハンドルに手をかけた。
「そろそろ戻るぞ。もうすぐ昼飯の時間だろ、手伝いしないと」
 その言葉に、いい子ぶりっこめ、と内心で悪態をつく。
 鳥浦に住み始めてからの数日で分かったことだけれど、漣は毎日、腹が立つくらい〝いい子〟な行動をしていた。下宿をさせてもらっているという引け目があるからだろうけれど、朝はお風呂を掃除し、食事の前には毎回必ずおばあちゃんの料理の手伝いをして食後の片付けもやり、部活から帰ってきたあとはおじいちゃんと一緒に畑仕事や日曜大工をする。
 そのせいで私までなにかやらないといけない雰囲気になるのが嫌だった。手伝いをするのが嫌というよりは、血が繋がっているとはいえまだ慣れない人たちと一緒になにかをするとなると会話ももたないし沈黙もつらいし、ひどく肩身の狭い感じがして気が重いのだ。
 こいつさえいなければ、という思いがふつふつと湧き上がってきて、素直に「分かった、帰ろう」なんて言う気には毛頭なれず、私は無言のままことさらゆっくりと身を起こした。
 自転車を押して家の方向へと歩き始めた漣のあとを、景色を見るふりでわざとだらだらとした足どりで追う。呆れて先に行ってくれればいいものを、彼はつかず離れずの距離を保ったまま歩き続けた。本当に、いちいち腹が立つ。
 おじいちゃんもおばあちゃんも、悪い人ではない。むしろすごくいい人たちに見える。実家の人たち——お父さんや父方の祖父母——のように殺伐とした空気は全く発しないし、おじいちゃんはあまりたくさんは喋らないけれどいつも柔和な表情で、おばあちゃんは社交的で明るく、ふたりとも常ににこにこしている。
 それでも、やっぱり本当は私を引き取ったことを面倒に感じているんじゃないかと思わずにはいられない。だって、七十歳近くなってから、これまでほとんど接触のなかった孫の世話をしないといけなくなったなんて、普通に考えてしんどいだろうし、迷惑でしかないはずだ。迷惑に思われているに違いないのに、大きい顔をして過ごせるわけがなかった。
 はあ、と無意識に深い息を吐き出した。するとそれが聞こえたのか、漣がちらりと振り向く。
 この町は昼間でも、人はもちろん車も電車もほとんど通らないので、あまりにも静かすぎて、家の中でも外でもちょっとした物音まで人に聞かれてしまうのが嫌だった。
「真波って、いっつもつまんなそうな顔してるな」
 案の定、嫌みを言われてしまう。
「だってつまんないもん」
 私はせいいっぱいの反撃で応えたけれど、漣は呆れたように肩をすくめただけだった。