「気づいてないこと、知らないことばっかりだったな……」
家を出て駅に向かいながら、私は小さく呟いた。隣の漣がこちらを見る。
「おばあちゃんたちの話聞いて、私、本当に自己中で周りが見えてなくて、馬鹿なやつだったなって、改めて反省した」
すると彼は、ぷっと噴き出した。
「お前、今ごろ気づいたのかよ」
「ひど! そこは普通、『そうでもないよ』とかでしょ! ……いや、まあ、ほんと馬鹿だしわがままだから、その通りなんだけどさ……」
「ちゃんと自分で分かってんじゃん」
「ほんっとデリカシーないな……慰めるとかいう選択肢はないわけ?」
「思ってもないこと言ったって意味ないだろ」
そうだ、漣はこういうやつだった、と私は内心でため息をつきつつ、でも自然と口許が緩んだ。見ていられないくらいに沈み込んでいた彼と、またこんなふうに軽口を叩けるようになったことが、素直に嬉しかったのだ。
そんなことを考えていると、ふいに漣が声色を変えて、「でもまあ」と言った。見るとそこには穏やかな笑みがあった。
「俺だって馬鹿だから、偉そうなこと言えないけどな」
「……ちゃんと自分で分かってんじゃん」
なんとなく気恥ずかしくて、さっきの言葉をそのまま返す。漣はおかしそうに笑った。
「みんなきっとこうやって、自分の馬鹿なところ自覚して、少しずつでも直していって、成長していくんだよな。だから、早く気づけてよかったってことにしよう」
「そうかもね……」
「お前だって、今から自分を変えにいくんだろ?」
漣がにやりと笑って私を見た。彼には私が今からなにをしにいくのかはっきり伝えたわけではなかったけれど、なにか勘づいているのだろう。
「うん……お父さんと対決する」
上手い表現が見つからなくてその言葉を選ぶと、彼はまたおかしそうに噴き出した。
「対決か」
「うん、対決。今までは、お父さんの言うことなら仕方ないって思って、言われた通りにしてたけど……ここを離れたくないから」
地元に戻れと言うお父さんに、ちゃんと自分の考えを自分の言葉で伝える。きっとすぐには分かってもらえないけれど、納得してもらえるまで何度だって説得する。今までに感じたことのない強い決意が、私の胸の中で確かにしっかりと根を張っていた。
私を変えてくれた人たちがいるこの町で、私はまだ暮らしていたい。今お父さんの言いなりになってここを離れたら、きっと後悔すると思った。
「まあ、健闘を祈るよ」
漣がそう笑ったとき、ちょうど海沿いの道に出た。とたんに彼が口を閉ざし、じっと海を見つめる。
龍神祭の日にユウさんと話をして以来、漣は少しずつ元気を取り戻していったけれど、やっぱりときどき、なにか物思いに耽るような横顔を見せる。まだナギサさんやユウさんへの罪の意識が消えないんだろうな、と思った。
しばらく経っても彼が動き出さないので、私は気を取り直すように「ねえ」と声を上げる。
「アイス食べよ。溶けちゃうから」
「ん? ああ」
保冷バッグからたまごアイスを取り出して、気づく。
「……あ、そっか、切らなきゃ食べれないよね」
アイスクリームが入っているゴム製の袋の先端を切らないと中身が出てこない仕組みなのだ。
するとバッグの中を覗いた漣が声を上げた。
「お、はさみ入ってるぞ」
「ほんと!? さすがおばあちゃん!」
漣がはさみを持って刃を入れる。その瞬間、ぴゅうっと中身が飛び出した。
「うわっ!」
漣が慌てて先端を噛む。
「そうだ、こういうアイスだった!」
「時間経ったから溶けちゃってたんだね」
「でもこの災難すら懐かしい!」
私たちは大笑いしながら、駅へと続く道を歩いた。
一時間ほど電車に揺られて、N市のターミナル駅に着くと、電車を乗り換えてまたしばらく移動する。
鳥浦を出て約一時間半後、辿り着いたのはお母さんが入院している大学病院だった。最後にお見舞いに来たのは鳥浦に引っ越す前なので、もう三ヶ月以上経っている。
久しぶりに来たけれど、病院はなにも変わっていない。明るくて白くて清潔で、人がたくさんいるのに妙に静かなロビー。
お母さんの病室に向かう途中、入院患者や見舞い客がくつろげる談話室の前を通りかかったとき、漣が「なあ」と声を上げた。
「俺、ここで待ってるわ」
私は驚いて振り向く。
「えっ、一緒に来ないの?」
「うん。終わったら呼びに来て」
「……もしかして、うちのお父さんに会うの、嫌?」
お母さんの病室では、お父さんが待っている。だから漣は行きたくないのではないか、と思ったのだ。
「漣、失礼なこと言われたもんね……あのときはお父さんがごめん」
お父さんが鳥浦に来たとき、漣に対してずいぶんと無神経で不躾な言葉を吐いていた。あんなことがあったのだから普通に顔を合わせる気になれないのは当然だろう。
でも、漣は「んなわけないじゃん」と笑い飛ばした。
「あんなの気にしてないよ。お前、いちおう女の子だし、娘がいる親はやっぱ反対するだろ、男と一緒に住むなんて」
「そうかな……漣が気にしてないならいいんだけど」
「してないよ。なんならあとで挨拶しようと思ってるし。ただ、俺がいたら言いにくいこともあるだろうからさ、家族水入らずで話してこいよ」
そう言った彼の表情にごまかしはなさそうだったので、私は安心してうなずき返した。そもそも彼はうそなんてつかないのだ。
「じゃあ、行ってくる」
おばあちゃんが用意してくれた手土産の紙袋を受け取って、病室に向かって歩きだしたとき、漣が「なあ」と声を上げたので、私は振り向いた。
「頑張れよ。ここで待ってるから」
今まででいちばんの笑顔だった。なぜか、すっきりと晴れ渡った空の下に広がる海を思い出す。
「またあとでな、真波」
胸がじわりと温かくなる。漣に名前を呼ばれて、こんな気持ちになる日が来るなんて思いもしなかった。
出会ったころ、いきなり下の名前を呼び捨てにされて、苛々していた。でも、気がついたら彼にこう呼ばれるのが普通になり、いつしか、心地よくさえなっていた。
「うん、頑張る。またあとで!」
私は漣に手を振って、真っ白な廊下を歩き出した。彼が待ってくれていると思うだけで、踏み出す足に力がみなぎるような気がするのが不思議だった。
病室のドアの脇にかかったネームプレートを見て、『白瀬洋子』と書いてあるのを確認すると、私はドアをノックした。
「真波です」
そう口にした瞬間、中でばたばたと足音がする。なんだろう、と首を捻っていると、すぐにドアが開いた。
「姉さん!」
顔を出したのは、三ヶ月ぶりに会う弟だった。
「えっ、真樹! 来てたの?」
「うん。姉さん、お帰り」
満面の笑みだった。まさか笑顔で迎えてくれるなんて予想もしていなかった。
真樹に対しては、ほとんど説明もせずに家を出てしまい、姉としての責任を放棄してしまったように感じていたのだ。それなのにこんなふうに嬉しさを隠さない反応をしてくれて、申し訳なさが込み上げてきた。
「真波が帰ってくると言ったら、会いたいと言って聞かなくてな。連れてきた」
真樹のうしろに立ったお父さんが言う。
「学校のことやらいろいろ話したいそうだから、聞いてやってくれ」
私はうなずき返し、窓際のソファに真樹と並んで腰かけた。
すぐに真樹が口を開いて話し始める。その内容は、友達や先生の話、塾の話やゲームの話などとりとめのないもので、そういえば家にいたころは毎日こんな話を聞いていたな、と懐かしくなった。
しばらく話し続けて、やっと満足したのか、真樹が口を閉ざした。そして私の顔をじっと見上げる。
「姉さん、なんか元気になったね」
私は目を見開き、「そうかな?」と首を傾げる。
「すごく元気になったように見えるよ。おじいちゃんとおばあちゃんに会えたおかげ?」
「うん、そうかも。それと、他にもたくさんの人と会えたおかげ」
「そっかあ、よかったね!」
本当に嬉しそうに真樹が笑った。
「……うん。ありがとう」
真樹なりにずっと、学校に行かずに部屋に閉じこもっていた私を心配してくれていたのだろう。いちばん身近な家族の思いにさえ、私は気づけていなかったのだ。
「お父さんとなんかお話するの?」
「うん、ちょっとね」
「大事な話?」
「うん。すごく大事な話」
「じゃあ僕、談話室で本読んでくる」
「えっ?」
止める間もなく、真樹はぱたぱたと病室を出ていった。
「まだまだ子どもだと思ってたが、あんなふうに気を遣えるようになってたんだな」
ベッドの脇のパイプ椅子に座って待っていたお父さんが、真樹のうしろ姿を見送りながら呟いた。それから振り向き、
「さて、本題に入るか」
私はうなずき、ソファから立ち上がる。
お父さんとベッドを挟んで反対側に立ち、こんこんと眠るお母さんの顔を覗き込んだ。
「……お母さん、久しぶり」
声をかけても、当たり前だけれど無反応だ。
私はかたわらのパイプ椅子に腰かけて、点滴の管に繋がれた青白く細い腕にそっと手をのせる。いつも通り、温かかった。でも、その顔はやっぱり血管が透けそうなほどに白く、瞼は力なく閉じられている。
もう十年もこの姿を見続けて、元気だったころのお母さんのことはほとんど思い出せなかった。
私はお母さんから目を離し、お父さんに向かって口を開いた。
「ねえ、お父さん……」
決心が鈍らないうちに言うべきこと言ってしまおうと思っていたのに、いざ真正面から向き合うと、上手く言葉が出てこなくなる。その隙にお父さんが「真波」と声を上げた。
「引っ越しはいつにする。夏休み中に手続きも全部済ませてしまったほうがいいだろう。少し調べてみたが、全日制の高校は基本的に二月に願書を出して三月に試験、四月に転入というスケジュールらしいから難しいが、通信制の学校なら十月からも通えるし、一年中編入を受け付けている学校もある。少しでも早いほうがいいだろうから、来週にもこっちに戻って来て準備を始めなさい」
「ちょ……ちょっと待って。なんでそうやって勝手に話を進めちゃうわけ?」
いきなり試験だとか編入だとかの話を出されて、驚きと動揺を抑えきれず、私は思わず口調を鋭くした。でもすぐに、これじゃ今までの二の舞だ、と思い直し、なんとか自分の気持ちを落ち着ける。
「お父さん、私の話を聞いて」
姿勢を正すと、自然と静かな声になった。
お父さんがぴくりと眉を上げて、じっと私を見つめ返す。
「お父さんはいつも私の話を聞かないで、自分の考えばっかり押しつけて……私にだって自分なりの考えがあるんだから、まずは聞いてから判断してほしい」
ゆっくりと告げると、お父さんが軽く目を見開いた。
「押しつけ……? そんなつもりは……。お前はまだ子どもだし、いつもなにも言わないから、まだ自分で決められないだろうから、父さんが考えて導いてやらないと、と思って……」
歯切れの悪いお父さんの言葉を聞いていると、本当に私の意見を無視するつもりなんてなかったのかもしれない、と思えた。
そうか、私が初めから諦めて自分の考えを主張しなかったのがいけないんだ。自分の気持ちは、たとえ家族であっても、口に出さなければ伝わらない。鳥浦で学んだことを、改めて強く感じた。
だから、今日はちゃんと言葉にする。私は決意も新たにお父さんを見つめ返した。
「お父さん。私、やっぱり、こっちには戻りたくない。これからも鳥浦に住んで、あっちの高校に通いたい」
きっぱりと告げると、お父さんはぐっと眉をひそめ、それから深々と息を吐き出した。
「なぜだ? 真波のことを思って、戻って来いと言ってるんだ」
低く唸るような言葉に、私も眉根を寄せた。感情的に返したくなったけれど、なんとか呑み込む。お父さんをまっすぐに見て、「その言葉は」と口を開いた。
「その、あなたのことを思って言ってる、って言葉、すごく、ずるいと思う」
怒るかな、という考えが一瞬頭をよぎったけれど、お父さんは意外にも驚いたように目を見張っただけだった。
「ずるい……? どういうことだ」
本当に分からないという顔だった。
「だって、その言葉を言われたら、私たち子どもは、絶対に言うこと聞かなきゃいけない気がしちゃうでしょ。自分のためによかれと思って言ってくれたことなんだから、言う通りにしなきゃ申し訳ないような……」
でも、と私は続ける。
「相手が自分のことを思って言ったことなら、なんでも言いなりにならなきゃいけないの? それっておかしくない? 親だって人間なんだから、間違った考えに陥ることだってあるはずでしょ? それなのに、親の意見は絶対だから、親の言うことだからってなんでもその通りにしてたら、子どもは自分で考える力まで失って、自分ではなんにも決められない人間になっちゃう気がする……」
お父さんは唖然としたように、まじまじと私を見ていた。
「私は、自分がもしも将来子どもを産んで親になったとき、それだけは言いたくないって思う。その言葉は、子どもの意志も思考力も選択権も全部奪っちゃうと思うから。大人からしたら、『そっちの道よりこっちの道のほうが将来あなたのためになるよ』って確信できるとしても、子どもからしたらただの押しつけにしかならないよ」
お父さんはどこか傷ついたような表情を浮かべていた。きついことを言っているという自覚があったので、なんだか申し訳なくなってくるけれど、自分を奮い立たせて、さらに続けた。
「子どもにだって、子どもなりの考えがある。自分の人生なんだから、ちゃんと自分なりに必死に考えてるよ。子どもなんだから分からないだろう、だから大人の意見に従えって、すごく横暴に感じる。だから、お互いが納得するまで自分の意見をぶつけ合って、きちんと話し合うべきなんだと思う」
私が口を閉じると、沈黙が落ちてきた。
お父さんは硬直してしまったように、少しうつむいたまま動かない。
しばらくして、私は声色を変えてまた口を開いた。
「……私ね、鳥浦が好きなんだ。最初は正直、大嫌いだったけど、三ヶ月暮らして、いろんな人と関わって、いろんなことを教えてもらって、ひねくれてた私を変えてくれて、今はすごく大好きになったの。……お父さんからしたら、厄介払いだったんだろうけど、今の私にとっては……」
そのとき、お父さんがいきなり顔を上げた。
「厄介払いなんかするものか!」
ひどく怒ったような声だった。私は驚いて言葉を呑み込み、お父さんを見つめ返す。
お父さんは顔をくしゃりと歪めて、震える声で続けた。
「実の娘を厄介払いするなんて、そんなはずないだろう……」
私はふたつ瞬きをしたあと、お母さんの手をぎゅっと握って口を開いた。
「……でも、お父さん、私が中学で不登校になったとき、甘えるなとか、真樹に悪影響だとか言ったでしょ? だから、私に苛々して、遠くにやりたかったんだと思って……」
「あれは!」
またお父さんが声を荒らげた。そのあとぐっと唇を噛みしめ、苦しげに続ける。
「あれは……お前のためを思って」
そこで言葉が途切れた。小さく首を横に振り、どこか自嘲的に笑う。
「いや……真波のためを思って言ったつもりだったが……いつまでも休んだままだと将来大変なことになると心配で、なんとか奮い立たせようと思って言ったつもりだったんだが……そうだな、言い方が悪かった」
お父さんがこんなふうに自分の非を認めるのは初めて見た。決して自分の間違いを認めたりしない人なんだと思っていた。
もしかしたら、親だから、大人だから、いつでも完璧で正しい姿を見せないといけないと気を張ってたのかもしれないな、となんとなく思う。
「……鳥浦に住むことをすすめたのは、そのほうが真波にとっていい環境だろうと考えたからだ。こっちの学校でつまずいてしまって……お前は最後まで理由は言わなかったが、なにか嫌なことがあったんだろう。地元にいい思い出なんかないだろう。だから、心機一転、新しい土地に移ったほうが、お前の気分も変わって、将来にとってもいいだろうと思ったんだ」
私は「それは分かるよ」とうなずいた。
「でも、まさかお義父さんたちの家が、真波と同い年の男の子が住んでいるような環境だとは思わなかった。なにかあってからじゃ遅いと焦って、鳥浦の高校に通えているというならこっちに戻って来ても大丈夫だろうと、今後のことを考えれば地元にいるほうがいいに決まっているし、そのほうが真樹も喜ぶだろうと思って、帰って来るように言ったんだ」
お父さんがそこまで考えていたなんて、と驚く。漣のことが気に食わなくて、自分の思い通りにさせたくて、あんな命令をしたのだと思っていた。
私もお父さんも、自分の気持ちを伝えるのが苦手なところは同じなのかもしれない。私はお父さんに似たんだな、と思うと、なんとなく気恥ずかしかった。
「お前は、こっちに戻りたくないのか」
お父さんがぽつりと言った。
もしかして、言葉にできないだけで、寂しいと思ってくれているのだろうか。少し前までなら考えられなかったことだけれど、今は、そうなのかもしれないと思える。お父さんがとても不器用な人だと分かったから。
私は微笑みを浮かべて答えた。
「別に戻りたくないってわけじゃないの。ただ……」
ひとつ大きく呼吸をして、私はまた口を開く。
「私ね、お父さんが鳥浦に来た日、お父さんと話したあと、なんか頭に血が昇って、なんていうか、もうどうでもいいやって気持ちになって、……死んじゃっても構わない、って思いながら海に行ったの」
お父さんがはっと目を見張った。
「真波……! お前、なんてことを!」
勢いよく立ち上がり、お母さんの寝顔をちらりと見てから、怒ったような目をして言った。私はそれを手で制して首を振り、「ごめん。でもね」と続ける。
「そのときにね、漣が私を引き留めて、助けてくれたんだよ。……命だけじゃなくて、心も」
お父さんは椅子に腰を下ろし、瞬きも忘れたように私を見つめながら続きを待っていた。
「漣が、私を救ってくれたの」
荒波に呑まれそうだった私の心を救ってくれた漣の言葉を思い出しながら、噛みしめるように言った。
「そのあと、漣にすごくつらいことが起こって……私は生まれて初めて、誰かのためになにか行動を起こさなきゃって思った。漣が私を変えてくれたんだよ。だから、漣は私の恩人で、かけがえのない人なの」
本人がいないからこそ言える言葉だった。照れくささを紛らわすために軽く頬を撫でてから、また口を開く。
「漣だけじゃなくて、おじいちゃんもおばあちゃんも、お世話になってる喫茶店の人も、クラスメイトたちも、いろんな形で私を助けてくれたり、大切なことを教えてくれたり、私を変えてくれたりした。だから、私は、高校を卒業するまでは鳥浦にいたい。そして、その人たちに恩返しをしたい」
私の主張を聞き終えて、お父さんはどこか呆然としたような顔で瞬きを繰り返してから、ふっと小さく笑った。
「いつの間にか、真波もすっかり大人になったんだな」
胸を張って大人と言える自信はまだないけれど、幼稚で馬鹿だった少し前の自分に比べたら、ちょっとは成長できていると思ったので、小さくうなずいた。
「今まで、真波は自分でなにも選べないと決めつけていて、その……すまなかった」
私はぽかんと口を開いた。
「……なんだ、その顔は」
「だって……お父さんが謝るのとか、想像もしてなかったから……」
お父さんは気まずそうに両手で顔をくしゃくしゃと撫でてから、ふうっと息を吐いて言った。
「俺は昔から、自分の非を認めて謝るのが苦手で……母さんにもよく叱られてたんだ」
私は思わず「えっ」と声を上げる。
「お父さんを叱るの? お母さんが?」
お父さんがくすりと笑ってうなずいた。
「ああ、そうだ。真波と真樹が寝たあとにな、リビングに呼び出されて……。『あなたはプライドが高いし、社長だからとか父親だからとか考えて、威厳を保つために謝っちゃいけないって思ってるんだろうけど、それはあなたの悪いところだ』と説教されてたよ。俺はなにも言い返せなくて、黙って聞いているしかなかった」
お父さんがお母さんに目を向ける。私も同じようにお母さんを見つめながら、お母さんに叱られてしょぼくれるお父さんの姿を想像して、こっそり笑った。
しばらくして、お父さんがふいに顔を上げ、「真波」と呼んだ。今まで聞いた中でいちばん柔らかな声だった。
「お前がちゃんと自分なりに考えていることはよく分かった。これからは、自分のことは自分で考えなさい。父さんはお前の決めたことを応援するよ」
私は目を丸くして息を吸い込んでから、微笑みを浮かべてうなずき返した。
「……ありがとう、お父さん」
それから私たちは、どちらからともなく、再びお母さんに目を向けた。
カーテン越しに窓から射し込む光が、真っ白なベッドに横たわる青白く痩せ細った身体を、淡く照らし出している。
その姿を見ていて、ふと思い出した私は、鞄の中を探った。そして、お母さんの枕元に、ガラスの小瓶に入れた桜貝の貝殻を置く。龍神祭の夜に、砂浜で拾ったものだ。幸せを呼ぶ貝のひとかけら。
「……ねえ、お父さん」
私はお母さんの顔を見つめながら呟く。
「私ね、ずっと気になってたことがあったの」
目を上げてお父さんを見ると、「なんだ、言ってみろ」と返ってきた。
私は深く息を吸い込み、そして吐いてから、意を決して口を開いた。
「——お母さんは、私のこと、愛してなかったんじゃないか、私はいらない子なんじゃないかって……」
お父さんの顔色がさっと変わった。
「……どうして」
目を見開いて、驚いたような、そして傷ついたような顔をしている。
「どうしてそんなふうに思うんだ?」
声は弱々しかった。私は少し目を伏せて、「事故のとき」と続ける。
「あのとき、お母さんは……真樹だけ守ろうとして、私のことは……見向きもしなかったから、だから……」
「そんなことはない!」
私が言い切らないうちに、お父さんが鋭く声を上げた。
「そんなわけないだろう!!」
今まで見た中でいちばん怖い顔、いちばん厳しい口調だった。
驚く私を、お父さんが強い瞳で見つめる。
「……警察から聞いた話だ。事故には目撃者がいて、当時のことを詳細に教えてくれた……」
それからお父さんは、絞り出したような声で語り出した。
「あのとき、車が突っ込んでくることに気づいた母さんは、手を繋いでいた真樹を抱きかかえて転がって、なんとか車から逃れた。でも、背後で衝突音を聞いて、真波が轢かれてしまったことに気がついたらしい。真波は自分たちより先を行っていたから大丈夫だと思っていたんだろう。母さんは悲鳴を上げて、跳ね飛ばされた真波を追いかけた。でも、植木に落ちた真波を抱き上げようとした次の瞬間、事故に気づかずに走ってきた後続車に、はねられた。そのまま地面に叩きつけられて、頭を強打して……」
私は言葉もなくお父さんの話を聞いていた。
知らなかった。お母さんが私に駆け寄ってくれていたなんて。私が事故の衝撃で意識を手放したあと、お母さんは私を抱きしめようとしてくれていたんだ。
私はお母さんに目を落とした。青白く、生気も力もない横顔。それは、自分の危険も顧みずに私を守ろうとしたからだったんだ。
「……母さんが怪我を負った経緯を知ったら、真波が自分のことを責めてしまうんじゃないかと思って、あえて真実を伝えなかったんだ」
お父さんは両手で顔を覆い、苦しげな声で言った。
「でも、そのせいで真波が苦しんでいたことに、父さんは気づけなかった」
ゆっくりと下ろされた手の向こうから、歪んだ顔が現れた。
「すまなかった……」
私は首を横に振る。でも、言葉が出なかった。込み上げてくる涙が邪魔をした。
「でもな……母さんが真波と真樹を心から愛しているのは確かだよ。それは父さんが保証する。お前たちふたりが生まれてからどれほどの愛情を注いできたか、いちばん側で見てたのは父さんなんだから……。母さんは、本当に愛情深い立派な人なんだよ」
お父さんが愛おしげな眼差しでお母さんを見つめている。
「こうなってからも……父さんがお前たちの話をすると、母さんは瞼をぴくぴくさせたり、指を震わせたり、少し反応することもあるんだ。耳は聞こえてるはずだから、なるべくたくさん話しかけてあげてくださいと先生がおっしゃってたが、きっと本当に聞こえていて、お前たちの話を聞けるのを喜んでいるんだと思う」
「え、お父さん、お母さんのお見舞いに来てたの?」
私はいつも週末に真樹とふたりで来ていた。お父さんがお母さんに会いに来ていたなんて知らなかった。
「当たり前だろう。仕事の合間や会社からの帰りに、毎日寄ってるよ」
「えっ、毎日? 本当に? 全然知らなかった……。仕事が忙しいから来れないんだと思ってた」
「わざと時間をずらしてたからな」
「えー……」
たぶんお父さんは、眠るお母さんに語りかける姿を私や真樹に見られるのが恥ずかしかったんだろうと思う。
「そっか、そうだったんだ……」
細く開いた窓から柔らかい風が吹き込み、カーテンをさらさらと揺らす。その瞬間、ふいに映像が頭に浮かんだ。
ふたりきりの静かな病室で、お母さんにひっそりと声をかけるお父さんのうしろ姿。
それはとても悲しいけれど、優しくて愛に溢れた空間だった。
私はお父さんのことをずっと、仕事人間で家族をないがしろにしていると思っていた。でもそれは、本当のお父さんがちっとも見えていなかったのだ。
お父さんは無口で、必要以上には喋らない。でも本当は、親の反対を押し切って結婚するくらい、事故で意識不明のまま十年も眠り続けているお母さんに毎日会いに来るくらい、お母さんのことを愛している。
そして、お母さんに毎日子どもの話をできるくらいに、私たちのことを見ていてくれた。きっと大事に思ってくれている。
そう考えると、私を鳥浦の高校に進学させておじいちゃんの家に引っ越しさせたことも、漣と一緒に住んでいると知って地元に戻そうとしたこともすべて、私のことを心配してくれていたからなのだと、不思議なほど素直に信じられた。
無口で不器用で、分かりやすい愛情表現なんてできないお父さんと、疑心暗鬼でひねくれていて、人の思いを素直に受け取れない私。だからすれ違ってしまっていたのかもしれない。
「真波とこんなふうに話せたのは、もう何年ぶりだろう。母さんのおかげかな……」
お父さんが呟いた、そのときだった。
点滴に繋がれたお母さんの左手の小指が、ぴくりと動いた。
気づいた私は、驚いて視線を上げ、お母さんの顔に目を向けた。瞼が小さく震えている。
私とお父さんは、固唾を呑んでお母さんを見守る。時間が止まったようだった。
しばらくして、青白い瞼が少し、ほんの少しだけれど、薄く開いた。
「え……」
思わず声を上げてしまう。今までに経験したことがないくらいに、胸が激しく動悸していた。次の瞬間、お母さんの瞼はすうっと閉じた。
そして、その拍子に、閉じた瞼から、透明な涙が一筋、こぼれ落ちた。
それきりお母さんは動かない。安らかな寝息だけが聞こえてくる。
「お母さん……今、目、開けた? 開けたよね!?」
私は慌ててお父さんを見た。お父さんは、これ以上ないくらいに目を見開き、お母さんを凝視していた。
「洋子……!」
小さく叫び、お父さんが椅子から立ち上がった。
「洋子!!」
お父さんはお母さんの身体にすがりつき、声を上げて泣いた。
その様子をしばらく眺めていた私は、思わず笑みをこぼしながら、音を立てないようにそっと立ち上がって病室をあとにする。
十年以上もの間、意識が戻るのを毎日ひたすら待ち続けたお父さんを、お母さんとふたりきりにしてあげよう、と思ったのだ。
それに、私にも、私のことを待ってくれている人がいる。
部屋を出るときちらりと振り向くと、お母さんの枕元で、桜貝の貝殻が淡く光を放ったような気がした。
どうか、どうかお願いします、お母さんを——。誰にともなく、私は祈った。
談話室に行くと、驚いたことに、真樹は漣と一緒に図鑑を見ながら楽しそうに話をしていた。
「真樹、漣」と声をかけながら近寄る私に気づいた漣が顔を上げ、目を丸くして私と真樹を交互に見る。
「えっ、こいつ、真波の弟なの?」
どうやら知らずに一緒にいたらしい。なんだかおかしくて、私は小さく噴き出した。
「うん、そう。真樹っていうの」
「えー、マジか! 言われてみたら顔似てるな」
そうかな、と笑いながら、私は真樹に目を向ける。
「この人は私の高校の同級生で、鳥浦のおじいちゃんちに住んでる人だよ。ちゃんとお礼言ってね」
すると真樹は立ち上がり、漣に深々と頭を下げた。
「遊んでくれてありがとうございました!」
漣はまだ驚きがおさまらないような顔で「どういたしまして」とうなずいてから、私を見る。
「お前、ちゃんと姉ちゃんやってんだなー」
そう言われると照れくさくて、私は話を変えるように「行こう」と呟いた。
それから真樹に「今度はおじいちゃんとおばあちゃんも一緒に会おう」と約束し、また来るからね、と別れを告げる。
「うん! 楽しみにしてる。漣くん、また遊んでね」
「おう、任せとけ。俺も楽しみにしてる」
漣が真樹の頭をぐしゃぐしゃかき回すと、真樹は嬉しそうに笑い声を上げた。
真樹は私たちの姿が見えなくなるまでずっと、笑顔で手を振っていた。
「実家に泊まらなくてよかったのか?」
鳥浦へと向かう電車に揺られながら、漣が訊ねてきた。
「うん、とりあえず今日は帰る。明日は出校日だし。それに、おじいちゃんとおばあちゃんに、早く報告したいことがあるから」
そこで一度言葉を切ると、彼が「報告したいことって?」と先を促す。
私はひとつ息をついてから、ゆっくりと答えた。
「お母さんがね……目を開けたの。ほんの一瞬だけど」
「えっ!」
漣は目を見開いたあと、自分のことのように嬉しそうに「すげえじゃん!」と声を上げた。
「うん……びっくりした。ただの反射とかかもしれないけど、でも、今まで一度もなかったから……もしかしたら、いつかちゃんと、目を覚ましてくれるかもしれない」
もしもそうならなかったときに絶望しないためにも、あまり過度な期待はしないようにしなきゃ。そうは思うものの、やっぱり長年眠っている顔ばかり見てきたお母さんに変化が訪れた嬉しさは抑えきれなかった。
「……そうなると、いいな」
漣は、きっと大丈夫とか、絶対に目を覚ますよとか、その場しのぎの言葉は口にしない。
でも、心からそう祈ってくれているのが、柔らかい眼差しから伝わってきた。
「……私、自転車、練習しようかな」
あの事故以来、怖くて乗れなくなってしまった自転車。でも、いつまでも過去に縛られて前に進めずにいるのはやめにしたい。
「いいじゃん。教えてやるよ」
漣が笑って言った。その笑顔が眩しくて、私は照れくささに軽口を返す。
「ええ、やだなあ、めっちゃスパルタそう」
「お前にはスパルタくらいがちょうどいいだろ」
ひどい、と睨み返すと漣は弾けるように笑った。
◇
鳥浦に着いたころには、すっかりあたりは夕闇に沈んでいた。
「海に寄っていこうか」
漣がそう言い出した。ナギサさんのことがあって以来、切ない顔で海を見ていることが多かったから、彼のほうからそう言い出したのは意外だった。
「……大丈夫?」
思わず訊ねると、漣は驚いたように目を丸くして、それからにこりと笑った。
「大丈夫。海にはつらい思い出もあるけど、でもやっぱり、俺はここの海が好きだ」
そっか、と私はうなずいた。
いつもの砂浜に下りて、波打ち際に並んで腰を下ろした。目の前には、夜の色をまとい始めた海。静かに打ち寄せる波が、スニーカーの爪先をかすめるように撫でていく。
しばらくして、漣がぽつぽつと語り始めた。
「……ナギサさんはさ、今の俺らと同い年だったんだよな。この年で、自分を犠牲にして俺を助けて、……この年で亡くなった」
うん、と私はうなずく。
「そしてユウさんは、この年で、人生でたったひとりって決めてた大切な人を失った。でも、その悲しみを乗り越えて、あんなふうに笑顔で強く生きて、みんなを笑顔にしてる。すごいよな。ふたりのことを考えると、俺ってなんてガキなんだろうって恥ずかしくなる……」
私はまたうなずいた。
「私もそう思う」
それから、ほとんど無意識に呟く。
「優しい人に、なりたいな……」
漣がゆっくりとこちらを見た。
「ユウさんみたいに、ナギサさんみたいに、おじいちゃんおばあちゃんみたいに、漣みたいに——」
ユウさんのように、分け隔てのない広い愛情で、周囲に優しさを与えられる人になりたい。
ナギサさんのように、自分を犠牲にしてでも人を助けられるような、深い深い優しさをもつ人になりたい。
漣のように、誰かのために、正しいこと、言うべきことを、自分が矢面に立つことになってでも言える、厳しい優しさを持つ人になりたい。
そんな気持ちで、言葉を紡いだ。
「——私も、優しい、優しい人になりたい」
その瞬間、隣で漣がふっと笑った。
「それは無理だろ」
は?と私は彼を睨み返す。せっかくいいこと言ってたのに、話の腰を折るな。
「すげえ顔」
彼はおかしそうに声を上げて笑った。
「お前のひねくれは筋金入りだからな、そうそう簡単には治らないだろ」
私はむっとしたものの、確かにそうかもしれない、と思った、何年もかけて培ってきたこの卑屈な心は、なかなか手強そうだ。
そんなことを考えて少し落ち込んでいると、漣が「でも」と続けた。
「まあ、いいんじゃね? 真波は真波で」
突然柔らかい言葉を向けられて、油断していた私は硬直してしまう。
そんな私をじっと見つめながら、漣は少し照れたように小さく言った。
「……それに、お前は、優しくないこともない……と、思わなくもないよ……」
「……どっち?」
思わず首を傾げる。彼は無視して続けた。
「……あと、俺、前に真波のこと嫌いって言ったけどさ、今は、まあ、その、そんなに嫌いでもない……こともないこともないよ」
「……だから、どっち?」
漣は「知らね」と呟いて立ち上がった。そのまま波打ち際を歩き始める。
「えっ、ちょっと、待ってよ!」
呼び止めても、彼は少しもスピードを緩めずにずんずん歩いていく。
「漣ー」
必死に追いかけているとき、ふいに、足下に打ち寄せる波が、ぱっと弾けるように、ほんの一瞬、黄緑色に光った。
私は「えっ」と驚いて立ち止まり、目を向ける。でも、今は光は見えない。
気づいた漣が「どうした?」と振り向く。
「……今、波が光った……気がした」
彼は首を傾げて海に目を向けた。
「夜光虫かな」
そう言って、足下に落ちていた小石を拾い、軽く放る。すると、石が音を立てて海面に触れたと同時に、波紋が広がるようにぶわっと水が輝いた。
「わっ、やっぱり光った!」
私は思わず声を上げた。
沖のほうから波が来ると、また揺れながら光が広がる。
「夜光虫って聞いたことはあったけど、初めて見た! こんな感じで光るんだね」
「うん。物理的な刺激で光るらしい」
靴を脱いで海に入った漣が、ざぶざぶと波を踏むように歩くと、それに合わせて蛍光色の光が瞬いた。
「わあ……綺麗……」
私も真似をして裸足になり、波間に足を踏み入れてみる。
黄緑の蛍光ペンのインクを散らしたみたいな、鮮やかな光だ。打ち寄せる波が輝く。この世のものとは思えない、幻想的で神秘的な光景だ。
「海が青白く光ってる写真は見たことあるけど、黄緑色なんだね」
「青白く光るのはウミホタルで、黄緑に光るのが夜光虫って聞いたことがある」
漣が楽しそうに光る水を蹴りながら言った。
「赤潮って学校で習っただろ。夜光虫は赤潮の原因になるプランクトンの一種なんだって」
私は記憶をたぐり寄せて、中学時代の教科書の記述をなんとか思い出す。
確か、プランクトンの異常繁殖で海や川が赤く変色する現象が、赤潮。プランクトンがエラに詰まったり、海水の酸素濃度を低下させてしまったりして魚が死んでしまうので、漁業に悪影響を及ぼす。
「……こんなに綺麗なのに、人や他の生き物を困らせることもあるんだね」
そう口に出してから、この言葉選びはふさわしくないな、と思い直して、言い方を変えた。
「誰かを困らせるものでも、こんなに綺麗に光って、見た人を感動させることもあるんだね」
漣が微笑んで、「そうだな」と答えた。
しばらく夜光虫が放つ光を眺めたあと、ふいに彼が口を開いた。
「……生きてたら、悲しいことも、苦しいことも、数えきれないくらい起こるけど。それでも俺たちは、ただ、今ここにあるすべてを引き受けて、受け入れて、生きてくしかないんだよな……。その悲しみや苦しみが、いつか自分の糧になって、いつか誰かの役に立つこともあるはずって信じて……。それが、生き残った者の責任だ」
自分に言い聞かせるような言葉だった。だから私はなにも答えない。
漣が海に落ちて溺れてしまったこと。ナギサさんに命がけで救われて、でもそのせいでナギサさんが亡くなってしまったこと。ユウさんが大事な人を失ってしまったこと。私のお母さんが、私を助けるために大怪我を負って、何年も意識が戻らないこと。
たった十六年ほどしか生きていない私たちでさえ、胸を抉られるような出来事に直面した。これから生きていく上でも、たくさんの苦しいことや、つらいことを経験するだろう。大事なものを失って、抱えきれないほどの悲しみに押しつぶされて、泣きながら悶える日もあるだろう。きっと人生とはそういうものだ。
どうして世界は、こんなにも、悲しいことで溢れているんだろう。
どうして神様は、こんなにも、苦しみばかり与えるんだろう。
大切なものはいつだっていとも簡単に奪われてしまうし、時にはどんなに悔やんでも取り返しのつかない罪を背負ってしまうこともある。
でも、胸をかきむしるほど悲しくても、息もできないくらい苦しくても、それでも私たちは、歯を食いしばって前を向いて、生きていかなきゃいけないんだ。明日を、未来を、信じていなきゃいけないんだ。
だって、私たちは、生きているんだから。この身体に、たくさんの人たちに守られてきた命が、確かに息づいているんだから。
ユウさんの優しさが、ナギサさんの愛が、漣の厳しさが、私にそれを教えてくれた。
抱えきれない思いを胸に、私は静かに海を見つめる。
この海には、神様がいるという。それなら、どうか、神様、と私は心の中で語りかける。
どうか漣を、ユウさんを、みんなを、幸せにしてあげてください。
たくさんの悲しみを抱いて、たくさんの涙を流して、それでもがむしゃらにあがきながら苦しみを乗り越えて、なんとか前を向いて生きている人たちを、幸せにしてあげてください。
どうか神様、お願いします。
——こんなに優しい気持ちになれたのも、誰かの幸せを心から願ったのも、生まれて初めてだった。
ふと視線を落とすと、波にさらわれた砂の上に、ピンク色のかけらを見つけた。幸せを呼ぶ貝殻。
指先でつまんで、手のひらに包み込む。
桜貝を集めよう、と思った。
たくさん、たくさん集めよう。できる限りたくさん集めよう。
そしてみんなの幸せを祈ろう。
——どうか、どうか明日の世界が、みんなにとって優しいものでありますように。
今までより、今日より、ほんの少しだけでいいから、明日の世界が、優しくありますように。
海に願いを込めて、私はひっそりと祈りを捧げる。
【完】