「……ねえ、お父さん」
 私はお母さんの顔を見つめながら呟く。
「私ね、ずっと気になってたことがあったの」
 目を上げてお父さんを見ると、「なんだ、言ってみろ」と返ってきた。
 私は深く息を吸い込み、そして吐いてから、意を決して口を開いた。
「——お母さんは、私のこと、愛してなかったんじゃないか、私はいらない子なんじゃないかって……」
 お父さんの顔色がさっと変わった。
「……どうして」
 目を見開いて、驚いたような、そして傷ついたような顔をしている。
「どうしてそんなふうに思うんだ?」
 声は弱々しかった。私は少し目を伏せて、「事故のとき」と続ける。
「あのとき、お母さんは……真樹だけ守ろうとして、私のことは……見向きもしなかったから、だから……」
「そんなことはない!」
 私が言い切らないうちに、お父さんが鋭く声を上げた。
「そんなわけないだろう!!」
 今まで見た中でいちばん怖い顔、いちばん厳しい口調だった。
 驚く私を、お父さんが強い瞳で見つめる。
「……警察から聞いた話だ。事故には目撃者がいて、当時のことを詳細に教えてくれた……」
 それからお父さんは、絞り出したような声で語り出した。
「あのとき、車が突っ込んでくることに気づいた母さんは、手を繋いでいた真樹を抱きかかえて転がって、なんとか車から逃れた。でも、背後で衝突音を聞いて、真波が轢かれてしまったことに気がついたらしい。真波は自分たちより先を行っていたから大丈夫だと思っていたんだろう。母さんは悲鳴を上げて、跳ね飛ばされた真波を追いかけた。でも、植木に落ちた真波を抱き上げようとした次の瞬間、事故に気づかずに走ってきた後続車に、はねられた。そのまま地面に叩きつけられて、頭を強打して……」
 私は言葉もなくお父さんの話を聞いていた。
 知らなかった。お母さんが私に駆け寄ってくれていたなんて。私が事故の衝撃で意識を手放したあと、お母さんは私を抱きしめようとしてくれていたんだ。
 私はお母さんに目を落とした。青白く、生気も力もない横顔。それは、自分の危険も顧みずに私を守ろうとしたからだったんだ。
「……母さんが怪我を負った経緯を知ったら、真波が自分のことを責めてしまうんじゃないかと思って、あえて真実を伝えなかったんだ」
 お父さんは両手で顔を覆い、苦しげな声で言った。
「でも、そのせいで真波が苦しんでいたことに、父さんは気づけなかった」
 ゆっくりと下ろされた手の向こうから、歪んだ顔が現れた。
「すまなかった……」
 私は首を横に振る。でも、言葉が出なかった。込み上げてくる涙が邪魔をした。
「でもな……母さんが真波と真樹を心から愛しているのは確かだよ。それは父さんが保証する。お前たちふたりが生まれてからどれほどの愛情を注いできたか、いちばん側で見てたのは父さんなんだから……。母さんは、本当に愛情深い立派な人なんだよ」
 お父さんが愛おしげな眼差しでお母さんを見つめている。
「こうなってからも……父さんがお前たちの話をすると、母さんは瞼をぴくぴくさせたり、指を震わせたり、少し反応することもあるんだ。耳は聞こえてるはずだから、なるべくたくさん話しかけてあげてくださいと先生がおっしゃってたが、きっと本当に聞こえていて、お前たちの話を聞けるのを喜んでいるんだと思う」
「え、お父さん、お母さんのお見舞いに来てたの?」
 私はいつも週末に真樹とふたりで来ていた。お父さんがお母さんに会いに来ていたなんて知らなかった。
「当たり前だろう。仕事の合間や会社からの帰りに、毎日寄ってるよ」
「えっ、毎日? 本当に? 全然知らなかった……。仕事が忙しいから来れないんだと思ってた」
「わざと時間をずらしてたからな」
「えー……」
 たぶんお父さんは、眠るお母さんに語りかける姿を私や真樹に見られるのが恥ずかしかったんだろうと思う。
「そっか、そうだったんだ……」
 細く開いた窓から柔らかい風が吹き込み、カーテンをさらさらと揺らす。その瞬間、ふいに映像が頭に浮かんだ。
 ふたりきりの静かな病室で、お母さんにひっそりと声をかけるお父さんのうしろ姿。
 それはとても悲しいけれど、優しくて愛に溢れた空間だった。
 私はお父さんのことをずっと、仕事人間で家族をないがしろにしていると思っていた。でもそれは、本当のお父さんがちっとも見えていなかったのだ。
 お父さんは無口で、必要以上には喋らない。でも本当は、親の反対を押し切って結婚するくらい、事故で意識不明のまま十年も眠り続けているお母さんに毎日会いに来るくらい、お母さんのことを愛している。
 そして、お母さんに毎日子どもの話をできるくらいに、私たちのことを見ていてくれた。きっと大事に思ってくれている。
 そう考えると、私を鳥浦の高校に進学させておじいちゃんの家に引っ越しさせたことも、漣と一緒に住んでいると知って地元に戻そうとしたこともすべて、私のことを心配してくれていたからなのだと、不思議なほど素直に信じられた。
 無口で不器用で、分かりやすい愛情表現なんてできないお父さんと、疑心暗鬼でひねくれていて、人の思いを素直に受け取れない私。だからすれ違ってしまっていたのかもしれない。
「真波とこんなふうに話せたのは、もう何年ぶりだろう。母さんのおかげかな……」
 お父さんが呟いた、そのときだった。
 点滴に繋がれたお母さんの左手の小指が、ぴくりと動いた。
 気づいた私は、驚いて視線を上げ、お母さんの顔に目を向けた。瞼が小さく震えている。
 私とお父さんは、固唾を呑んでお母さんを見守る。時間が止まったようだった。
 しばらくして、青白い瞼が少し、ほんの少しだけれど、薄く開いた。
「え……」
 思わず声を上げてしまう。今までに経験したことがないくらいに、胸が激しく動悸していた。次の瞬間、お母さんの瞼はすうっと閉じた。
 そして、その拍子に、閉じた瞼から、透明な涙が一筋、こぼれ落ちた。
 それきりお母さんは動かない。安らかな寝息だけが聞こえてくる。
「お母さん……今、目、開けた? 開けたよね!?」
 私は慌ててお父さんを見た。お父さんは、これ以上ないくらいに目を見開き、お母さんを凝視していた。
「洋子……!」
 小さく叫び、お父さんが椅子から立ち上がった。
「洋子!!」
 お父さんはお母さんの身体にすがりつき、声を上げて泣いた。
 その様子をしばらく眺めていた私は、思わず笑みをこぼしながら、音を立てないようにそっと立ち上がって病室をあとにする。
 十年以上もの間、意識が戻るのを毎日ひたすら待ち続けたお父さんを、お母さんとふたりきりにしてあげよう、と思ったのだ。
 それに、私にも、私のことを待ってくれている人がいる。
 部屋を出るときちらりと振り向くと、お母さんの枕元で、桜貝の貝殻が淡く光を放ったような気がした。
 どうか、どうかお願いします、お母さんを——。誰にともなく、私は祈った。